小見の方

夫である斎藤道三(右)と娘婿の織田信長/wikipediaより引用

斎藤家

道三の妻にして信長の義母~小見の方を知れば明智家や斎藤家がわかる

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『言継卿記』の中に重大な記述あり

その後、小見の方の活躍については史料から姿が消えてしまいます。

わかっていることは……前述のように天文18年(1549年)、娘の帰蝶が信長と結婚したことです。

彼女は信長の義母となりました。

ただし、その時点では斎藤家が健在であり、交流が頻繁にあったとは思えません。

そして娘を織田家に娘を送り出してすぐの天文20年(1551年)、小見の方は39歳の若さで亡くなってしまうのです。

『美濃国諸旧記』にはそう記されております。しかし……。

近年になって貴族・山科言継(やましなときつぐ)が記した日記『言継卿記(ときつぐきょうき)』に興味深い記述が発見されました。

注目すべき記述は永禄12年(1569年)の7月27日と8月1日。

まずは7月27日から見てみましょう。

7月27日の日記

「信長が、すでに故人となっていた斎藤義龍の持っていたツボを差し出すよう何度も帰蝶(濃姫)に言ってきたらしい。

しかし、帰蝶(濃姫)が『そのツボは稲葉山城が落ちたときに紛失したものだし、それでも寄越せと言うならわたし(帰蝶)やその兄弟姉妹16人で自害する。また美濃の国人衆30人余りも自害する』と信長に告げると、結局『それならそのツボは紛失したということで…』と信長が折れ、無事に解決した」

続いて8月1日分の日記へ。

8月1日分の日記

「信長と会って礼を言った。

すると彼は、これから姑(小見の方?)のところに、ツボの一件が解決したと礼に行くというので、その屋敷まで同行した」

この二つの記載は一見すると「良くも悪くも戦国らしい夫婦のおもしろエピソード」ぐらいに思われるかもしれませんが、歴史学的にも非常に価値のある一節。

姑とは言うまでもなく「妻の母」にあたります。

この件で「妻」といえば濃姫ですから、彼女の母、つまり小見の方となります。

しかし、永禄12年(1569年)の7月27日と8月1日というのは、既に小見の方が亡くなっているはずの時期です。

この矛盾はどういうことか?

 

永禄12年時点で小見の方も帰蝶も生存していた

答えは単純ですね。

『美濃国諸旧記』と『言継卿記』という二つの史料のうち、そのどちらか、あるいは両方がウソ(誤記)だという可能性が高いということです。

内容からしてどちらも真実――という状況はありえないことを前提に先へ進みましょう。

「どちらも、あるいはどちらかウソをついている」という可能性。

それは我々が目にする歴史の記述、どんな史料にも言えることです。

しかし、この二つの史料には「信ぴょう性」という点で大きな差があります。

というのも、冒頭でも説明したように『美濃国諸旧記』は江戸時代に作成された史料で誤りを多く含む一方、この『言継卿記』は戦国時代の公卿・山科言継という人物によって同時代に書かれた史料です。

言継は戦国武将とも広く交流しており、戦国時代を研究するうえで避けては通れない一級文書とされています。

となれば、どちらを信じれば良いか?は明らかでしょう。

小見の方は永禄12年時点で生存しており「信長に離縁された」「病死した」などと囁かれた娘の帰蝶も、まだ織田家中で大きな影響力を有していたと考えるべきです。

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