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【真田信之】
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本田平八郎忠勝の女婿となる
父・昌幸が知略の限りをつくし、難局を乗り越えようとする中。
真田家の奮闘は、周辺大名からすれば厄介な存在でした。
北条、徳川、上杉――この三者間で従属と離反を繰り返す態度に対して、断固として鉄槌を加えねばならない!と徳川勢が立ち上がります。
しかし、その結果跳ね返されてしまいます。
【第一次上田合戦】です。
この戦いでは、真田信幸も目覚ましい武勇を見せつけました。
※以下は第一次上田合戦の関連記事となります
第一次上田合戦で魅せた真田戦術の凄さ~徳川軍相手に昌幸が仕掛けた策とは?
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真田を力づくて潰すことは困難である。
こうなると、どうすればよいか?
各勢力の思惑が絡んできます。
天下人として、九州はじめ西日本を攻めたい豊臣秀吉としては、東日本で騒乱が続くことは望ましくありません。
徳川と真田が睨み合っていては困る。
天下の秩序を収めるとアピールするためにも、ここは外交的解決が望ましい。
そこで、かような交換条件が考えられました。
◆真田家は羽柴秀吉に従属する「小名」(のちに豊臣大名)とする
◆かつ徳川与力
この同意は、昌幸、家康、そして秀吉の三者の意向があってのものとみなせます。
そうなると、それを示すためにもうってつけの手段が婚礼。そこで選ばれたのが昌幸嫡男・信幸でした。
彼の最初の妻・清音院殿は、信綱の遺児にあたります。イトコ同士での婚礼であり、嫡流の血を残したい配慮によるものでした。
それを乗り越えるように、二人目の縁談が決まります。
相手は、小松殿(小松姫)でした。
家康の有力な譜代家臣・本多忠勝の女です。
家康の養女説もありますが、確定しているとは言えません。
猛将の血を引くことや逸話の数々から、髷を掴む婿選びを始め、逸話が多いこの婚礼。
フィクションとしては面白いものですが、政治の所産であることは忘れないでおきたいところです。
この婚礼の時期は諸説ありますが、天正15年前後とされています。
政治的な結婚の結果で、運命が変わったことも確か。正室とは一人だけとみなせるものかどうか、実は諸説があります。
そうはいえども、こんな結婚の意図を思えば、小松殿が大切にされたことは確かです。
義父が恐ろしいという設定は、フィクションでは大いにあり、かつ面白いものです。
それは抜きにしても、粗略に扱えるわけもありません。
しかし、真田嫡流の正室として生きてきた、そんな清音院殿。その気持ちを想像すると、気の毒になってくることは思います。
それでも、ご心配なく。
フィクションでの小松殿は、ともかく強くて、恐ろしい女性として描かれます。漫画『殿といっしょ』(→amazon)の彼女はいい味を出していますよね。
それはそれとして、史実での小松殿は気配りのできる、寛大な女性像が伝わっています。
そんな彼女のもとで、信幸とその家族は幸福な暮らしを送っていたと示す史料もあります。
政治的な動機とはいえ、信幸にとってこの結婚生活は実りあるものとなったのでした。
信幸には、三男二女が生まれています。
長男・信吉をのぞくと、小松殿が母とされています。長男の母は不明ですが、清音院殿の可能性が高いんですね。
豊臣政権での真田兄弟
婚姻は、運命の分かれ道でもあります。
彼の弟である真田信繁(真田幸村)の正室は、豊臣政権中枢を担っていた大谷吉継の女・竹林院です。
つまり兄は徳川派で、弟は豊臣派。
道筋は、関ヶ原よりもはるか以前についていました。
天正壬午の乱が終結し、豊臣大名となった状況下で、真田一族の支配体制はこうなりました。
父子の関係性は、保たれてはいる。
そうであっても、公役負担と本拠の屋敷は別です。
※左(赤)の拠点が上田城で、右(黄)が沼田城
文禄3年(1594年)11月には、信幸と信繁の兄弟は、秀吉から従五位を授けられています。
兄は伊豆守、弟は左衛門佐です。信幸の家と、昌幸・信繁の家が別個存在する構造となっていたのでした。
豊臣政権が一体のままであれば、兄弟の道は別れなかったかもしれません。
しかし、そうはなりません。
昌幸二人の子が、豊臣政権の元で豊臣と徳川に分かれる運命は、関ヶ原の前からあったのでした。
真田家の天下分け目
豊臣政権は、秀吉の死後に崩壊を迎えます。
こうした中、真田家は劇的な運命を迎えた一族として知られています。
慶長5年(1600年)、会津の上杉景勝討伐を目指していた徳川家康は、石田三成の挙兵を知り、引き返すことにしました。
このとき、三成は各大名に西軍へ着くよう訴えかけていたのです。
真田昌幸もその一人。
昌幸が宿所に我が子二人を呼び寄せ、対応を協議する名場面――これを「犬伏の別れ」と呼びます。大河ドラマ『真田丸』では第35話でしたね。
この場所、実は宿が「犬伏」として有名でしたが、実際は「天明」であったと最新の研究では目されております。
だいたい3キロほどの差ですね。
いずれにせよ、栃木県佐野市であることは確かです。
昌幸と信繁が西軍についた動機は、いろいろな憶測がされてはおります。
江戸期以来、東西に分けて家の存続をはかることが独特だと考えられたものです。
たいした智謀だとされてはおりますが、この決戦で東西分裂したのは真田家だけではありません。
しかし、婚礼関係や昌幸と徳川との関係性を分析すれば、いきなり思いついたことではないとご理解いただけるでしょう。
昌幸と信幸は父子とはいえ、領地経営でも別です。
姻族関係でも、信幸は徳川、信繁は豊臣に分かれているのです。この分裂は、極めて自然なことではあるのです。
そうはいっても、父子、兄弟の分かれです。
それはドラマチックであると、後世のものがフィクションで想像する、ふくらませるのは自由ですよね。
もうひとつ、この天下分け目において、信幸がらみのエピソードがあります。
それは沼田城にやってきた舅・昌幸を、小松殿が追い払ったというものです。
これも複数の説があります。
◆他の大名妻子のように大阪におり、かつ大谷吉継の庇護下にあった。沼田城には不在である
◆これに先んじ、信幸が女中改として、性質を含めた女性たちを自領に戻していた。撃退は可能である
複数の説があるのであれば、フィクションではどちらを採用しても自由です。
『真田丸』におけるこのときの小松殿のシーンは、なんとも爽快感がありました。
いずれにせよ信幸には苦渋の決断。
彼は徳川秀忠につき従いました。
その先の真田領で待っていたのは、父と弟であります。
徳川秀忠
vs
真田昌幸&信繁
【第二次上田合戦】として知られる合戦ですが、実は評価が難しいものとされております。
かつては、関ヶ原で数少ない、西軍が強い爽快感があるものとされてきておりました。
このせいで、最大の兵力を持つ徳川秀忠が屈辱的な足止めをくらったとされていたのです。
しかし近年、それはどうなのか?と、疑念が呈されています。
・秀忠軍は足止めをされたとはいえ、誇張されるほどの損害はない
・秀忠が間に合わなかったというよりも【関ヶ原の戦い】が一日で終わったことのほうが予想外の事態だった
・秀忠遅参の一因であることは確かではあるが、他にも要因はある
・前提として、攻城戦は時間がかかるものである
・秀忠は家康の命令を受けて撤退しており、これを撃破とは言い切れない
こうした史実をふまえ、ちょっと冷静に評価すべきというあたりに落ち着いていたのが『真田丸』でした。
あのドラマの描き方は、巧みな構成と脚本によって十分楽しめたものの、そこまで秀忠を叩きのめしたわけでもありません。
史実からはみ出しても、もっと派手にしてもよかったのではないかという意見もありました。
では、このときの信幸は?
昌幸が砥石城に入れていた軍勢を退いたため、ここに入りました。
そのため、彼自身の軍勢は、上田城攻めには参加していません。
真田一族同士の対戦は回避されたのです。
その後はご存知のとおり【関ヶ原の戦い】がわずか一日にして決着を迎えたのでした。
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