こちらは2ページ目になります。
1ページ目から読む場合は
【御館の乱】
をクリックお願いします。
お好きな項目に飛べる目次
お好きな項目に飛べる目次
均衡する両陣営の武将たち
戦の経過から、二人の方針の違いはよく見て取れます。
上記の通り、景虎は外部の大名を引き込むような形で助力を得ようとしましたが、景勝は先に春日山城や謙信の書状など物的証拠を押さえることを重視しています。
ただ、外部に対して何もしてないわけではなく、会津の蘆名氏に家督継承した旨を伝えるなど既成事実化を推し進めています。
現代の相続における裁判で無理やり例えるとすると、景虎が敏腕弁護士を集めたのに対し、景勝は故人の日記や通帳・印鑑などを確保したというところでしょうか。かなり大雑把ですが。
両陣営の上杉家有力者も見ておきましょう。これが中々興味深いです。
【景勝派】
本庄繁長・斎藤朝信・柿崎憲家・直江景綱・河田長親・新発田重家
【景虎派】
神余親綱・堀江宗親・本庄秀綱・北条高広&景広・前島修理亮
いずれも戦国ファンには名の知れた武将が並び、一人注目するとしたら北条高広(きたじょうたかひろ)と北条景広の親子でしょうか。
名前からして後北条氏の親類?と思ってしまうかもしれませんが、さにあらず。
北条高広は上杉家や北条家の間で主家を行ったり来たりした歴戦の古強者であり、景虎を強力に支援します。
こうなると俄然景虎が有利な気もしてきます。関東と越後をつなぐ要衝に味方ができたのですから、北条氏のバックアップも受けやすい。
ただ、こうも思いませんか?
春日山城の本丸を押さえられた景虎が、なぜ1年もの間、戦うことができたのか。
それは景虎が天正6年(1578年)5月から拠点にしていた「御館」に秘密がありました。
直江津を押さえた景虎も負けてはおらず
御館は、字面からして一般的な武家屋敷をイメージするかもしれません。
が、事実上の平城であり、周囲は土塁と堀(最大幅20m)に囲まれておりました。確固たる防御拠点がなければ戦えませんよね。
この「御館」から【御館の乱】と呼ばれるのですが、この城にはもう一つ大きなポイントがありました。
直江津の港を押さえることができたのです。
日本海有数の港である直江津は、敵である景勝の経済を封鎖すると同時に、自身の流通を大いに有利に運ぶことができました。
さらには上杉憲政も味方にして、家督の正当性についても十分に資格を有するカタチに持ち込むのです。
そして実家の北条氏や武田氏の助力も得るだけでなく、蘆名氏や伊達氏までもが景虎に味方をすることになり、景勝はまさに四面楚歌になりつつありました。
と、ここで景虎陣営に激震が走ります。
有力な味方の一人であった武田勝頼が、突如、中立姿勢に傾けたのです。
景虎軍にとっては、景勝サイドに回ったとも見えたでしょう。
※続きは【次のページへ】をclick!