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【滅敬】
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唐人医とは?
もう少し滅敬について考えてみましょう。
『どうする家康』では、中国を「唐」と呼ぶ家康が笑いものになる場面がありました。
信長が「明」だと訂正します。
日本では江戸時代まで中国は「唐」と呼びますので、あれは間違いというわけでもありません。
『鎌倉殿の13人』で上総広常が友達だという意味で覚えていた「武衛」(ぶえい)は、兵衛府(ひょうえふ)の唐名です。これを略して周囲は「佐殿」(すけどの)と呼んでいました。
日本では中国風の呼び方をしていた。それを教養不足の上総広常は気付けなかったのです。
おなじみの「太閤」も、太政大臣の唐名です。
このようにむしろ「唐」がおなじみの呼び方であり、訂正される必要があったとも思えません。
『鎌倉殿の13人』の時代背景では、貿易相手となる国は南宋です。しかし貿易船は「唐船」と呼ばれ、あえて宋とは誰も呼んでおりません。
ゆえに「唐人」といえど、実質的には明人であるのが減敬ということになります。
減敬は明人なのだろうか?
減敬が明人とは言い切れない。
『三河後風土記』では甲州浪人とされています。
本物の明人ではなく、明渡来の医術に長けた人物がそう名乗っていたという解釈もできます。
当時は今のような国籍の考え方をしません。このころ猛威を振るった【倭寇】を例に取りましょう。
現代人が考える国籍やルーツの捉え方で、こういう解釈をする歴史解説動画はみかけます。
「倭寇っていうけど実は中国人もいたってホント?」
当時の考え方を理解してないと、ややこしい話になります。
こうした要素があれば【倭寇】認定されます。
明朝では無許可貿易を禁じているため、日本と取引をすればそれだけでも違法集団【倭寇】になります。
国境そのものも曖昧で、明、朝鮮、そして日本を股にかけて活動する集団もいます。こうした時代背景において、国籍特定はそこまで重要でないようにも思えます。
明渡来の何かしらに関係する人物なのでしょう。
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