戦国武将の戦略・戦術は【城の展開】から探ると意外な事実が見えてくる――。
そんな視点から迎えた、シリーズ戦国武将の城・武田信玄。
前回の【第二次川中島の戦い(以下の記事参照)】では、
たった1つの山城(旭山城)が戦の趨勢を左右した 第二次川中島の戦いを振り返る
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武田・上杉両軍が硬直したまま動くに動けず、今川義元の仲介で両軍撤退となったところまでお送りいたしました。
では、武田信玄はおとなしく甲斐に帰ったの?なんて聞いたら、「戦国をナメるな! いぶし銀なワシを見くびるな!」と信玄公に一喝されるでしょう。
停戦の盟約など屁とも思っちゃいないのが、我らが信玄公。
早速、上杉方である北信濃衆の取り込みにかかり、緻密な攻城戦が行われました。
弘治3年(1557年)2月15日に信玄が葛山城を攻略したことで始まったとされる【第三次川中島の戦い】を見て参りましょう!
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真田兄弟の祖父が大活躍
第三次川中島の戦いで活躍するのは「真田幸隆」です。
現在は「真田幸綱」表示のほうが一般的ですかね。
皆さんご存知、真田昌幸の父ちゃんであり、真田信之や真田信繁(真田幸村)のじいちゃん。
彼等の本拠地は信濃の小県(ちいさがた)郡にあり、一時は北信濃の名主・村上義清に追放されて上野国(群馬県)に身を寄せたりしていました。
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信玄に二度も勝った戦国武将・村上義清!謙信を川中島へ呼び寄せる
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それが武田信玄の傘下に入った頃から徐々に盛り返し、しまいには調略だけで堅城「砥石城」から宿敵・村上義清を追い出し、積年の恨みを果たしたという筋金入りのアウトローです。
信玄は村上義清と対決していたときから幸綱を北信濃方面の先鋒として送り出していました。
まるで地獄から帰ってきたかのように六文銭の旗をチラつかせて北信濃に帰還した真田幸綱。
地元の国人衆は尋常じゃないサバイバル能力を認めたでしょうし、村上義清無き今、現状に不満を抱く彼らにとっては、お近付きになりたい人物だったことは間違いないでしょう。
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特に
「本家とうまくいっていない」
「相続が少ないわりに軍役が多い」
「現当主がバカだ」
といった現状に悩み多き「分家筋の国人衆」にとって真田幸綱は救いの神。
幸綱はそんな彼等に向かって説きます。
幸綱'sポイント
「悪いのは君じゃない。
村上や上杉なんぞを名主に仰ぐ無能な本家筋が悪い。
うち(真田家)なんか長年不遇だったけど武田に味方した途端に運が開けたんだぜ。
甲州人の下につくのが不服?それなら武田を利用してやると考えればいいのさ。
お館様も大いに構わないと言っている。
君も武田に味方してその不遇な生活とおさらばしようぜ」
実際、名主・村上義清に逆転サヨナラ弾を打ち込んだ地元出身の男の誘いです。
この説得力のある言葉に乗らない手はありません。
それに家名を残すことも家の大事です。
北信濃の国人衆がどちらに転んでも家名が残るように上杉と武田に別れる道を選んでも何の不思議もありません。
そして続々と武田方の味方になると申し出る国人衆が現れました。
彼らを総称して「信濃先方衆」と呼び、真田幸綱がリーダーとなって、その後の川中島の戦いを有利に進めて行くことになります。
手始めは葛山城だ
真田幸綱は第二次川中島の戦い後、早速、葛山城を拠点とする国人衆「落合氏」に調略を仕掛けます。
この葛山城は第二次のときには「旭山城」の付け城として上杉謙信も本陣を置いていた山城でしたね。
停戦の合意で旭山城はすでに破却されていますので、この葛山城が上杉の境目の城となります。
葛山城を拠点にしていたのは落合治吉(おちあいはるよし)という国人でした。
ここの当主がどうも分家の親戚衆とうまくいっていない――そんな噂を聞きつけた真田幸綱は、親戚衆を武田方に離反させることに成功。
葛山城攻略のお膳立てをしています。
これはほんの一例ですが真田幸綱が調略した北信濃国人衆は数多く、あまりに多過ぎて、いつ寝返りを約束したのかイマイチ分かっていない国人衆だらけです。
まぁ、そりゃ当然なんですけどね。
調略は内密にやるものです。
この第3回川中島の戦いよりずっと以前に調略に成功していた可能性もあり、主な例を挙げてみましょう。
鞍骨城の清野氏(埴科郡方面・以下「松代方面」で統一)
寺尾城の寺尾氏(松代北部)
春山城の綿内氏(須坂方面)
※本家の井上氏(井上城)ともめていた
鞍骨城と春山城は古くからこの地域の堅城として
「一に春山、二に雨飾、三に春山」
と数えられていた名城です。
武田方は幸綱の働きにより、戦わずして実に二つの堅城を手に入れたのです。
真田本城から松代方面へのルートを確保せよ
ここまで進めて、皆さんすでにお気づきでしょうか。
真田幸綱の調略先は松代方面が多い。
もちろん幸綱は信玄の指示通りに調略を仕掛けています。
では信玄の意図はどこにあったのでしょう?
地図をよぉくみると一本の筋が見えてきます。
そうです。
真田の本拠地、小県郡の真田本城から峠越えで松代方面に入るルートです。
第二次川中島の戦いのときにに、信玄の問題は善光寺平攻略ルートが犀川渡河に限定されることだ――と私は書きました。
しかし松代方面から寺尾城、春山城方面に向かい千曲川沿いに北上すれば、川中島や犀川を通過することなく越後方面へ進出することが可能になります。
これで武田信玄の戦略が大幅に広がったのです。
「さっさと攻め落とせ」信玄からの圧迫書状
破竹の勢いのように見える真田幸綱ですが、一人だけどうしても寝返らない国人がいました。
先ほど紹介した「一に春山、二に~」の二番目 ・雨飾城の城主、東条信広です。
雨飾城は、雨厳城とか尼巌城、あるいは尼飾城とも書きますね。
以下の画像がそうです。
おそらく東条家は結束が固く、調略の取っ掛かりとなる親戚同士の内輪揉めがなかったのでしょう。
さらに厄介なことに居城・雨飾城は三方が切り立った崖になっており、攻め口は尾根伝いの一つだけ。
攻め口が一つということは攻撃ポイントが限定されてしまうので守備側はそこだけを守ればいいので少人数でも戦えるのです。
一言でいえば要害堅固。
絶対に力攻めしたくない雰囲気がプンプン匂う城です。現地に行くと、今も漂ってます。
真田幸綱が調略に手こずっていると、案の定、甲府の武田信玄より催促の手紙が来ます。
要約するとこうです。
信玄's書状
幸綱へ
さっさと攻め落とせ
信玄より
って、怖っ!
この信玄の催促の理由ですが、考えられるのが上杉謙信の動向です。
謙信は、なんとこの時期、家臣同士の土地争いに嫌気がさし、すべてを放り出して高野山に旅立っているのです。
ここで信玄の大戦略を思い出してみましょう。
「謙信の留守を狙え!」
いわば絶好のチャンスなのです。
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この最大の機会に真田幸綱の調略が思わしくないとなればもう力攻めしかありません。
後詰め(謙信)は高野山の彼方です。
来るわけがありません。
城への力攻めは「愚策」の一つですが、武田信玄ほどの人物が下した「城攻め」の命令は、確実な情報収集に基づいて出されていたのですね。
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