絵・小久ヒロ

武田・上杉家

三条夫人(信玄の正室)は本当に高慢ちきな公家の姫だったのか?

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三条夫人って悪妻か?

軍神・上杉謙信と信濃の覇をめぐって合戦を繰り返し、ついには織田・徳川を倒すため軍を西へ進めた戦国の英雄・武田信玄

「甲斐の虎」と呼ばれたその手腕は最強の名を欲しいままにし、配下の者たちも四天王と称されたり、さらには武田二十四将として現代に伝わっておりますが、この武田一族・軍団について語られるとき、どうしても腑に落ちないことがございます。

それは信玄正室・三条夫人についての描写です。

公家の名門出ということを鼻にかけ、高慢ちきで嫉妬深い悪妻――。

世間では、そんなマイナスイメージが語られてきましたが、果たして事実なのでしょうか?
一体何を具体的根拠として、夫人はそのように描かれているのでしょうか?

イラスト・富永商太

イラスト・富永商太

大河ドラマ『真田丸』では、真田昌幸の妻・山手殿を女優の高畑淳子さんが演じられておりました。

真贋のほどはさておき、山手殿は一説に菊亭晴季の娘とされる公家の出。
そしてその姿が、ドラマの中でも滑稽に描かれているのは、皆さまよく知るところでありましょう。

一般に、戦国時代の公家というと、揶揄を伴って描写される傾向が強いです。

格式や先例にばかりしがみつき、大名達に寄りかかることでしか生きていけない、無能な旧勢力の象徴と申しましょうか。いわゆるステレオタイプの描写と言えましょう。
同じく公家の姫である三条夫人の否定的な描かれ方も、こういった傾向が間接的に影響していると思われます。

しかし、当時の公家は、決して一方的に戦国大名に依存するばかりの存在ではありませんでした。

 

近衛前久や寿桂尼、細川ガラシャの侍女だけではないハズ

戦国時代、京都からの情報は、大名が政治・軍事行動を起こす際の情報源として重宝されておりました。

また、それぞれに家業を持つ公家は和歌や礼法、学問の知識を請われて、武将たちに伝授し、それと引き換えに授業料として報酬を得ておりました。
いわば、両者の関係は「共生」と言った方が近いですね。

特に、信玄などのように公家の姫を娶れば、他より一歩抜きんでた格式と権威だけでなく京都とのパイプを手にできます。
それでもなお、各フィクションでは紋切り型の否定的・揶揄的なイメージで描写されることがほとんどで、特例といえば以下に記す彼・彼女らぐらいのものです。

織田信長や上杉謙信などの武将達と積極的に接近し、意欲的な政治活動を行なった近衛前久

今川氏親の正室にして今川義元の生母でありながら領国経営に携わり、「女戦国大名」と呼ばれた女傑・寿桂尼

細川ガラシャが味土野で幽閉生活を送っていた時に、彼女を傍らで支え、信仰でも深く結ばれていた、公家・清原枝賢の娘であるいと(洗礼名マリア)など。

果たして有能な公家は上記の3名ぐらいだったのでしょうか?

いいえ。
僭越ながら今回私は、その説に異を唱えながら、信玄の妻・三条夫人の生涯を振り返ってみたいと思います。

 

疑問1 信玄・三条夫妻は仲が悪かった?

信玄と三条夫人の夫婦は、元々何の共通点もないゆえに仲も悪い――と表現されることが多々あります。

しかし実際は、二人とも仏教への深い信仰、という大きな共通点がありました。
信玄の信仰心は、意地悪な見方をしますと「領地拡大のために偽装したもの」という指摘もございますが、それでも熱心に仏教を保護していたのは間違いなく、自身も大僧正としての位も有しておりました。

彼と同様、信仰心の篤い上杉謙信もそうだと思われますが、この時代に生きている戦国武将ならば、合戦での勝利や領土の拡大、軍事力の増強など、「現世利益」は完全には分かち難いものであったでしょう。そこで、政治・軍事のリアルと、自身の信仰心で、バランスを取ろうとしていたのではないでしょうか?

このように武将たちには純粋な信仰心だけでは済まない、実利を願う気持ちも付き物です。
象徴とも言える存在が、信玄も陣中の守り本尊としていた、戦いの守護神・勝軍地蔵でしょう。
地蔵菩薩というと、衆生を救う慈悲の化身という印象が強いかもしれませんが、武士が台頭する鎌倉時代になってからは戦勝祈願の軍神である地蔵菩薩が誕生し、数多の武士から尊崇も集めておりました。

信玄正室の三条夫人も、もとは信仰心に篤い公家である「転法輪三条家」の娘です。

しかも彼女は、通常の公家社会で信仰されていた天台宗だけでなく、臨済宗などにも帰依していた様子がうかがえます。
信玄が保護した快川和尚の言葉で、三条夫人の菩提寺が臨済宗・寺円光院に選ばれただけでなく、生前から帰依していたということも、述べられております。

もしも本当に彼女が鼻持ちならない貴族の女性で、夫のことを「甲斐の山猿」などと罵るような女性でしたら、わざわざその信仰までも、摺り合わせる必要があるでしょうか。

 

疑問2 家康正室・築山殿のイメージが踏襲された?

ほとんど具体的根拠及び文献もないまま長年に渡り、悪妻とされてきた三条夫人のイメージは、息子の武田義信が信玄に歯向かい、そして処罰されたことも、大きく影響しているのでしょう。

神君・家康公の名を貶めないよう、その正室・築山殿と息子の松平信康が処罰された話が、あたかも完全に2人の責任、特に築山殿が悪女であったことに原因を求めようとする構図(あるいは織田信長の責任)と、似ている気がしてなりません。

信玄を英雄として崇拝するあまりに、義信事件といういわば彼の影の部分を三条夫人になすりつけ、紋切り型の悪女として彼女一人に負わせようとしてはおりませんか?

武田信玄という稀代の英雄の騒乱だっただけに、夫人も、嫡男義信とセットで悪女とされた方が、後に描かれる物語の中で大衆を納得させやすいイメージだったハズです。

これとは対照的に、武田家の跡継ぎ(名代)となった武田勝頼の母・諏訪御料人が、ほとんど関連史料がないにも関わらず、常に美人薄命に描かれ、華奢なヒロインとして現代に伝えられているのも、同時に三条夫人の名を貶めるのに、影響している気がしてなりません。
そもそも、彼女達がまるで正反対の善悪形式で描かれているのも、その大きな証拠であると思われます。

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すべては、作られた物語。
それが読者や視聴者にとってスムーズに共感できるよう描かれているからこその悪妻イメージだと見ております。

また、こうした諏訪御料人の美人薄命のイメージが、一般読者に好まれやすいということも、大きいでしょう。

©富永商太武田信玄

イラスト・富永商太

 

疑問3 中央とのパイプも三条夫人の助力あればこそ

武田信玄というと、専ら甲信越方面における合戦ばかりが注目され、京方面への行動は無視されがちです。

しかし、信玄が中央政界での政治・軍事行動を起こすにあたり、三条夫人の助力は不可欠だったのではないでしょうか。
彼女の親戚筋を通じて得た公家や管領・細川晴元、そして本願寺顕如らとのコネクションは、確たる信頼を築くのに大変有効に働き、かつ信玄自身も、それをフルに利用したことが指摘されています。

そしてその大きな成果が、後年の信長包囲網でしょう。
残念ながら道半ばで死した信玄ですが、武田家が実際の軍事行動(西上)へ繋げるにあたり、三条夫人が姉の管領正室を通じて間接的な働きかけを行い、一役買っていたことは想像に難くありません。

そもそも、公家の姫と言いますと、何もできない、役立たずという見方が多々あります。
が、三条夫人にまでそれを当てはめるのは、いささか乱暴ではないでしょうか。
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