あるいは信玄の息子である勝頼も共に注目され、例えば大河ドラマ『どうする家康』でも阿部寛さん(信玄)と眞栄田郷敦さん(勝頼)はかなり目立っていましたよね。
しかし勘違いしてはいけない。
信玄の息子は勝頼だけではありません。
全部で七人の男子がいて、その中には僧侶となった者や、あるいは武名を轟かせた勇猛果敢な武将もいて、あらためて武田家の層の暑さを痛感させられるのです。
では実際にどんな息子たちがいたのか?
信玄の七男子に注目してみましょう。
武田義信
三条夫人との間に生まれた嫡男。
父と対立し、自刃へ追い込まれました(病死の説もあり)。
嫡男とその傅役である重臣まで失ったことから、武田家に打撃を与えてしまいます。
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海野信親
三条夫人を母とした信玄の二男。
生まれつきか、あるいは幼少期のうちか、失明をしています。
信濃小県郡の国衆・海野幸義の娘婿となって海野氏を継ぎましたが、その後に出家し、法名は竜芳です。
実質的な政治の場には関わっていなかったとされ、兄・義信が不慮の死を遂げた際も、後継者にはなりませんでした。
異母弟で四男の勝頼が嫡男とされたのです。
天正10年(1582年)、織田・徳川連合軍の甲斐侵攻の際、没したとされます。
自害あるいは殺害されたともされ、享年42。
しかし彼の子孫は生存し、後に江戸幕府の高家として残ります。
武田信之
三条夫人を母とした信玄の三男。
わずか11歳で夭折しました。
武田勝頼
諏訪御料人を母とします。
信玄は、自らと諏訪氏の姫の間に子をもち、諏訪家を継がせるつもりでした。
勝頼がその後継者とされ、実際、そうした扱いを受けて育っています。
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その後、義信の死により嫡男とされますが、あくまで信玄の嫡孫が後継するまでの中継ぎ扱いでした。
このような状況下で家督を継いだ勝頼は、武田家滅亡に殉じることとなります。
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