滅敬

滅敬として『どうする家康』に登場した穴山信君/wikipediaより引用

武田・上杉家

滅敬って一体何者なんだ!武田の穴山が扮する唐人医は実在したのか?

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ドラマ上の設定では最愛の妻・瀬名(築山殿)の死をもたらした穴山梅雪。そんな彼を厚遇する家康――。

しかも、築山殿の死後たった悪評に対し、それを防ぐ何の対策もしていないように思えます。

『どうする家康』のみどころとして喧伝される瀬名への愛とは、いったい何なのか。そこがわからなくなってきました。

 

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唐人医とは?

もう少し滅敬について考えてみましょう。

『どうする家康』では、中国を「唐」と呼ぶ家康が笑いものになる場面がありました。

信長が「明」だと訂正します。

日本では江戸時代まで中国は「唐」と呼びますので、あれは間違いというわけでもありません。

『鎌倉殿の13人』で上総広常が友達だという意味で覚えていた「武衛」(ぶえい)は、兵衛府(ひょうえふ)の唐名です。これを略して周囲は「佐殿」(すけどの)と呼んでいました。

日本では中国風の呼び方をしていた。それを教養不足の上総広常は気付けなかったのです。

和田義盛源実朝を呼ぶ「羽林」も、近衛大将の唐名です。

おなじみの「太閤」も、太政大臣の唐名です。

このようにむしろ「唐」がおなじみの呼び方であり、訂正される必要があったとも思えません。

『鎌倉殿の13人』の時代背景では、貿易相手となる国は南宋です。しかし貿易船は「唐船」と呼ばれ、あえて宋とは誰も呼んでおりません。

ゆえに「唐人」といえど、実質的には明人であるのが減敬ということになります。

 

減敬は明人なのだろうか?

減敬が明人とは言い切れない。

『三河後風土記』では甲州浪人とされています。

本物の明人ではなく、明渡来の医術に長けた人物がそう名乗っていたという解釈もできます。

当時は今のような国籍の考え方をしません。このころ猛威を振るった【倭寇】を例に取りましょう。

現代人が考える国籍やルーツの捉え方で、こういう解釈をする歴史解説動画はみかけます。

「倭寇っていうけど実は中国人もいたってホント?」

当時の考え方を理解してないと、ややこしい話になります。

・倭人の服装や髪型をしている。薄い頭髪が月代と誤認され逮捕された不幸な事例もあります

・貿易相手が倭国だ

・本拠地が博多など、倭国にある

こうした要素があれば【倭寇】認定されます。

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