歴史でモヤモヤするところ。
それは、過去の業績のみならず、ときには歴史人物の名前すら変化しかねないことでしょう。
例えば、真田幸村。
フィクションでの名称が先行し、史料で確認できる「真田信繁」は鳴りを潜めて久しいです。
2016年大河ドラマ『真田丸』では大胆にも、通常は信繁にして、【大坂の陣】でのみ幸村を使うという、勇気ある試みがなされていました。
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そして……。
本稿の主人公、真田幸隆――。
真田幸村の祖父にあたるこの戦国武将も、色々と変化を遂げる人物の一例です。
2008年大河ドラマ『風林火山』では佐々木蔵之介さんが好演されており、その名前も最新研究では
【真田幸綱】
とされています。
ゆえに本稿は【真田幸綱(ゆきつな)】で記載させていただきますことをご了承ください。
なお、女性名ですと戒名しか残りにくく、俗名はフィクションによりまちまちです。
幸綱の妻・恭雲院は『風林火山』で忍芽(清水美沙さん)。『真田丸』では、とり(草笛光子さん)。
そして、ややこしいのは名前だけでもありません。
そもそも真田一族って何者なのか?
そこから辿ってみましょう。
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真田幸綱(真田幸隆)の前に「国衆」とは?
大河ドラマ『真田丸』は画期的な作品でした。
ありがちな戦国大名の国盗り合戦ではなく、地域に根ざした「国衆」という概念をきっちりと見せたのです。
草刈正雄さんが演じた、幸綱の息子である真田昌幸。
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この昌幸は、主君である武田勝頼の前では「主人を守り抜く!」と告げる一方、我が子の前になると、「ありゃもう滅びるぞ」と宣言。
武田家滅亡後の進退に悩む姿が、視聴者へ鮮烈な印象を与えました。
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彼ら国衆は、自身の支配地域において、近隣の異なる国衆・領民と材木や水資源を奪い合い、民も共に殺伐としたサバイバルライフを送っておりました。
同じ武士といえども、ルーツを辿れば天皇まで遡れる名門大名と、国衆はまったくの別物。
そのことが、ドラマのストーリーに組み込まれていたのです。
さて、この国衆ですが。
そもそも彼らは何者なのか?という問題があります。
真田氏に限らず、諸国の地域武士たちは、ルーツをたどっても曖昧で出自がよくわかりません。ほとんど神話レベルの荒唐無稽な話もあるほどです。
それも無理はないでしょう。
実は【武士】自体が一体いつの誰を起源としているのか?ということもアヤフヤであり、ご興味のある方は以下の書籍に目を通されると日本史全体への理解が深まると思います。
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話を国衆に戻しまして。
ここで一応定義してきたいのは、「その土地を支配した、智勇に優れた武の一族」という認識です。
例えば黒田官兵衛こと黒田孝高にせよ。松前藩祖の武田信広にせよ。
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ご祖先様を辿れば「正体不明」となります。
他ならぬ真田一族もそれに近いものがありました。
真田一族、戦国の世で揉まれる
一般的に真田幸綱から認知されている真田氏。
そのご先祖さまとはドコの誰なのか?
信濃国にいた滋野(しげの)一族・海野(うんの)氏傍流――海野長氏の子が、真田氏の初代・真田幸春とされています。
幸春は鎌倉時代中期の生まれであり、その程度のことまでしかハッキリしておりません。
江戸時代に藩祖の系図を作る担当者はさぞかし困ったことでしょうが、我々はそこで悩む必要はないでしょう。
「真田一族のルーツ? 全くわからん!」と、『真田丸』で草刈正雄さんを真似して叫べば、それで問題ありません……というのは冗談にしても、同家の魅力は血ではなく、あくまで行動力と智勇です。
そんな真田一族が、戦国時代において実質的に確認できるのが、この真田幸綱からでした。
信玄よりも一回りほど年上
真田幸綱は、永正10年(1513年)誕生とされています。
幼名は二郎三郎。
後の主君・武田信玄の大永元年(1521年)生まれより、一回りほど年長となり、出生には諸説あります。
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【幸綱の出生諸説】
1. 海野棟綱(うんのむねつな)の長男
2. 同二男
3. 同孫
4. 同女(むすめ)が真田氏に嫁いだ、その子
いずれにせよ、海野棟綱の血縁者であることは間違いないでしょう。
当初は海野小太郎と称し、次第に支配地の真田を名乗るようになったとされています。
詳細は不明ながら、マトメるとこうなります。
・信濃小県郡を支配する国衆
・海野一族に仕え
・真田を支配した
そんな真田家ですが、当初は武田家と敵対関係にありました。
信玄の父・武田信虎がこの地の攻略に取り掛かったのです。
当初は、武田家の侵攻を食い止めた彼らでしたが、迎えた天文9年(1540年)の【海野平合戦】。
ここで海野氏と滋野一族は大敗北を喫するのでした。
真田幸綱もむろん海野氏サイドで戦っています。
【海野平合戦】
甲斐守護・武田信虎、村上義清、諏訪頼重、信濃国衆連合軍
vs
海野棟綱、根津元直等滋野三家(海野氏、禰津氏、望月氏)、真田幸綱等
結果、負けた海野氏と滋野一族は、上野憲政のもとへ逃げ込み、真田氏は上杉領の箕輪城主・長野業正を頼りました。
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本領を捨てねばならない屈辱。
それは真田一族の胸に深く刻まれたことでしょう。
幸綱はまだ30歳手前で、嫡男はわずか3歳ですから苦労がしのばれます。
なお、武田家に絡んだ諸勢力の戦乱について、地理的に混乱しそうな方は、
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