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【山本勘助】
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武田信玄に見出される
しかし、捨てる神あれば拾う神あり――23歳の武田信玄(出家前ながら本稿は信玄で統一)が興味を抱いたのです。
当時の武田家は築城術の技術者を求めていました。
そこでこれまたドラマチックなやりとりが展開されます。
若き信玄が頼りにする板垣信方がこう語ったとか。
「駿河国庵原氏のもとにいる山本勘助なる食客が、築城の名手と噂になっております」
かくして信玄が勘助を呼び寄せると、色黒で醜男、隻眼で脚も悪い。
おまけに職歴なしでスキルのみ……そんな悪条件にも関わらず、信玄はこう言います。
「これほど悪条件が揃っているのに、他国まで名が聞こえるとはよほどのことであろう。百貫で召し抱えるとしておったが足りんな。二百貫でいかがであろう」
「ははーっ!」
あまりに出来過ぎた話ですが、かくして運命の出会いが果たされました。
これは勘助の能力アピールのみならず、同時に信玄を称える名君伝説でもあるのでしょう。
周囲から、大したことがないと過小評価されている人物の真の実力を見出す――これは『三国志』の劉備と諸葛亮をはじめ定番のストーリーでしょう。
『甲陽軍鑑』の書き手も、そうしたエッセンスを思い浮かべつつ、話を盛ったのかもしれません。
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伝説のヒロイン・諏訪御料人と
山本勘助を主人公とする小説およびそれを原作とした大河ドラマ『風林火山』では、諏訪家の姫・諏訪御料人が運命のヒロインとして位置付けられています。
劇中では「由布姫」という名前がつけられ、山本勘助が叶わぬ思いを捧げているという設定。
彼女を信玄最愛の妻とした結果、継室の三条夫人が割を食うこともしばしばあります。
それはなぜか?
根源をたどっていくと、どうにも山本勘助伝説に関係があるのです。
諏訪頼重を滅ぼしたあと、残された姫がいた。信玄が側室にしようとしたところ、家臣たちは眉をひそめ、断固として反対します。
「滅ぼした家の姫を側に置くとは言語道断! よからぬことを吹き込まれ、武田に害するようなことがあればいかがなさるか?」
「そうだ。そんなことはいかがなものか!」
並みいる重臣たちを前に、勘助はここで堂々たる大演説をふるったとされます。
偉大なる殿に諏訪が恨みを抱くはずがない! マイナスどころかむしろプラスになるであろう!
と長広舌を振るったのです。
ただし、これは姫の弟だった寅王丸を無視しています。寅王丸は後に信玄暗殺を試み、処刑されました。
執筆当時は勘助の偉大さを讃える意図この大演説も、後世の人間からすればむしろ違和感があります。
肝心の姫への想いは置き去りで、ただの景品か何かのような扱いとなってしまっている……そこで作家たちはロマンスを肉付けします。
絶世の美女であるとか、信玄、あるいは勘助が惚れたとか。
そのため彼女には名前も設定されています。
井上靖は、執筆時に滞在した由布院温泉から「由布姫」。
新田次郎は、諏訪湖に注ぐ衣之戸川と諏訪湖を組み合わせ「湖衣姫」。
しかも彼女を母とする武田勝頼が家督を継いだことが、勘助の読み通りとされました。
むろん、史実をたどれば信玄は勝頼に家督を継がせる意思はなく、全く予期しない流れから嫡男だった武田義信を処断したことがわかります。
勝頼はあくまで中継ぎ、勝頼の後は信玄の孫を当主にしようとしていました。
このことが勝頼と家臣の関係に暗い影を落としてゆきます。
幸か不幸か、そんな未来を知らぬまま勘助は人生を終えるため、諏訪御料人伝説は強固なものとされました。
ただ、この伝説も2020年代に入った今では、あまり盛り上がらないのではないでしょうか。
どれだけロマンチックな美女像にしたところで、彼女が受け身であることは変わりません。
信玄なり勘助なりが、ヒロインにボーッとしている様も、視聴者には好まれにくくなっていると思えます。
なんせ2007年大河ドラマ『風林火山』の時点で、由布姫に呼びかける勘助を「姫しゃま、姫しゃま、しつこいわ」と揶揄する意見もありました。
ドラマに登場した架空のヒロイン・ミツの方が好きだという意見も多いものでした。
伝説の受け止め方も、時代によって変わるものです。
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戸石崩れで危機を救う
このあと『甲陽軍鑑』では、勘助の顕彰について、ますます疑念を覚えるような内容となります。
諏訪・伊那・佐久地方をおさめた信玄は、北信濃の攻略へ乗り出す。
武田の前に立ち塞がるのは、葛尾城主の村上義清。
天文17年(1548年)2月、この村上義清と決戦のときが訪れました。
武田信玄は、雪を踏み締めながら躑躅ヶ崎館を出て、率いる兵は七千、目指すは小県郡、決戦の地は上田原……そう【上田原の戦い】です。
先鋒を務めるのは三千五百を率いる板垣信方です。
板垣と並び称される名将・甘利虎泰も出陣していました。
しかし、この戦いで武田勢は大敗を喫し、板垣甘利の両雄を失ってしまいます。村上勢が本陣まで突入し、信玄の左手を負傷させるほどでした。
信玄は、合戦後もすぐには陣を解かずにいたものの、再戦はできませんでした。諸勢力の反発が起きたのです。
このあと天文20年(1550年)にも、武田信玄は戸石城で村上勢に手痛い敗北を喫してしまいます。
【戸石崩れ】と呼ばれ、信玄二度目の敗戦として知られますが、そのままでは当然終わりません。
真田昌幸の父である真田幸綱(幸隆)の活躍により、砥石城を攻略して、さらには天文22年(1552年)に村上氏を葛尾城から追い出すと、越後の上杉景虎(上杉謙信)のもとに逃げ、その後は越後が宿敵となり続けました。
こうして振り返ると、信玄青年期の挫折となった村上義清との戦いで、勘助にも何らかの活躍がなければ伝説として盛り上がらない。
そこで、こんな活躍が伝えられます。
村上勢の追撃を受け、絶体絶命の信玄。ここで勘助が献策します。
「御館様、それがしに50騎を預けてはくださらんか」
「おお、やってくれるか、勘助!」
勘助の巧みな采配により、武田勢は反撃に成功。村上勢は逃げ散ってゆきます。
これぞ破軍建返し――まさしく勘助は摩利支天のようだと褒め称えられ、誰もがみな「勘助こそ稀代の軍師である」と舌を巻いた。
そして、この功により勘助は加増され、知行800貫の足軽大将となった……というのです。
ちなみにこの摩利支天は、大河ドラマ『風林火山』ではそのお守りを勘助の妻・ミツが身につけていました。創作として上手く取り入れた設定です。
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