歴史でモヤモヤするところ。
それは、過去の業績のみならず、ときには歴史人物の名前すら変化しかねないことでしょう。
例えば、真田幸村。
フィクションでの名称が先行し、史料で確認できる「真田信繁」は鳴りを潜めて久しいです。
2016年大河ドラマ『真田丸』では大胆にも、通常は信繁にして、【大坂の陣】でのみ幸村を使うという、勇気ある試みがなされていました。
そして、本記事の主人公である真田幸隆――。
真田幸村の祖父にあたるこの戦国武将も、色々と変化を遂げる人物の一例です。
2008年大河ドラマ『風林火山』では佐々木蔵之介さんが好演されており、その名前も最新研究では
【真田幸綱】
とされています。
真田昌幸の父であり、つまりは信之や信繁(幸村)の祖父でもあり、天正2年(1574年)5月19日はその命日。
あの武田信玄の信濃進出を大いに手助けしたとされる。

真田幸綱(真田幸隆)/wikipediaより引用
真田幸綱の生涯を振り返ってみましょう。
「国衆」とは?
大河ドラマ『真田丸』は画期的な作品でした。
ありがちな戦国大名の国盗り合戦ではなく、地域に根ざした「国衆」という概念をきっちりと見せたのです。
草刈正雄さんが演じた、幸綱の息子である真田昌幸は特に存在感がありましたね。

真田昌幸/wikipediaより引用
この昌幸は、主君である武田勝頼の前では「主人を守り抜く!」と告げる一方、我が子の前になると、「ありゃもう滅びるぞ」と宣言。
武田家滅亡後の進退に悩む姿が、視聴者へ鮮烈な印象を与えました。
彼ら国衆は、自身の支配地域において、近隣の異なる国衆・領民と材木や水資源を奪い合い、民も共に殺伐としたサバイバルライフを送っています。
同じ武士といえども、ルーツを辿れば天皇まで遡れる名門大名と、国衆はまったくの別物。
そのことが、ドラマのストーリーに組み込まれていたのです。
さて、この国衆――そもそも彼らは何者なのか?
真田氏に限らず、諸国の地域武士たちは、ルーツをたどっても曖昧で出自がよくわかりません。ほとんど神話レベルの荒唐無稽な話もあるほどです。
それも無理はないでしょう。
実は【武士】自体が一体いつの誰を起源としているのか?ということもアヤフヤであり、ご興味のある方は以下の書籍に目を通されると日本史全体への理解が深まると思います。
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誰も知らないサムライの根源に迫る『武士の起源を解きあかす』が読み応え抜群だ
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話を国衆に戻しまして。
まず定義しておきたいのは「その土地を支配した、智勇に優れた武の一族」という認識です。
例えば黒田官兵衛こと黒田孝高にせよ、松前藩祖の武田信広にせよ、ご祖先様を辿れば「正体不明」となります。

黒田官兵衛/wikipediaより引用
他ならぬ真田一族もそれに近いものがありました。
真田一族、戦国の世で揉まれる
一般的に真田幸綱から認知されている真田氏。
そのご先祖さまは一体ドコの誰なのか?
信濃国にいた滋野(しげの)一族・海野(うんの)氏傍流――海野長氏の子が、真田氏の初代・真田幸春とされています。

真田の家紋としてお馴染み「六文銭」/wikipediaより引用
幸春は鎌倉時代中期の生まれであり、その程度のことまでしかハッキリしておりません。
江戸時代に藩祖の系図を作る担当者はさぞかし困ったことでしょうが、我々はそこで悩む必要はないでしょう。
「真田一族のルーツ? 全くわからん!」と、『真田丸』で草刈正雄さんを真似して叫べば、それで問題ありません……というのは冗談にしても、同家の魅力は血ではなく、あくまで行動力と智勇です。
そんな真田一族が、戦国時代において実質的に確認できるのが、この真田幸綱からでした。
信玄よりも一回りほど年上
真田幸綱は、永正10年(1513年)の誕生とされています。
幼名は二郎三郎。
後の主君・武田信玄の大永元年(1521年)生まれより8歳ほど年長となり、出生に関しては諸説あります。

近年、武田信玄としてよく採用される肖像画・勝頼の遺品から高野山持明院に寄進された/wikipediaより引用
【幸綱の出生諸説】
1. 海野棟綱(うんのむねつな)の長男
2. 同二男
3. 同孫
4. 同女(むすめ)が真田氏に嫁いだ、その子
海野棟綱の血縁者であることは間違いないのでしょう。
当初は海野小太郎と称し、次第に支配地の真田を名乗るようになったとされています。
詳細は不明ながら、マトメるとこうなります。
・信濃小県郡を支配する国衆
・海野一族に仕え
・真田を支配した
そんな真田家ですが、当初は武田家と敵対関係にありました。
信虎時代は攻略に着手していた
当初は武田家と敵対関係にあった理由は他でもありません。
信玄の父・武田信虎がこの地の攻略に取り掛かったのです。

武田信虎/wikipediaより引用
当初は、武田家の侵攻を食い止めた彼らでしたが、迎えた天文9年(1540年)の【海野平合戦】で海野氏と滋野一族は大敗北を喫してしまいます。
真田幸綱もむろん海野氏サイドで戦っていました。
【海野平合戦】
甲斐守護・武田信虎、村上義清、諏訪頼重、信濃国衆連合軍
vs
海野棟綱、根津元直等滋野三家(海野氏、禰津氏、望月氏)、真田幸綱等
結果、負けた海野氏と滋野一族は、上野憲政のもとへ逃げ込み、真田氏は上杉領の箕輪城主・長野業正を頼りました。

長野氏の拠点・箕輪城(群馬県高崎市)
本領を捨てねばならない屈辱。
それは真田一族の胸に深く刻まれたことでしょう。
幸綱はまだ30歳手前で、嫡男はわずか3歳ですから苦労がしのばれます。
民衆の要望でもあった晴信クーデター
武田信虎の軍勢により、信濃(長野県)を追い出された真田幸綱とその一族。
その翌年、思わぬ異変が起こります。
天文10年(1541年)に信虎が、嫡男・晴信(武田信玄)のクーデターにより、甲斐から駿河へと追放されたのです。
晴信こと後の武田信玄は家督を相続すると、急激に勢力を伸ばしていきました。
甲斐のクーデターは、支配層だけのものではありません。
民衆の要望も背後にあり「晴信こそが、新たな武田領の秩序をもたらす!」という期待のもと、行われたものであったのです。
領民たちは蹂躙されるだけの弱々しい存在ではない、ということですね。
ともかく家臣や領民たちの期待を背負い、武田家当主となった武田晴信。
甲斐から信濃へと侵攻し、こうなると越後の上杉氏としても何らかの手を打たざるを得ません。そこで武田氏に対抗するため、村上氏と同盟を結びました。

上杉謙信/wikipediaより引用
信濃の国衆にしてみれば、たまったもんではない状況です。
というのも信濃は小さな国衆が各地に点在している状態で、武田や上杉のようにまとまってはいません。
◆越後の上杉
↓
【信濃の諸勢力】
↑
◆甲斐の武田
これぞ戦国国衆のハードな世界。
自領を守るために真田としてはどうするか?
武田につくしかない――そう選択した真田幸綱は、武田家配下の国衆となることを決意します。
帰属した時期については諸説ありますが、天文10年(1541年)頃が妥当でしょう。
まさに晴信が信州へ進軍し始めた時期と一致しており、その勢いに乗じるタイミングとしては理想的でした。
ただ、ここで少し考慮しておきたいことがあります。
それは彼らの思考ルーチンが【他国を切り取る】ではなく【自領をいかに守り抜くか?】という点に重きが置かれていたことです。
大河ドラマ『真田丸』においても、幸綱の三男・真田昌幸はさんざん突っ込まれたものです。

真田昌幸/wikipediaより引用
「忠誠心はどうした」だの「考えがコロコロと変わる」だの、すべては生き残りに必死な「国衆だからこそ」そうなるのです。
昌幸の場合、当時から「表裏比興の者」と呼ばれましたが、別に彼に限らず「自領を守るためならなんでもする」のが国衆のリアルでしょう。
逆に大名にとっては、そんな国衆をキッチリと押さえ、支配下に置くことこそ大きな課題となります。
『信長の野望』では、武田領は全て同じ、一つの色で塗りつぶされています。
幸綱はじめ真田一族も、能力値が優れていればこそ欲しい。そんな人物のように思えます。
しかし、実際はそうなりません。
武田領、特に信州は国衆がモザイクのようにいる状態でした。
真田一族を味方につける真の狙いは、個人が優秀という以上に、地域の支配者である「国衆」だからなのです。
そこへ切り込んできた『真田丸』は、やはり素晴らしいドラマでした。
細かな詳細を見てみたい――という方はドラマの時代考証を担当した平山優氏の著作をご確認ください。
国衆から武田の宿老へ
本稿では、このあと武田晴信を信玄で進めます。
武田信玄についた幸綱は、その知略で多いに活躍することとなりました。
【攻め弾正】
【鬼弾正】
幸綱については、そんな異名も伝わっておりますが、軍記的には「ともかく強い」ということを強調したいのでしょう。
そこは横に置いといて、彼の手腕に注目しますと……。
幸綱が最も活躍したのは【調略】です。
各地の城や勢力を戦わずして味方の軍門に降らせる――それが抜群に得意でした。
◆天文20年(1551年)砥石城攻略
◆天文22年(1553年)葛尾城攻略
※躑躅ヶ崎館から葛尾城までは約150kmもの距離がある
いずれも攻め落とすには難所&要所であり、国境で揉まれてきた苦い経験が、調略で発揮されたのです。
また幸綱には、築城の技術も有しており、当時の築城名人は、それだけでも垂涎もののスキルでした。
そして幸綱の智謀は何より、主君・武田信玄にとっても好ましいものでした。
父・信虎の譜代ではなく、自分の勢いと一致する。
そんな真田幸綱の台頭が、どれほど心浮き立たせるものであったか。想像できるようではありませんか。
武田氏は、所属する国衆を「先方衆(さきがたしゅう)」と称していました。
しかし、真田氏は没落状態からの復活組であったこともあったのか、「御譜代同意(譜代衆と同等)」の待遇を受けるようになっていきます。
永禄4年は真田飛躍の年
こうした幸綱の活躍ラッシュの中、天文22年(1553年)。
真田氏はついに本領回復を果たします。
念願の土地に戻ると同時に、幸綱の三男・源五郎が人質として、武田氏の本拠地である甲府に送られます。
この源五郎は、奥近習衆(主君の身の回りの世話をする)となり、武田一門に連なる武藤氏の跡を継いで武藤喜兵衛尉と名乗ることとなります。
人質という慣習は、現代人からすると残酷なようにも思えます。
しかし、前述した国衆の性質を考えると合理性がある。
要は、離反の食い止めであり、忠誠心の篤いエリート家臣を育成する手段として機能していたのです。
幸綱は、川中島方面の攻略と防衛において、その存在感を発揮。
・弘治2年(1556年)雨(尼)飾城攻略
・永禄3年(1560年)海津城築城
・永禄4年(1561年)岩櫃城、岳山城、箕輪城、白井城、築城
次々に実績をあげておりますが、活躍の場は信濃だけではありません。
上野吾妻郡攻略においても、滋野一族・鎌原氏を支援し、嫡子・真田信綱とともに岩下城を攻略すると、岩櫃城に入り吾妻郡を掌中におさめたのでした。

真田信綱/wikipediaより引用
信玄に吾妻郡を任され上野へ
永禄4年(1561年)は、まさに真田飛躍の年でした。
一族の多大なる貢献を評価し、武田信玄は吾妻郡の支配を委ねます。
猛者揃い武田氏の宿老として、北上野支配を担ったのです。
真田一族は、本来の領地である小県よりも大きな土地を手にしました。
この真田のよる北上野支配は、真田一族の動きを把握するうえで非常に重要なポイントとなります。
永禄10年(1567年)頃、幸綱は隠居し、家督を嫡男・真田信綱にゆずりました。
そして七年後の天正2年(1574年)、享年62で息を引き取ります。
天正元年(1573年)に信玄の死を看取った、その翌年でした。
さらにその翌年(1575年)。
優秀な将として期待されていた真田幸綱の嫡男と次男も亡くなります。
真田と武田にとって悪夢のような3年間。
その締めくくりに起きたのが【長篠の戦い】でした。

長篠合戦図屏風/wikipediaより引用
三男・昌幸が真田を継ぐ
信玄が亡くなり、武田勝頼が家督を相続した武田家。
真田一族にとっても重大な岐路となったのが、天正3年(1575年)の戦いでした。
ご存知【長篠の戦い】です。
◆織田信長による鉄砲三段撃ちはあったのか?→無い
◆なぜ勝頼は無謀な突撃を繰り返したのか?→騎馬での突撃は無謀な作戦ではない
その辺の詳細は以下の記事にお譲りしますとして、
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「長篠の戦い」勝因は三段撃ちではなく天然の要害か|信長公記第121話
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真田視点で注目せねばならないのが跡継ぎの真田信綱と、その次弟・真田昌輝が戦死してしまったことでしょう。
当主とその候補が不在になった真田一族は、武藤氏を継いでいた三男・真田昌幸をその後釜に据えました。
真田信綱の男子が幼すぎたため、勝頼が昌幸を指名したのです。

武田勝頼/wikipediaより引用
真田喜平尉昌幸の【表裏比興の者】と呼ばれる波乱万丈の一生は、ここから始まります。
武田勝頼を支える昌幸の権限は、父と兄よりも重要なものでした。
領国一部の支配を司り、何代にもわたって仕えてきた宿老と同じ立場に並んだのです。
北上野を支配する、武田家の宿老として。
武田氏を支える知略に長けた家臣として。
武田氏滅亡後も、北上野を断固渡さぬ国衆として。
昌幸は生きていきます。
父の代から尽くし、幼い頃から間近で見てきた武田家。その滅亡が、いかほどショックであったか。
彼がどれほど、真田の土地と北上野、そして城を守りたいと願ってきたか。
「表裏比興の者」と罵られようが、調略に生きねばならなかったか。
それは父・真田幸綱の代から、受け継がれたものであり、真田にとって魂でもありました。誰に何を罵られようと、その覚悟に1ミリの迷いもなかったでしょう。
真田幸綱が取り戻し、真田昌幸がさらに発展させた真田一族。
リアルの戦場・最前線で培われたその知勇は、今後も多くの戦国ファンを胸アツにさせてくれるでしょう。
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【参考文献】
平山優『戦国大名と国衆』(→amazon)
平山優『武田三代』(→amazon)
平山優『真田信繁』(→amazon)
黒田基樹『真田昌幸』(→amazon)
黒田基樹『真田信之』(→amazon)
大石泰史編『全国国衆ガイド』(→amazon)
歴史群像編集部 (編集)『戦国時代人物事典』(→amazon)







