山本勘助

山本勘助/wikipediaより引用

武田・上杉家

山本勘助の生涯|実在すら疑われていた隻眼の武将は信玄の参謀と言えるのか?

2025/02/18

戦国時代の甲斐武田家において隻眼の軍師として知られ、2007年の大河ドラマ『風林火山』では主役まで務めた山本勘助。

実は長いこと「実在の人物ではない」とされてきました。

史料から「これぞ」という確認ができないだけでなく、『甲陽軍鑑』で描かれる活躍があまりに出来すぎていて、創作と考えられていたのです。

しかし他ならぬ大河ドラマや歴史作品によって、その実像も少しずつ解明されてきています。

いったい山本勘助とはどんな人物だったのか?

山本勘助/wikipediaより引用

その生涯を振り返ってみましょう。

📚 戦国時代|武将・合戦・FAQをまとめた総合ガイド

 

そもそも軍師・山本勘助は実在したのか?

大河ドラマの主人公にもなりながら、実在すら疑われていた山本勘助。

キャッチコピーである“武田信玄の軍師”という言葉からして曖昧です。

「軍師」とは結局のところ何をするのか?

確固たる役職や条件があるわけでもなく……

・賢い

・主君の側にいる

・どちらかといえば力自慢ではない

といったイメージが先行するでしょう。

そうしたフィクションの影響から逃れられない、その代表格が『三国志』の諸葛亮です。

甲冑は身につけておらず、武器も手にせず、羽扇を手にしている。馬にまたがることもなく車に乗っている。武官ではなく文官であり戦術にはめっぽう強い。

中国の場合は、こうした「文官」のイメージが強くなりますね。

これが日本となると事情が変わってきます。

武士が政治の中心にもなった鎌倉時代、文官である「文士」は武士に吸収融合され、ハッキリとは区分されなくなった。

戦国時代の「軍師」をあえて挙げるなら、仏僧で戦場に立った太原雪斎がイメージに近いでしょうか。

太原雪斎

太原雪斎が開いた静岡県の臨済寺/wikipediaより引用

もともと日本の仏僧は武装することもあり、武の要素も強かったものです。

軍師ではなく「軍配者(ぐんばいしゃ)であろう」という解釈もできますが、それにしてもイメージが先行してフィクションで色んな要素が肉付けされたため、実態はよくわからない。

しかも、武田信玄の配下となれば、物語として創作もされるだろう……ということで、山本勘助も「想像の産物ではないか?」とされてきました。

 


実在はしたらしい でも何者なのか?

実在を疑われ続けた山本勘助も、昭和の後期になると、新たな史料が発見され「やはり実在の人物であろう」と認識されるようになります。

それは山本勘助なのか? あるいは山本管助なのか?

名前の確定も難しい最中、おおよそ以下のような人物像で認識されました。

・三河出身

・諱は晴幸→武田家臣の諱に「晴」の字は使用しないので、これは後世の創作

・隻眼で足が悪い→『甲陽軍鑑』によれば片目が悪く、手足のどこかが不自由であるが、ハッキリとはわからない

・武田信玄の軍師として活躍→江戸時代以降のキャラクター付の結果であり、軍配者=軍師とは言い切れない

『甲陽軍鑑』については「史料としてそのまま扱ってよいのか?」という論争もあり、ますます山本勘助という人物がわからなくなってきました。

少なくとも、歴史祭り、フィクション、ゲームに出てくる「隻眼に黒づくめの軍師」ではなかろう。

やはり架空の人物か……と処理されそうなとき、大河ドラマがここで役割を果たします。

大河の放送をキッカケに史料が見直され、人物像に変化が起きることがある――。

例えば、2013年大河ドラマ『八重の桜』では、ヒロイン八重の最初の夫・川崎尚之助もそうです。

彼は長いこと妻を捨てた卑怯者として認識されていましたが、それが史料の発見と解明により、誠意あふれた人物であったことがわかりました。

ドラマにはその実像が反映され、長谷川博己さんが名演を見せています。

兵庫県豊岡市にある川崎尚之助の墓(供養碑)/wikipediaより引用

この先例が1969年の大河ドラマ『天と地と』の山本勘助でした。

ドラマ放映中、釧路市で発見された「市河家文書(市川文書・信濃国地頭・市河氏が残した文書)」により

“山本管助”

という家臣が武田家に存在したことが確認されたのです。

“ヤマモトカンスケ”は実在した――と喜びたくなるかもしれまんせが、問題はあります。

果たして山本勘助と山本管助は同一人物なのか?

仮にそうだとしても『甲陽軍鑑』に登場する山本勘助は話が盛られているのでは?

そんな懸念は依然として拭えない状況ですが、それを前提に踏まえ、あらためて『甲陽軍鑑』を参考にしながら、山本勘助の生涯について振り返ってみましょう。

 

三河生まれの醜い牢人

山本勘助の前半生は謎に包まれています。

出身は三河国宝飯郡牛窪(愛知県豊川市牛久保町)。

生年は確定できず、明応2年(1493年)もしくは明応9年(1500年)とされます。

前半生は各地を放浪して、兵法を身につけたとされますが、この「兵法」も曖昧で、鬼一法眼の秘伝書を習得したという伝説があるのですが……。

鬼一法眼とは、源義経に『六韜』と『三略』を教えたという伝説の持ち主です。

何やらおどろおどろしい妖術のようなイメージを持たれるかもしれませんが、古典的な兵法書です。

そうかと思えば、山本勘助には「剣術を習った」という伝説もあります。

さらには築城術に加えて、外科手術まで学んだなんて話まで、色々と盛られ過ぎていて、よくわからないことになっているんですね。

勘助は、今川家臣・庵原氏のもとで食客として滞在しつつ、十年ほどの修行を経て、仕官を目指します。

相手は駿河国で家督を継いだばかりの今川義元。

今川義元(高徳院蔵)/wikipediaより引用

ここで義元に嫌われる過程が、あまりにベタと言いますか、往年のテレビドラマや少年漫画のようです。

むしろああした作品を根底に伝説があるのかもしれず、セリフの形式で今川義元の反応をまとめるとこんな感じです。

「片目で片足を引き摺っている、そんなみっともない男は要らん」

「城を持ったこともない未経験なんて雇用できませんね」

勘助は自ら立ち回る人でした。要するにテキパキとお供の手を借りず身の回りのことをこなすタイプ。

現代であれば、有能で良いではないか?となりそうですが、戦国時代は違います。

供回りを連れていて身の回りのことをやらせていないと、むしろ蔑まれる。

これは何も日本だけに限ったことではなく、重い武器甲冑の運搬や、馬の世話をする者は、貴人に侍るものでした。

勘助はあまりに身軽で、かえって軽んじられたというのです。

 

武田信玄に見出される

しかし、捨てる神あれば拾う神あり――23歳の武田信玄(出家前ながら本稿は信玄で統一)が興味を抱いたのです。

当時の武田家は築城術の技術者を求めていました。

そこでこれまたドラマチックなやりとりが展開されます。

若き信玄が頼りにする板垣信方がこう語ったとか。

板垣信方

板垣信方/wikipediaより引用

「駿河国庵原氏のもとにいる山本勘助なる食客が、築城の名手と噂になっております」

かくして信玄が勘助を呼び寄せると、色黒で醜男、隻眼で脚も悪い。

おまけに職歴なしでスキルのみ……そんな悪条件にも関わらず、信玄はこう言います。

「これほど悪条件が揃っているのに、他国まで名が聞こえるとはよほどのことであろう。百貫で召し抱えるとしておったが足りんな。二百貫でいかがであろう」

「ははーっ!」

あまりに出来過ぎた話ですが、かくして運命の出会いが果たされました。

これは勘助の能力アピールのみならず、同時に信玄を称える名君伝説でもあるのでしょう。

周囲から、大したことがないと過小評価されている人物の真の実力を見出す――これは『三国志』の劉備と諸葛亮をはじめ定番のストーリーでしょう。

『甲陽軍鑑』の書き手も、そうしたエッセンスを思い浮かべつつ、話を盛ったのかもしれません。

 


伝説のヒロイン・諏訪御料人と

山本勘助を主人公とする小説およびそれを原作とした大河ドラマ『風林火山』では、諏訪家の姫・諏訪御料人が運命のヒロインとして位置付けられています。

劇中では「由布姫」という名前がつけられ、山本勘助が叶わぬ思いを捧げているという設定。

彼女を信玄最愛の妻とした結果、継室の三条夫人が割を食うこともしばしばあります。

それはなぜか?

根源をたどっていくと、どうにも山本勘助伝説に関係があるのです。

諏訪頼重を滅ぼしたあと、残された姫がいた。信玄が側室にしようとしたところ、家臣たちは眉をひそめ、断固として反対します。

「滅ぼした家の姫を側に置くとは言語道断! よからぬことを吹き込まれ、武田に害するようなことがあればいかがなさるか?」

「そうだ。そんなことはいかがなものか!」

並みいる重臣たちを前に、勘助はここで堂々たる大演説をふるったとされます。

偉大なる殿に諏訪が恨みを抱くはずがない! マイナスどころかむしろプラスになるであろう!

と長広舌を振るったのです。

ただし、これは姫の弟だった寅王丸を無視しています。寅王丸は後に信玄暗殺を試み、処刑されました。

執筆当時は勘助の偉大さを讃える意図この大演説も、後世の人間からすればむしろ違和感があります。

肝心の姫への想いは置き去りで、ただの景品か何かのような扱いとなってしまっている……そこで作家たちはロマンスを肉付けします。

絶世の美女であるとか、信玄、あるいは勘助が惚れたとか。

そのため彼女には名前も設定されています。

井上靖は、執筆時に滞在した由布院温泉から「由布姫」。

新田次郎は、諏訪湖に注ぐ衣之戸川と諏訪湖を組み合わせ「湖衣姫」。

しかも彼女を母とする武田勝頼が家督を継いだことが、勘助の読み通りとされました。

武田勝頼/wikipediaより引用

むろん、史実をたどれば信玄は勝頼に家督を継がせる意思はなく、全く予期しない流れから嫡男だった武田義信を処断したことがわかります。

勝頼はあくまで中継ぎ、勝頼の後は信玄の孫を当主にしようとしていました。

このことが勝頼と家臣の関係に暗い影を落としてゆきます。

幸か不幸か、そんな未来を知らぬまま勘助は人生を終えるため、諏訪御料人伝説は強固なものとされました。

ただ、この伝説も2020年代に入った今では、あまり盛り上がらないのではないでしょうか。

どれだけロマンチックな美女像にしたところで、彼女が受け身であることは変わりません。

信玄なり勘助なりが、ヒロインにボーッとしている様も、視聴者には好まれにくくなっていると思えます。

なんせ2007年大河ドラマ『風林火山』の時点で、由布姫に呼びかける勘助を「姫しゃま、姫しゃま、しつこいわ」と揶揄する意見もありました。

ドラマに登場した架空のヒロイン・ミツの方が好きだという意見も多いものでした。

伝説の受け止め方も、時代によって変わるものです。

 

戸石崩れで危機を救う

このあと『甲陽軍鑑』では、勘助の顕彰について、ますます疑念を覚えるような内容となります。

諏訪・伊那・佐久地方をおさめた信玄は、北信濃の攻略へ乗り出す。

武田の前に立ち塞がるのは、葛尾城主の村上義清。

天文17年(1548年)2月、この村上義清と決戦のときが訪れました。

武田信玄は、雪を踏み締めながら躑躅ヶ崎館を出て、率いる兵は七千、目指すは小県郡、決戦の地は上田原……そう【上田原の戦い】です。

先鋒を務めるのは三千五百を率いる板垣信方です。

板垣と並び称される名将・甘利虎泰も出陣していました。

しかし、この戦いで武田勢は大敗を喫し、板垣甘利の両雄を失ってしまいます。村上勢が本陣まで突入し、信玄の左手を負傷させるほどでした。

信玄は、合戦後もすぐには陣を解かずにいたものの、再戦はできませんでした。諸勢力の反発が起きたのです。

近年、武田信玄としてよく採用される肖像画・勝頼の遺品から高野山持明院に寄進された/wikipediaより引用

このあと天文20年(1550年)にも、武田信玄は戸石城で村上勢に手痛い敗北を喫してしまいます。

【戸石崩れ】と呼ばれ、信玄二度目の敗戦として知られますが、そのままでは当然終わりません。

真田昌幸の父である真田幸綱(幸隆)の活躍により、砥石城を攻略して、さらには天文22年(1552年)に村上氏を葛尾城から追い出すと、越後の上杉景虎(上杉謙信)のもとに逃げ、その後は越後が宿敵となり続けました。

こうして振り返ると、信玄青年期の挫折となった村上義清との戦いで、勘助にも何らかの活躍がなければ伝説として盛り上がらない。

そこで、こんな活躍が伝えられます。

村上勢の追撃を受け、絶体絶命の信玄。ここで勘助が献策します。

「御館様、それがしに50騎を預けてはくださらんか」

「おお、やってくれるか、勘助!」

勘助の巧みな采配により、武田勢は反撃に成功。村上勢は逃げ散ってゆきます。

これぞ破軍建返し――まさしく勘助は摩利支天のようだと褒め称えられ、誰もがみな「勘助こそ稀代の軍師である」と舌を巻いた。

そして、この功により勘助は加増され、知行800貫の足軽大将となった……というのです。

ちなみにこの摩利支天は、大河ドラマ『風林火山』ではそのお守りを勘助の妻・ミツが身につけていました。創作として上手く取り入れた設定です。

 


啄木鳥の戦法通じず……川中島に散る

村上義清を打ち破り、次はいよいよ越後の龍・上杉謙信と対峙することとなる甲斐の虎・武田信玄。

この両雄がぶつかり合う戦いこそ、戦国時代のハイライトといえる【第四次川中島の戦い】です。

この激戦に山本勘助の名が刻まれます。

永禄4年(1561年)、上杉謙信は1万3千の兵を率い、妻女山に布陣、海津城に迫りました。

上杉謙信/wikipediaより引用

対する信玄も2万の兵を引き連れ、両軍は数日に及び対峙、膠着します。

いかにして勝敗を決するか?

「御館様、それがしに策がございます」

ここで勘助は、以下のような「啄木鳥の戦法」を披露します。

勘助と馬場信春が二手に分かれる

別働隊を妻女山に接近させる

夜明けに攻める

慌てて山を降りた上杉勢を、本隊が挟み撃ちにして勝利!

啄木鳥が嘴で木を叩くと、虫が中から飛び出すことから名付けられたこの戦術。

「おお、さすがは軍師殿!」

信玄はその策を用いることにしますが、敵もさるもの、作戦を察知した上杉勢は妻女山を降りていました。

しかもこの日は濃霧。

いるはずのない上杉勢の大軍に突如囲まれ、勘助もまた討たれてしまった。

享年69とされます。

大軍師の死は、その後、様々な演出がなされ、今日に至ります。

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武田家は漢籍教養を受容してきた

こうして『甲陽軍鑑』を辿っていくと、ある思いが浮かんできます。

誇張された勘助の人生は、要するに信玄伝説のスパイスではないでしょうか。

最初に書いたように、名将と軍師は中国の影響があります。信玄と勘助のエピソードの多くは、劉備と諸葛亮を基に創作されたのでしょう。

むろん、私の推察ではありますが、そうした気風が武田家にあったのではないかと思えます。

有名な風林火山は『孫子』の引用です。

そして武田信玄作の漢詩には、こんなものがあります。

武田信玄「偶作」

鏖殺江南十万兵

腰間一劍血猶腥

豎僧不識山川主

向我慇懃問姓名

鏖殺(おうさつ)す 江南十万の兵

腰間の一剣 血猶お腥(ちなまぐさ)し

豎僧(じゅそう)は識(し)らず 山川の主

我に向かって慇懃(いんぎん)に姓名を問う

江南の十万の兵を殺し尽くしてやった

腰に佩びた剣は、いまだに血なまぐさい

それなのに寺の小僧ときたら、

私のことを知らないのか、丁寧に名前を聞いてくるとは

この詩には不思議な点がありませんか?

いったい江南とはどこを指すのか?

甲斐でも信濃でもないとは……そこで注目したいのが次の漢詩です。

明太祖・朱元璋「無題」

殺尽江南百万兵

腰間宝劍血猶腥

山僧不知英雄漢

只顧曉曉問姓名

殺し尽くす 江南百万の兵

腰間の宝剣 血猶お腥(ちなまぐさ)し

山僧は知らず 英雄漢

只だ顧み曉曉として姓名を問う

江南の百万の兵を皆殺しにしてやった

腰に佩びた宝剣は、いまだに血なまぐさい

それなのに山にいる僧侶と来たら英雄を知らんのか、

丁寧に名前を聞いてきおった

誰かの作品を基にして別の作品を作ることは珍しいことではありませんが、ここまで酷似しているとなると、もはや明白。

朱元璋/wikipediaより引用

朱元璋は「百万」を「殺し尽くし」、「宝剣」を帯びていて、「山僧」が「英雄漢」を知らなかったとなっています。

信玄の場合は「十万」を「鏖殺」し、「一剣」を帯びていて、「豎僧」が「山川主」を知らないとある。

ちょっとスケールダウンしているんですね。

ならば「江南」も日本の地名にしてもよいのですが、押韻の関係もあったのか、そうはなっていない。

この漢詩は、武田家の中国をロールモデルにして自分なりにアレンジする姿勢が端的に出ていると思えます。

 


江戸時代に高まる武田ブランド

信玄が亡くなると、その後の武田勝頼も織田信長に攻め込まれ、戦国大名としての武田家は滅亡します。

しかし“武田”というブランドは生き残り、そのうちの一つに「甲州流軍学」があります。

徳川家康にも採用されますが、山本勘助は、そんな甲州流軍学のPRキャラクターとしてうってつけだったのでしょう。

徳川家康/wikipediaより引用

甲州流軍学およびそのフォロワーの形成が、日本史ならではのことといえます。

武田信玄も愛読した『孫子』。

その注釈は『三国志』でおなじみ曹操による魏武注が決定版とされています。

曹操の注釈が優れていたとも言えるのですが、ことはそう単純ではありません。

中国では、時代が降ると、文官上位が徹底された。

剣を手にするより、筆を手にする者のほうが上――こうなると、たとえば儒教の経典は、思想家たちがさまざまな注釈を入れます。

しかし、兵法書については難しい。

注釈そのものが忌避された結果、学問としてアップデートされることはなく、時代的にかなり古い曹操の魏武注が決定打となる。

現場で兵器や戦術の進歩、土地ごとの違いを踏まえて『孫子』を活用することで、勝利は掴めるとなりました。

兵法書は、あくまで実践でのアレンジありきとも言えますね。

孫子(カリフォルニア大学所蔵の写本)/photo by vlasta2 wikipediaより引用

一方で、官僚になれない文人たちは、作家になります。

例えば彼らが執筆した『三国志演義』のようなエンタメ作品では、実践に基づかない無茶苦茶な戦法で描かれ、マジシャンめいた軍師像が形成されてゆきます。

甲州流軍学も、こうした中国におけるエンタメのような発展をしていったといえます。

実践に基づいているとはいえず、ともかく派手にした結果、荒唐無稽になってゆく。

そのため徳川の権威が落ちていった幕末となると、胡散臭いものとして認識されてしまうのです。

新選組に武田観柳斎という人物がいます。

五番隊隊長も務め、それなりに重用されましたが、途中で脱退したためか、どうにもマイナスイメージがつきまとまいます。

そのために悪用されるのが、真偽不明の男色好みと、甲州流軍学です。

武田観柳斎は確かに近藤勇にブレーンとして重用されているので、賢い人物ではあったのでしょう。

しかしその賢い要素としてあえて甲州流軍学を持ち出すあたりに、彼を貶める意図も感じます。

だからといって、山本勘助なり、甲州流軍学なりを、荒唐無稽な妄想の類と片付けられはしないでしょう。

由来はどうあれ、武田の軍師は皆の憧れ。

中国語圏には、日本史ファンが数多くいます。

その契機となっているのがコーエーテクモゲームスの『信長の野望』シリーズであり、その中でも武田家は大人気。

「軍師」というキーワードを調べてみても、中国よりも戦国時代の人物が数多く並びます。

武士を重視した日本史の結果、エンタメの世界ではそれがプラスになっているんですね。

中国史を受容して発見さえてきた武田家ルーツのさまざまなことが、海と時代を超えて人気を得ている。

山本勘助はその中にいて、スーパーレア軍師として愛されているのです。

山本勘助を考えるとなると、実在論や何かから入ります。

それが歴史を学ぶということであり、正しいアプローチであることに間違いありません。

しかし、それだけでは見えてこないものもあるでしょう。

彼がどのように語り伝えられ、そこにはどんな意図や願望があったのか。時代によってどう受け止められたのか。

そこを読み解いてゆけば、色々な歴史も見えてくるはず。

『風林火山』を読み直す。大河ドラマを見返す。ゲームに出てくる性能を比較してみる。

そうして軍師像を考えてみるのも意義はあるのではないでしょうか。

中国の歴史とエンタメ、そして人々が諸葛亮を生み出したならば、日本には山本勘助がいる。

黒田官兵衛よりも創作が多いだけに、像も出来上がっていて、また別の作品にも登場することを楽しみにしてしまう。

これからもこの隻眼の軍師を愛してゆきたいと思うのです。

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【参考文献】
平山優『山本勘助』(→amazon
渡邉義浩『孫子―「兵法の真髄」を読む 』(→amazon
石川忠久『日本人の漢詩―風雅の過去へ』(→amazon

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小檜山青

東洋史専攻。歴史系のドラマ、映画は昔から好きで鑑賞本数が多い方と自認。最近は華流ドラマが気になっており、武侠ものが特に好き。 コーエーテクモゲース『信長の野望 大志』カレンダー、『三国志14』アートブック、2024年度版『中国時代劇で学ぶ中国の歴史』(キネマ旬報社)『覆流年』紹介記事執筆等。

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