武田・上杉家

第三次川中島の戦いは真田の調略と信玄の緻密な戦術が凄まじい!

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第三次川中島の戦い
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「さっさと攻め落とせ」信玄からの圧迫書状

破竹の勢いのように見える真田幸綱ですが、一人だけどうしても寝返らない国人がいました。

先ほど紹介した「一に春山、二に~」の二番目 ・雨飾城あまかざりじょうの城主、東条信広ひがしじょうのぶひろです。

雨飾城は、雨厳城とか尼巌城、あるいは尼飾城とも書きますね。

以下の画像がそうです。

写真左のもっこりした山が雨飾城

おそらく東条家は結束が固く、調略の取っ掛かりとなる親戚同士の内輪揉めがなかったのでしょう。

さらに厄介なことに居城・雨飾城は三方が切り立った崖になっており、攻め口は尾根伝いの一つだけ。

攻め口が一つということは攻撃ポイントが限定されてしまうので守備側はそこだけを守ればいいので少人数でも戦えるのです。

一言でいえば要害堅固。

絶対に力攻めしたくない雰囲気がプンプン匂う城です。現地に行くと、今も漂ってます。

真田幸綱が調略に手こずっていると、案の定、甲府の武田信玄より催促の手紙が来ます。

要約するとこうです。

信玄's書状

幸綱へ
さっさと攻め落とせ
信玄より

って、怖っ!

この信玄の催促の理由ですが、考えられるのが上杉謙信の動向です。

謙信は、なんとこの時期、家臣同士の土地争いに嫌気がさし、すべてを放り出して高野山に旅立っているのです。

ここで信玄の大戦略を思い出してみましょう。

「謙信の留守を狙え!」

いわば絶好のチャンスなのです。

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この最大の機会に真田幸綱の調略が思わしくないとなればもう力攻めしかありません。

後詰め(謙信)は高野山の彼方です。

来るわけがありません。

城への力攻めは「愚策」の一つですが、武田信玄ほどの人物が下した「城攻め」の命令は、確実な情報収集に基づいて出されていたのですね。

お城野郎ワンダーキャッスルジャパン20141218-7

©2014Google,ZENRIN

 

真田幸綱、痛恨のミス! 調略失敗からの~雨飾城攻城戦

力攻めを指示された真田幸綱は早速攻城戦へと取り掛かります。

そして何度か失敗しています。

落城までの経緯は記録にないので分かりませんが、「さっさと落とせ」という無茶な命令を出された真田幸綱もさぞかし困ったでしょう。

ここで真田幸綱は、おそらく上司の小山田虎満に相談したと思います。

小山田虎満は武田家譜代の直臣で、後に武田勝頼を裏切る小山田信茂とは別系統の小山田氏です。

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「上原」も名乗っていたので上原氏と紹介されることもありますが、同じ人物です。

この虎満は当時、信濃佐久にある「内山城」の城代でした。

その内山城も、切り立った崖の上に築城された山城で、虎満はこの内山城を攻城し、そのまま城代となりました。

雨飾城と似たような城の攻城経験があり、また雨飾城の攻略後、小山田虎満も雨飾城城代となって松代方面の指揮を執ったという経緯があるため、真田幸綱が小山田虎満に教えを乞い、攻城戦の実績がある兵を借りた可能性まで考えられます。

現代になって、雨飾城からは大量に焼けた米が発掘されたようです。

武田流攻城術の「放火」戦術が使われたのは間違いないでしょう。

城下町から何から放火しまくるという、武田の攻城戦はかなり酷い結果になることも覚えておくと、お城巡りの時の妄想も広がります(笑)。

 

武田左翼軍、猛攻開始!葛山城落城

雨飾城を落として善光寺平の南東部を固めた武田信玄は、早速、動きました。

上杉方が雪で動けない真冬を狙い、先ほどの旭山城の付け城「葛山城」に馬場信房を派遣して猛攻をしかけたのです。

馬場信房は武田家の譜代の家老で、この頃は松本城の前身「深志城」の城代でした。

松本から川中島までは結構な距離ですが、犀川沿いに下っていくと川中島の西方に出ることができます。その中間の位置に牧城まきじょうという信濃国人衆・西条氏の居城がありました。

信玄は、武田方の味方になった西条氏には松代方面に移ってもらって、牧城まで馬場信房を前進させます。

後に馬場信房はこの牧城を改修して武田流築城術のすべて注ぎ込んだ「牧野島城」を築城。

現在でも牧野島城の遺構はよく残っており、武田流築城術を学ぶのに訪れるべき城の一つです。

馬場信房に、この牧城から出て葛山城を攻めさせたのです。

お城野郎ワンダーキャッスルジャパン20141218-8

馬場信房(信春)の進軍ルート/©2014Google,ZENRIN

上杉軍という後詰めがいなければ、堅い葛山城でもあっさり陥落するものです。

実際、水の手を断ち切られ、火をかけられた落合氏の城兵はほぼ全滅したと言われています。

城の水の手というのは極秘中の極秘ですので、真田幸綱が調略した落合氏の親戚衆の手引きがあったのは間違いないでしょう。

このように「城の水の手を断つ」という攻城戦術を見たら内応者の存在を疑いましょう。

逆に内応者を得られないと雨飾城の攻城戦のように「水の手を断つ」戦術が使えず、苦戦する原因にもなるのです。

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