長野業正(長野業政)

長野氏の拠点・箕輪城(群馬県高崎市)

武田・上杉家

長野業正~あの信玄を六度も撤退させた逸話を持つ名将は「上州の黄斑」と呼ばれる

“れきしクン”こと、長谷川ヨシテルでございます。

一般的にはマイナーだけども、ご当地ではメジャーな戦国武将たちを取り上げていく当連載。

今回、ピックアップさせていただくのは、群馬県高崎市からエントリーの【長野業正(長野業政)】さんです!

諸説ありますが、国史大辞典では永禄4年(1561年)6月21日が命日。

「ながのなりまさ」さんと読み、戦国ファンからすると「マイナーじゃないよ」という印象かもしれませんが、世間にはほとんど知られてない人物ではないでしょうか?

まずは、当連載でおなじみ『信長の野望 革新』武将データから能力値をご紹介。

統率89
武勇78
知略86
政治60

強ぇぇぇぇ!

はい、強いんです!

そして、紹介文は次のような感じ。

山内上杉家臣。主家滅亡後も居城・箕輪城を守り、武田信玄の侵攻を6度に渡って撃退した。

「業正がいる限り、上州に手は出せぬ」と信玄を嘆かせた智将。

信長の野望革新/amazonより引用

かっちょえぇぇぇぇ!

はい、かっちょいいんです!

特に「武田信玄云々」の件、戦国好きとしてはタマラン一文になっています。

ちなみに、長野業正さんの家臣には“剣聖”と称された「上泉信綱(かみいずみ のぶつな)」がいました。

※以下は上泉信綱の考察記事となります

上泉信綱
剣聖・上泉信綱は信玄の誘いを断り修行へ出る~多くの剣豪を育てた新陰流の祖

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その武勇、なんと115!

長野業正さんと部隊を組んで戦えば、そりゃまぁ強かったわけで、50歳前後からの活躍が目覚ましかったことから、ゲーム好きには“スーパー爺(ちゃん)”などとも呼ばれています。なんかカワイイ!

また、江戸時代の軍記物では“上州の黄斑(おうはん=虎)”と称されています。

虎!これまたカッチョいい!

 

長野業正と箕輪城

なぜ私が長野業正さんのことをまとめようかと思ったか?

と言いますと、それは先日に居城の「箕輪城(みのわじょう)」に登城してきて、勝手に執筆熱が沸々としているためです!

10年近くぶりに行ってきたところ、発掘調査や整備が進み、城門が復元されるなど、見違えるような素晴らしい城跡となっていました。

現在は「日本100名城」に数えられていて、縄張り図(曲輪や堀、土塁などが記されたマップ)を持って広大な城域を歩けば、大満足間違いないでしょう。マジでオススメです。

箕輪城

発掘調査の結果を受けて復元された城門は、長野業正さんの時代より30年以上後に、井伊の赤鬼こと「井伊直政」によって建てられたものが基になっています。

「群馬県で?井伊直政?」という方もいらっしゃると思います。

実は、天正18年(1590年)に滅亡した北条家の替わりに関東に入った徳川家康が、上野(群馬県)の要衝である箕輪城に井伊直政を派遣して大改築を行なっているんです。

大規模な空堀や、一部残されている石垣などは井伊直政の時代に造られたものと言われています。

箕輪城

 

山内上杉家の重臣として

さてさて、この名城・箕輪城を居城とした長野業正さん。

生年は、延徳3年(1491年)もしくは1499年(明応8年)と言われています。

あの織田信長は天文3年(1534年)生まれで、業正のライバルだった武田信玄は大永元年(1521年)生まれですから、彼らと比べてめちゃくちゃ“お爺ちゃん武将”なんです!

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実家の上野長野家は、先祖を辿ると“美男子”の代表で“三十六歌仙”の一人である「在原業平」(平安時代の歌人)になるといいますが詳細は不明。

15世紀半ばからグッと勢力を伸ばしていったようで、長野業正さんが生まれる頃には「山内上杉家」の重臣となったみたいです。

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山内上杉家という文字が目に入り、スッと読み進められるのは、かなり関東戦国史がお好きな方かと思います。

一般的には、こちらもよく知られてませんので、簡単に解説させていただきますと……。

もともと関東地方は、京都の足利将軍家から派遣された足利一門がトップを務めていました。

トップは鎌倉に拠点を置かれ、役職名は「鎌倉公方」。

公方というのは「将軍」の意味なので、つまりは「関東の将軍」という意味合いです。

そのナンバー2にあたるのが「上杉家」でした。

この上杉家が4家に別れて、それぞれ屋敷があった鎌倉の地名の名前で呼ばれるようになりました。

本家にあたるのが「山内上杉家」です。

他の分家3家は

「扇谷(おうぎがやつ)上杉家」
「犬懸上杉家」
「宅間上杉家」

です。

扇谷上杉家の家臣には、江戸城を築いたことなどで有名な「太田道灌」がいますね。

 

内紛が勃発 37年間に渡って争い続ける

少し話が逸れてしまいましたが、長野業正さんの主家である山内上杉家や、扇谷上杉家が関東で権力を握るようになると、鎌倉公方の足利家は【享徳の乱】で同地方から追放されてしまい、古河(茨城県古河市)へ逃亡。

この後は「古河公方」と呼ばれるようになります。

古河城

「これで関東は山内上杉家の天下!」となりそうですよね?

いえいえ、ことはそう単純ではありません。

今度は山内家同士での戦いが勃発してしまいます。

既に「犬懸上杉家」と「宅間上杉家」は滅亡しており、それに対して「扇谷上杉家」は絶好調!

山内上杉家
vs
扇谷上杉家

という「長享の乱」が起こります。ドロドロ!

しかも超驚くことに、享徳の乱は享徳3年(1454年)から文明14年(1483年)の29年間、「長享の乱」は長享元年(1487年)から永正2年(1505年)の18年間、つまり合計37年間も行われているんです。ドロドロの極み!

ゴチャゴチャっとしたので、以下に簡単にまとめ。

◆1454〜1482年
「享徳の乱」
鎌倉公方
vs
山内上杉家&扇谷上杉家

◆1487〜1505年
「長享の乱」
山内上杉家
vs
扇谷上杉家

こうした関東騒乱での間隙を縫うようにして、進出してきたのがあの北条早雲(伊勢宗瑞)。

元々は今川家の客将として駿河(静岡県)から兵を進めた早雲が伊豆から関東へ出ると、その2代目・北条氏綱が、小田原城(扇谷上杉家の拠点だった)を拠点にして本格的に関東へと勢力を拡大します。

◆1493年?
北条早雲の伊豆進出

◆1500年前後?
北条早雲が小田原城を奪取

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ドロドロ合戦を続けていた山内と扇谷の両上杉家は窮地に陥り始めました。

小田原城

もはや関東は、大大大大、大戦乱!

今回の主人公とは直接関係ないお話のようですが、この主家の大ピンチに上州の要として忠義を尽くし、奮戦していくのが長野業正さんなんです。

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