こちらは2ページ目になります。
1ページ目から読む場合は
【敵に塩を送る】
をクリックお願いします。
お好きな項目に飛べる目次
お好きな項目に飛べる目次
塩がなければ信玄の“馬”も動けまい
もちろん心中穏やかではないのが今川であり北条である。
彼らは甲斐や信濃へ続く物資や塩の輸出をすべて禁じた。
『塩がなければ、クソ信玄も、ヤツの“馬”も動けまい』
実は、塩を必要とするのは人間だけではない。
馬も大量消費する。
というのも馬は、人間同様に汗をかく数少ない動物であり、少し運動すれば塩分が体外に出てしまい、その補給のための塩が必要となる。
※参照:500kgの馬で一日50g・夏季は100gが目安→JRAファシリティーズ
もしも満足な供給がされなければ、武田家名物とされる騎馬軍団だってボロボロ。
同家の騎馬軍団は、一時期「物資を運ぶだけ」という見方も提示されていたが、最近ではやはり馬に乗って戦ったことが有力視されており、他ならぬ織田信長も『信長公記』の中で武田家の騎馬隊を警戒する様子が描かれている。
塩の運搬がなければ、いかに信玄であるとも終わり。
と、そこで颯爽と現れたのが、ライバルである上杉謙信だった――。
なぜ上杉謙信は軍神と呼ばれるのか武田や北条と戦い続けた49年の生涯
続きを見る
マジで塩を送っていた?
『敵に塩を送る』とは、実際に越後から信濃・甲斐へ塩が運ばれたことからきた言葉とされている。
マジだったとは驚かれるかもしれないが、実はコレには但し書きがついており、我々が妄想しがちな美談ではなかった。
今川や北条では国として塩流通を禁じたが、越後ではその措置を取らなかった――要は商人たちが淡々と商売を続けた、単にそれだけのことだったのである。
ではなぜ謙信は、塩留めをしなかったのか?
仮に今川や北条に塩留めをされても、信玄は当時まだ同盟相手だった織田家から仕入れることができる。
遠江と駿河へ同時に攻め込む手はずだった徳川家からのルートもあるだろう。
要は塩留めなど実質、無意味であり、それでも強行して、謙信が自国の塩商人に嫌われるような真似をしても何らメリットはない。
と、そこに加えて、歴史研究者の乃至政彦(ないし まさひこ)氏が東洋経済オンラインで興味深い考察をしていた(→link)。
ざっと以下の通り。
そもそも塩留めは、武田と上杉を戦わせ、駿河への侵攻を止めさせたかった今川氏真と北条氏康が画策したもの。
しかし、上洛に目が向いていた当時の謙信は、武田や北条らと戦う気が失せていて、わざわざ信玄や甲斐信濃住民の敵愾心を煽ることは避けたかった。
結果、自国の商人に塩留めもさせないし、塩を高騰化させたりもしなかった。
過去に何度もぶつかり、硬直していた武田と上杉の国境線。
最後の川中島の戦いからもすでに4年が経過していて、わざわざ新たに火種をばら撒きたくはない。
そう考えれば、不確実な塩留め作戦を実行したって意味はない、という気持ちはさらに強くなるだろう。
結論。
謙信は塩を送ってはいない。
ただし、塩留めもしないし、高騰化させることもさせなく、通常通りに流通させていた。
と、実に素っ気無い結論であるが、そこに至るまでの過程(=武田と面倒は起こしたくない謙信の心理)を想像すると、やはり戦国は面白い。
あわせて読みたい関連記事
武田信玄は本当に戦国最強の大名と言えるのか 戦歴や人物像に迫る53年の生涯
続きを見る
なぜ上杉謙信は軍神と呼ばれるのか武田や北条と戦い続けた49年の生涯
続きを見る
第一次川中島の戦い ポイントは塩田城~信玄も謙信も城を中心に動いている
続きを見る
たった1つの山城(旭山城)が戦の趨勢を左右した 第二次川中島の戦いを振り返る
続きを見る
第三次川中島の戦い「真田の調略」と「信玄の緻密」な戦術が凄まじい
続きを見る
第四次川中島の戦い~信玄vs謙信の一騎打ちがなくても最大の激戦になった理由
続きを見る
文・川和二十六