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【二条城】
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秀吉の建てた「二条第」
現在の中京区にあったとされる建物です。
やはり京都での拠点として作られたものですが、聚楽第完成までの中継ぎ的な位置だったようで、あまり記録が残っていません。
その聚楽第も見事に数年でぶっ壊されてますが……。
宣教師ヴァリニャーノがここへ宿泊したらしきことを書き残しているので、京都を見せつつ接待したいような相手への迎賓館のような使われ方もしていたと思われます。
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家康の建てさせた「二条城」
これまた家康が京都での拠点として造営を命じた場所です。
「今日からアンタが幕府のトップだからしっかりやれよ」という儀式(将軍宣下)が行われるなど、”京都における幕府の顔”というべきところでした。
それに伴って200年ほど放置プレイをされていました。
京都所司代(幕府から京都に出張してた役人)はここを使わず、別の見張りが設けられています。
なぜ一緒にしなかった。今だったら確実に「税金の無駄使い」として移民やマスコミの攻撃の対象になっていそうです。
そんな扱い+度重なる災害のおかげですっかり城というより廃墟状態になっていたそうですが、十四代・徳川家茂が上洛の際に使うことになったため、ようやく修復されました。
家茂は第二次長州征伐のときにも一度ここへ立ち寄っています。
江戸幕府の将軍としてかなり久々に二条城で将軍宣下を受けていますし、大政奉還の意思を明らかにしたのもここでした。
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「徳川幕府の始まりと終わりの地」と見ることもできますね。
ただの偶然の可能性もなくはないですが、慶喜ってこういう「家康が何かしたところた日に被せたかのような行動」を度々してるんですよね。
その後は現在に至るまで、家康の建てさせたものがずっと二条城と呼ばれています。
明治時代からは所属が役所になったり軍になったり宮内省(宮内庁の前身)になったり。結構たらい回しになってますね。
家康が大坂城をもてあましたのと同じような感情があったのかもしれません。
江戸城は皇居に作り変えてイメージを変えることができましたけれど、二条城を京都での御所にするわけにはいきませんからね。本家本元がすぐそこにあるのです。
一応、大正天皇が即位された際のパーティーが二条城で執り行われているので、放置されっぱなしというわけではないのですが。
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【参考】
国史大辞典
世界遺産元離宮二条城(→link)
二条城/wikipedia