真田信之の生涯を史実から振り返る|父の真田昌幸、弟の真田信繁(幸村)と離れ、徳川家康のもとで真田の血筋を守り抜いた生き残り術に注目

真田信之/wikipediaより引用

真田家

真田信之の生涯|父の昌幸や弟の信繁(幸村)と別れ 戦国を生き抜いた知略とは?

2024/10/16

実績については素晴らしいものがある。

されど、目立たない。

周囲の人間たちがド派手な活躍をしたがゆえに、割りを食って歴史の陰に埋もれがちな人。

その代表として戦国時代から一人挙げたいのが真田信之です。

激しい領土争いや政争で勝ち残って大名として出世し、さらに当人は93歳まで生きた。

万治元年(1658年)10月17日はその命日です。

それにしても

父・真田昌幸

弟・真田信繁(真田幸村)

と比べたときの印象の弱さよ……。

大河ドラマ『真田丸』では大泉洋さんが演じたことにより、以前と比べて遥かに知名度は上がりましたが、実際の事績や活躍となると、注目されることは滅多にありません。

そこで本稿ではバッチリ追ってみたい。

真田信之/wikipediaより引用

史実の真田信之は、なぜいつも正しい選択をできたのか?

📚 戦国時代|武将・合戦・FAQをまとめた総合ガイド

 

真田家の嫡流になった源三郎

真田信之や真田幸村の祖父にあたる真田幸綱(幸隆)。

真田幸綱(真田幸隆)/wikipediaより引用

彼は武田信虎時代の武田家と対立し、晴信(後の武田信玄)時代に出仕しました。

幸綱の後を継ぐことになった真田昌幸は三男であり、真田家の嫡流ではありません。

猛者揃い武田氏宿老として、小県と北上野支配を担う真田本家ではなく、武藤家を継いでいました。

武藤喜平尉と名乗る昌幸は、知勇兼備の一武者として活躍していたのです。

永禄10年(1567年)頃、幸綱が隠居すると、家督は嫡男の真田信綱に譲られました。

そして天正元年(1573年)、武田信玄、没。

翌天正2年(1574年)には後を追うようにして幸綱も息を引き取ります。

かくして、武田勝頼と信綱の時代が始まるのですが……。

天正3年(1575年)に長篠の戦いが勃発。

この激戦で真田家当主だった真田信綱と、その次弟・真田昌輝が戦死してしまいます。

真田信綱/wikipediaより引用

真田一族のみならず、武田家臣の多くが失われました。

こうなると勝頼としても、幼い信綱の男子に真田家を任せるわけにはいきません。

そこで運命の激変したのが信之・幸村兄弟の父・真田昌幸。

一族の当主は、武藤氏を継いでいた三男に託されることになったのです。

 


前当主の娘と婚姻

昌幸の嫡男である源三郎こと真田信之は、永禄9年(1566年)に生まれておりました。

母は山手殿。

出自は諸説あり、菊亭晴季のむすめという説もあります。

同説は確定までには至っておりませんが、いずれにせよ『京都から来た女性ではないか?』と目されています。

面白いのは2016年大河ドラマ『真田丸』でしょう。

高畑淳子さん演じる、薫という貴族の女性が昌幸の妻であり信之の母。

この薫には、

【自称・菊亭晴季の女だが、本当はそこまでセレブでもない京都出身の女性。都でくすぶるよりも、武田家臣に嫁ぐことにした】

という設定があったものです。諸説を混ぜ合わせて遊び心をふりかけたようなイメージですね。

まだ幼いこの少年は、真田家嫡流の後継者となりました。後に真田信之となる幼い少年の運命は、武田家とともに激変を迎えるのです。

こうした激変と同時に、婚約も決まったのでしょう。

彼の正室は、イトコにあたる真田信綱のむすめ・清音院殿です。

長篠の戦いで亡くなった元当主・真田信綱の娘を娶らせ、その間の子を次の後継者とすることで、正当性を高める狙いを感じます。

そんな源三郎は、天正7年(1579年)で元服を果たし、「信幸」と名乗るようになります(後に信之となる)。

ここで、ちょっと気にしておきたいことがあります。

それは父・昌幸の【昌】と、子・信幸の【信】です。

武田家での名は、一門、譜代、国衆といった有力者には【信】、それより家格が下であると【昌】がつきます。

昌幸の代では長兄のみが信綱であり、その下の者たちは【昌】から始まる名が与えられました。

つまり名付けからも「信幸」が真田家嫡流となったことがわかるのです。

かくして、真田一門を背負うと定められた信幸。

武田家嫡男・信勝13歳での元服にあわせ、主君とともにお歯黒付けを行いました。

このときから父の昌幸は安房守と名乗るようになり、父子ともども武田家臣として気合が入る――そんな歳となっています

武田勝頼(上)と北条夫人(下左)、そして武田信勝の肖像画/wikipediaより引用

この後、武田家が存続していれば、信之は祖父・幸綱や父・昌幸のように、主君を支える宿老となっていたことでしょう。

前述の清音院殿との婚礼も、元服頃に行われたと思われます。

しかし、信幸が信勝を支える日は訪れることはありませんでした。

 

武田家滅亡「天正壬午の乱」

天正9年(1581年)末。

勝頼は躑躅ヶ崎館から新府城への本拠を移転します。

そして激動の天正10年(1582年)を迎えました。

織田勢の侵攻が本格化すると、武田勝頼の妹婿であった木曾義昌や武田の重臣・穴山信君(梅雪)が織田方に裏切り、窮地に陥ったのです。

穴山信君/wikipediaより引用

運悪く、浅間山噴火という天変地異も重なりました。

そして3月、武田勝頼とその妻子が自刃。

信幸が共に元服を果たした信勝も、命を散らしました。

そしてこのあと、徳川・北条・上杉が激しい争奪戦を繰り広げた【天正壬午の乱】において、強国に囲まれた真田昌幸の家族は、激動の運命を迎えます。

信幸の弟である弁丸(のちの真田信繁)が、史料上確認できるのはこの頃からです。

彼は人質として大名や国衆の元を転々とすることになります。

その一方、嫡男たる信幸は初陣を果たします。

天正壬午の乱の最中、17歳で戦場に出向き、勇猛果敢な若武者として名を轟かせました。

時に父も諌めるほど果敢に進軍を果たし、父の一里から半里を先んじて進み、その智勇は近隣でも知られるほどだったと言います。

問題は天正壬午の乱において、どこに従属し戦うのか――。

その決定権は父の昌幸にありました。

真田昌幸/wikipediaより引用

天正13年(1858年)頃から、真田信幸は沼田領の支配を任されたとみなせます。

彼自身の名による、文書の発給が見られるのです。20歳前後となった信幸は、相応の判断力を備えていたのでしょう。

大叔父、叔父はじめ、多くの一族の支えもありました。

 

本田平八郎忠勝の女婿となる

父・昌幸が知略の限りをつくし、難局を乗り越えようとする中。

真田家の奮闘は、周辺大名からすれば厄介な存在でした。

北条、徳川、上杉――この三者間で従属と離反を繰り返す態度に対して、断固として鉄槌を加えねばならない!と徳川勢が立ち上がります。

しかし、その結果跳ね返されてしまいます。

【第一次上田合戦】です。

この戦いでは、真田信幸も目覚ましい武勇を見せつけました。

※以下は第一次上田合戦の関連記事となります

第一次上田合戦
第一次上田合戦|真田昌幸が魅せた戦術の妙 徳川軍を翻弄した“智略”とは?

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真田を力づくて潰すことは困難である。

こうなると、どうすればよいか?

各勢力の思惑が絡んできます。

天下人として、九州はじめ西日本を攻めたい豊臣秀吉としては、東日本で騒乱が続くことは望ましくありません。

豊臣秀吉/wikipediaより引用

徳川と真田が睨み合っていては困る。

天下の秩序を収めるとアピールするためにも、ここは外交的解決が望ましい。

そこで、かような交換条件が考えられました。

◆真田家は羽柴秀吉に従属する「小名」(のちに豊臣大名)とする

◆かつ徳川与力

この同意は、昌幸、家康、そして秀吉の三者の意向があってのものとみなせます。

そうなると、それを示すためにもうってつけの手段が婚礼。そこで選ばれたのが昌幸嫡男・信幸でした。

彼の最初の妻・清音院殿は、信綱の遺児にあたります。イトコ同士での婚礼であり、嫡流の血を残したい配慮によるものでした。

それを乗り越えるように、二人目の縁談が決まります。

相手は、小松殿(小松姫)でした。

小松姫/wikipediaより引用

家康の有力な譜代家臣・本多忠勝のむすめです。

家康の養女説もありますが、確定しているとは言えません。

猛将の血を引くことや逸話の数々から、髷を掴む婿選びを始め、逸話が多いこの婚礼。

フィクションとしては面白いものですが、政治の所産であることは忘れないでおきたいところです。

この婚礼の時期は諸説ありますが、天正15年前後とされています。

政治的な結婚の結果で、運命が変わったことも確か。正室とは一人だけとみなせるものかどうか、実は諸説があります。

そうはいえども、こんな結婚の意図を思えば、小松殿が大切にされたことは確かです。

義父が恐ろしいという設定は、フィクションでは大いにあり、かつ面白いものです。

それは抜きにしても、粗略に扱えるわけもありません。

しかし、真田嫡流の正室として生きてきた、そんな清音院殿。その気持ちを想像すると、気の毒になってくることは思います。

それでも、ご心配なく。

フィクションでの小松殿は、ともかく強くて、恐ろしい女性として描かれます。漫画『殿といっしょ』(→amazon)の彼女はいい味を出していますよね。

それはそれとして、史実での小松殿は気配りのできる、寛大な女性像が伝わっています。

そんな彼女のもとで、信幸とその家族は幸福な暮らしを送っていたと示す史料もあります。

政治的な動機とはいえ、信幸にとってこの結婚生活は実りあるものとなったのでした。

信幸には、三男二女が生まれています。

長男・信吉をのぞくと、小松殿が母とされています。長男の母は不明ですが、清音院殿の可能性が高いんですね。

 


豊臣政権での真田兄弟

婚姻は、運命の分かれ道でもあります。

彼の弟である真田信繁(真田幸村)の正室は、豊臣政権中枢を担っていた大谷吉継の女・竹林院です。

大谷吉継イメージ/絵・富永商太

つまり兄は徳川派で、弟は豊臣派。

道筋は、関ヶ原よりもはるか以前についていました。

天正壬午の乱が終結し、豊臣大名となった状況下で、真田一族の支配体制はこうなりました。

◆信濃上田領3万8千石を支配:真田昌幸

◆上野沼田領2万7千石を支配する:真田信之

=合計6万5千石

父子の関係性は、保たれてはいる。

そうであっても、公役負担と本拠の屋敷は別です。

※左(赤)の拠点が上田城で、右(黄)が沼田城

文禄3年(1594年)11月には、信幸と信繁の兄弟は、秀吉から従五位を授けられています。

兄は伊豆守、弟は左衛門佐です。信幸の家と、昌幸・信繁の家が別個存在する構造となっていたのでした。

豊臣政権が一体のままであれば、兄弟の道は別れなかったかもしれません。

しかし、そうはなりません。

昌幸二人の子が、豊臣政権の元で豊臣と徳川に分かれる運命は、関ヶ原の前からあったのでした。

 

真田家の天下分け目

豊臣政権は、秀吉の死後に崩壊を迎えます。

こうした中、真田家は劇的な運命を迎えた一族として知られています。

慶長5年(1600年)、会津の上杉景勝討伐を目指していた徳川家康は、石田三成の挙兵を知り、引き返すことにしました。

このとき、三成は各大名に西軍へ着くよう訴えかけていたのです。

石田三成/wikipediaより引用

真田昌幸もその一人。

昌幸が宿所に我が子二人を呼び寄せ、対応を協議する名場面――これを「犬伏の別れ」と呼びます。大河ドラマ『真田丸』では第35話でしたね。

この場所、実は宿が「犬伏」として有名でしたが、実際は「天明てんみょう」であったと最新の研究では目されております。

だいたい3キロほどの差ですね。

いずれにせよ、栃木県佐野市であることは確かです。

昌幸と信繁が西軍についた動機は、いろいろな憶測がされてはおります。

江戸期以来、東西に分けて家の存続をはかることが独特だと考えられたものです。

たいした智謀だとされてはおりますが、この決戦で東西分裂したのは真田家だけではありません。

しかし、婚礼関係や昌幸と徳川との関係性を分析すれば、いきなり思いついたことではないとご理解いただけるでしょう。

昌幸と信幸は父子とはいえ、領地経営でも別です。

姻族関係でも、信幸は徳川、信繁は豊臣に分かれているのです。この分裂は、極めて自然なことではあるのです。

そうはいっても、父子、兄弟の分かれです。

それはドラマチックであると、後世のものがフィクションで想像する、ふくらませるのは自由ですよね。

もうひとつ、この天下分け目において、信幸がらみのエピソードがあります。

それは沼田城にやってきた舅・昌幸を、小松殿が追い払ったというものです。

これも複数の説があります。

◆他の大名妻子のように大阪におり、かつ大谷吉継の庇護下にあった。沼田城には不在である

◆これに先んじ、信幸が女中改として、性質を含めた女性たちを自領に戻していた。撃退は可能である

複数の説があるのであれば、フィクションではどちらを採用しても自由です。

『真田丸』におけるこのときの小松殿のシーンは、なんとも爽快感がありました。

いずれにせよ信幸には苦渋の決断。

彼は徳川秀忠につき従いました。

その先の真田領で待っていたのは、父と弟であります。

徳川秀忠
vs
真田昌幸&信繁

【第二次上田合戦】として知られる合戦ですが、実は評価が難しいものとされております。

かつては、関ヶ原で数少ない、西軍が強い爽快感があるものとされてきておりました。

このせいで、最大の兵力を持つ徳川秀忠が屈辱的な足止めをくらったとされていたのです。

しかし近年、それはどうなのか?と、疑念が呈されています。

・秀忠軍は足止めをされたとはいえ、誇張されるほどの損害はない

・秀忠が間に合わなかったというよりも【関ヶ原の戦い】が一日で終わったことのほうが予想外の事態だった

・秀忠遅参の一因であることは確かではあるが、他にも要因はある

・前提として、攻城戦は時間がかかるものである

・秀忠は家康の命令を受けて撤退しており、これを撃破とは言い切れない

こうした史実をふまえ、ちょっと冷静に評価すべきというあたりに落ち着いていたのが『真田丸』でした。

あのドラマの描き方は、巧みな構成と脚本によって十分楽しめたものの、そこまで秀忠を叩きのめしたわけでもありません。

史実からはみ出しても、もっと派手にしてもよかったのではないかという意見もありました。

徳川秀忠/Wikipediaより引用

では、このときの信幸は?

昌幸が砥石城に入れていた軍勢を退いたため、ここに入りました。

そのため、彼自身の軍勢は、上田城攻めには参加していません。

真田一族同士の対戦は回避されたのです。

その後はご存知のとおり【関ヶ原の戦い】がわずか一日にして決着を迎えたのでした。

関ケ原合戦図屏風/wikipediaより引用

 


徳川幕府体制での信幸

このあと徳川方の勝利に従って、信幸の人生は転機を迎えます。

父と弟の助命嘆願を信幸が行なったという逸話は、魅力があるものです。

ただし、この時点で家康側が昌幸・信繁父子の首まで欲しがっていたか、わかりません。

明らかなことは、信幸が何かを嘆願していたことです。

◆改易しないこと

◆上田領および上田城の確保

状況的にはこのあたりとされています。

その結果、次のような着地点を迎えました。

◆上田領の確保

→決戦の地となった上田領の確保に成功。その復興を担う

◆高野山追放となった父と弟を見送る

→生活必需品を送っていたとみられる

高野山に追放された昌幸と信繁の境遇には、同情を感じる方も多いことでしょう。

彼らだけではなく、その処置に追われた信幸の苦労も偲ばれるというものです。

高野山での昌幸・信繁父子の暮らしは、辛いだけではありませんでした。

信幸や小松殿の気遣いもあり、趣味や酒を楽しむことはできたようです。信繁は、余った時間のおかげで連歌を楽しむこともできたとか。

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これも、優しい兄あってのことでした。

そうはいっても、多くの家臣がついていったこともあり、生活費が間に合っていたというわけでもありません。

昌幸と信繁は、仕送り増額を信幸に頼み込んでおりました。それが叶わない時は、借金もしていたのです。

この生活苦が、大坂の陣における信繁の行動の一因となったのでしょう。

徳川新政権の動きに関しては、どうにも信幸は過小評価か過大評価がされがちかもしれません。

くどいようですが、彼が本多忠勝の女婿であり、早い段階で徳川に近かったことをお考えください。

そんな信之に真田領を引き続き統治させることは、寛大である以上に効率的なのです。

本多忠勝の肖像画

本多忠勝/wikipediaより引用

実際、信幸には人脈がありました。

・本多忠朝(本多忠勝二男)

・井伊直政

・城昌茂

中でも、義父・本多忠勝との交流は篤いものがありました。

忠勝は愛娘である小松殿を気遣っていることが、残された書状からもわかります。

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忠勝は草津での湯治を好んでおりました。

草津湯の管理は信幸の管轄ですので、ここでも関係がうまれるわけです。

こうした交流から、人当たりが良く、誠実な信幸の姿が見えてきます。

乱世を生き抜くのであれば、昌幸の性質こそがふさわしいかもしれません。

一方で太平の時代となれば、信之こそが適していたのかもしれない。そんな父子の違いを想像させます。

 

「大坂の陣」もうひとつの真田一族

領国では家臣団の再編成を進める。

大名としては、幕府の要望に答える。

親族には、生活の援助や精神的なケアをする。

そんなよき大名であり、家庭人でもあるのが信幸でしょう。彼には、父・昌幸の死を契機に心境の変化があったようです。

慶長17年(1612年)、昌幸は流刑先で死を迎えました。

赦免の望みが消え、失意のまま迎えた最期。この年に、最後の「信幸」署名が確認されているのです。

彼は「信之」と改名します。

父の死を契機に、一人で真田家を背負う気持ちが強まったのかもしれません。

そしてその二年後、別の家族との別れも迫ってきます。

慶長19年(1614年)。

【大坂の陣】勃発――。

このとき、49歳であった信之は病気療養中でした。

長寿のためか。真田信之には健康的なイメージがあるかもしれませんが、実は中年期以降はしばしば病気療養をしていたことが窺えます。

幕府は、本人ではなく嫡子・真田信吉を参陣させてもよいと許可を出しました。

信之は吾妻の家臣に出陣の準備を整えるよう、指令を出したのです。

それと重なる時期に、九度山から信繁が脱出し、嫡子・大助ともども大坂を目指していたのでした。

信之の子である信吉22歳、信政18歳は、これを初陣として大坂へと向かっていきました。

大坂夏の陣図屏風

大坂夏の陣図屏風/wikipediaより引用

兄弟は、本田忠朝率いる組に加わり、徳川秀忠の元で戦うことになります。

配下の将兵が出陣した吾妻に、信之は気を配らなければなりません。妻の小松殿は、我が子が戦功をあげられるかどうか、心配していました。

そんな信之の耳に、信繁が大坂入りした一報が届き、果たしてどんな心情になったでしょう。

配流先の生活苦をふまえ、逆転のチャンスを狙っていた弟を理解したのか、しなかったのか。複雑な気持ちではあったことでしょう。

この劇的な真田一族について、逸話も残されています。

信繁が甥の軍勢に気づくと、攻撃をやめたという話ですが、これは後世の創作です。

信吉・信政兄弟は、家康・秀忠を感心させるだけの戦功をあげたと伝わります。

「大坂の陣」の主役である真田といえば、信繁と大助父子ばかりが取り上げられます。

それだけではなく、信吉・信政もよく戦っていたのです。このときの、もう一方の真田の苦難も、知られるべきでしょう。

幕府による大坂方残党の捜索は、徹底したものでした。

真田家臣からも、有力宿老であった宮下藤右衛門が粛清されています。信繁に通じた嫌疑によるものでした。

京都では、こんな唄が流行ったとされています。

「花のようなる秀頼様を 鬼のようなる真田が連れて 退きも退いたり加護島(鹿児島)へ」

ロマンチックな歌ではありますが、もしもそれが史実であれば、信之の血を引く真田も、タダでは済まされなかったことでしょう。

真田伝説が華々しく残っているということは、幕府が無害、ガス抜きとして咎めなかったということではないでしょうか。

真田幸村伝説はもちろん楽しいものではあります。

それが【花】だとすると、信之の真田家は【実】といったところでしょう。

信玄生存の頃は海津城として川中島を見守っていた松代城。信之が入城し、そのまま真田の本拠地となる

 


波乱万丈の長き一生

そんな誠実な信之ですが、彼自身の長寿や家庭環境もあったのか、辛い別れはいくつもりました。

家族との永訣です。

父・昌幸
母・山手殿
弟・信繁
弟・信勝
妻・小松殿
妻・清音院殿
義父・忠勝
義弟・忠朝
義弟・忠政
子・信吉
子・信政
子・信重
嫡孫・熊之助

当時で90過ぎまで生きたという、驚異的な長寿が一因でしょうか。

いずれも彼より先に亡くなられた者たちです。

彼の人生は、楽ではありません。

幕藩体制でも、真田家の基礎を気づくため、借金に悩まされながら、領地経営に尽くし続けました。

最晩年まで、嫡孫の死に伴うお家騒動に立会い、政治と縁が切れませんでした。

楽隠居すらできない運命であったのです。

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生活が困窮したものの、政治的な重圧はなかった父・昌幸と弟・信繁。

大名であり、生活は保障されているものの、最期まで政治から離れられなかった信之。

真田家の運命とは、なんと対照的なのでしょう。

万治元年(1658年)、やっと長い人生は終わりました。

享年93。

辞世は、次の通りです。

「何事も 移ればかわる 世の中を 夢なりけりと 思いざりけり」

乱世に翻弄された国衆・真田家を、大名として安定させた長い一生は、かくして終わりを迎えたのでした。

なお彼の死後、真田からは信之の忍従をぶち壊す、悪行三昧の者も出ております。

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小檜山青

東洋史専攻。歴史系のドラマ、映画は昔から好きで鑑賞本数が多い方と自認。最近は華流ドラマが気になっており、武侠ものが特に好き。 コーエーテクモゲース『信長の野望 大志』カレンダー、『三国志14』アートブック、2024年度版『中国時代劇で学ぶ中国の歴史』(キネマ旬報社)『覆流年』紹介記事執筆等。

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