真田信之/wikipediaより引用

真田家

真田信之(信幸)父が昌幸、弟が幸村という真田継承者の苦悩~93年の生涯

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本田平八郎忠勝の女婿となる

父・昌幸が知略の限りをつくし、難局を乗り越えようとする中。

真田家の奮闘は、周辺大名からすれば厄介な存在でした。

北条、徳川、上杉――この三者間で従属と離反を繰り返す態度に対して、断固として鉄槌を加えねばならない!と徳川勢が立ち上がります。

しかし、その結果跳ね返されてしまいます。

第一次上田合戦】です。

この戦いでは、真田信幸も目覚ましい武勇を見せつけました。

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真田を力づくて潰すことは困難である。

こうなると、どうすればよいか? 各勢力の思惑が絡んできます。

天下人として、九州はじめ西日本を攻めたい豊臣秀吉としては、東日本で騒乱が続くことは望ましくありません。

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徳川と真田が睨み合っていては困る。

天下の秩序を収めるとアピールするためにも、ここは外交的解決が望ましい。

そこで、かような交換条件が考えられました。

◆真田家は羽柴秀吉に従属する「小名」(のちに豊臣大名)とする

◆かつ徳川与力

この同意は、昌幸、家康、そして秀吉の三者の意向があってのものとみなせます。

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そうなると、それを示すためにもうってつけの手段が婚礼。そこで選ばれたのが昌幸嫡男・信幸でした。

彼の最初の妻・清音院殿は、信綱の遺児にあたります。イトコ同士での婚礼であり、嫡流の血を残したい配慮によるものでした。

それを乗り越えるように、二人目の縁談が決まります。

相手は、小松殿(小松姫)でした。

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家康の有力な譜代家臣・本多忠勝むすめです。

家康の養女説もありますが、確定しているとは言えません。

猛将の血を引くことや逸話の数々から、髷を掴む婿選びを始め、逸話が多いこの婚礼。

フィクションとしては面白いものですが、政治の所産であることは忘れないでおきたいところです。

この婚礼の時期は諸説ありますが、天正15年前後とされています。

政治的な結婚の結果で、運命が変わったことも確か。正室とは一人だけとみなせるものかどうか、実は諸説があります。

そうはいえども、こんな結婚の意図を思えば、小松殿が大切にされたことは確かです。

義父が恐ろしいという設定は、フィクションでは大いにあり、かつ面白いものです。

それは抜きにしても、粗略に扱えるわけもありません。

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しかし、真田嫡流の正室として生きてきた、そんな清音院殿。その気持ちを想像すると、気の毒になってくることは思います。

それでも、ご心配なく。

フィクションでの小松殿は、ともかく強くて、恐ろしい女性として描かれます。漫画『殿といっしょ』(→amazon)の彼女はいい味を出していますよね。

それはそれとして、史実での小松殿は気配りのできる、寛大な女性像が伝わっています。

そんな彼女のもとで、信幸とその家族は幸福な暮らしを送っていたと示す史料もあります。

政治的な動機とはいえ、信幸にとってこの結婚生活は実りあるものとなったのでした。

信幸には、三男二女が生まれています。

長男・信吉をのぞくと、小松殿が母とされています。長男の母は不明ですが、清音院殿の可能性が高いんですね。

 

豊臣政権での真田兄弟

婚姻は、運命の分かれ道でもあります。

彼の弟である真田信繁真田幸村)の正室は、豊臣政権中枢を担っていた大谷吉継の女・竹林院です。

大谷吉継イメージ/絵・富永商太

つまり兄は徳川派で、弟は豊臣派。

道筋は、関ヶ原よりもはるか以前についていました。

天正壬午の乱が終結し、豊臣大名となった状況下で、真田一族の支配体制はこうなりました。

◆信濃上田領3万8千石を支配:真田昌幸

◆上野沼田領2万7千石を支配する:真田信之

=合計6万5千石

父子の関係性は、保たれてはいる。

そうであっても、公役負担と本拠の屋敷は別です。

※左(赤)の拠点が上田城で、右(黄)が沼田城

文禄3年(1594年)11月には、信幸と信繁の兄弟は、秀吉から従五位を授けられています。

兄は伊豆守、弟は左衛門佐です。信幸の家と、昌幸・信繁の家が別個存在する構造となっていたのでした。

豊臣政権が一体のままであれば、兄弟の道は別れなかったかもしれません。

しかし、そうはなりません。

昌幸二人の子が、豊臣政権の元で豊臣と徳川に分かれる運命は、関ヶ原の前からあったのでした。
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