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【山本勘助】
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啄木鳥の戦法通じず……川中島に散る
村上義清を打ち破り、次はいよいよ越後の龍・上杉謙信と対峙することとなる甲斐の虎・武田信玄。
この両雄がぶつかり合う戦いこそ、戦国時代のハイライトといえる【第四次川中島の戦い】です。
この激戦に山本勘助の名が刻まれます。
永禄4年(1561年)、上杉謙信は1万3千の兵を率い、妻女山に布陣、海津城に迫りました。
対する信玄も2万の兵を引き連れ、両軍は数日に及び対峙、膠着します。
いかにして勝敗を決するか?
「御館様、それがしに策がございます」
ここで勘助は、以下のような「啄木鳥の戦法」を披露します。
勘助と馬場信春が二手に分かれる
↓
別働隊を妻女山に接近させる
↓
夜明けに攻める
↓
慌てて山を降りた上杉勢を、本隊が挟み撃ちにして勝利!
啄木鳥が嘴で木を叩くと、虫が中から飛び出すことから名付けられたこの戦術。
「おお、さすがは軍師殿!」
信玄はその策を用いることにしますが、敵もさるもの、作戦を察知した上杉勢は妻女山を降りていました。
しかもこの日は濃霧。
いるはずのない上杉勢の大軍に突如囲まれ、勘助もまた討たれてしまった。
享年69とされます。
大軍師の死は、その後、様々な演出がなされ、今日に至ります。
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武田家は漢籍教養を受容してきた
こうして『甲陽軍鑑』を辿っていくと、ある思いが浮かんできます。
誇張された勘助の人生は、要するに信玄伝説のスパイスではないでしょうか。
最初に書いたように、名将と軍師は中国の影響があります。
信玄と勘助は、劉備と諸葛亮を基に創作されたのでしょう。むろん、私の推察ではありますが、そうした気風が武田家にあったのではないかと思えます。
有名な風林火山は『孫子』の引用です。
そして武田信玄作の漢詩には、こんなものがあります。
武田信玄「偶作」
鏖殺江南十万兵
腰間一劍血猶腥
豎僧不識山川主
向我慇懃問姓名
鏖殺(おうさつ)す 江南十万の兵
腰間の一剣 血猶お腥(ちなまぐさ)し
豎僧(じゅそう)は識(し)らず 山川の主
我に向かって慇懃(いんぎん)に姓名を問う
江南の十万の兵を殺し尽くしてやった
腰に佩びた剣は、いまだに血なまぐさい
それなのに寺の小僧ときたら、
私のことを知らないのか、丁寧に名前を聞いてくるとは
この詩には不思議な点がありませんか?
いったい江南とはどこを指すのか?
甲斐でも信濃でもないとは……そこで注目したいのが次の漢詩です。
明太祖・朱元璋「無題」
殺尽江南百万兵
腰間宝劍血猶腥
山僧不知英雄漢
只顧曉曉問姓名
殺し尽くす 江南百万の兵
腰間の宝剣 血猶お腥(ちなまぐさ)し
山僧は知らず 英雄漢
只だ顧み曉曉として姓名を問う
江南の百万の兵を皆殺しにしてやった
腰に佩びた宝剣は、いまだに血なまぐさい
それなのに山にいる僧侶と来たら英雄を知らんのか、
丁寧に名前を聞いてきおった
誰かの作品を基にして別の作品を作ることは珍しいことではありませんが、ここまで酷似しているとなると、もはや明白。
朱元璋は「百万」を「殺し尽くし」、「宝剣」を帯びていて、「山僧」が「英雄漢」を知らなかったとなっています。
信玄の場合は「十万」を「鏖殺」し、「一剣」を帯びていて、「豎僧」が「山川主」を知らないとある。
ちょっとスケールダウンしているんですね。
ならば「江南」も日本の地名にしてもよいのですが、押韻の関係もあったのか、そうはなっていない。
この漢詩は、武田家の中国をロールモデルにして自分なりにアレンジする姿勢が端的に出ていると思えます。
江戸時代に高まる武田ブランド
信玄が亡くなると、その後の武田勝頼も織田信長に攻め込まれ、戦国大名としての武田家は滅亡します。
しかし“武田”というブランドは生き残り、
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そのうちの一つに「甲州流軍学」があります。
徳川家康にも採用されますが、山本勘助は、そんな甲州流軍学のPRキャラクターとしてうってつけだったのでしょう。
甲州流軍学およびそのフォロワーの形成が、日本史ならではのことといえます。
武田信玄も愛読した『孫子』。
その注釈は『三国志』でおなじみ曹操による魏武注が決定版とされています。
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曹操の注釈が優れていたとも言えるのですが、ことはそう単純ではありません。
中国では、時代が降ると、文官上位が徹底された。
剣を手にするより、筆を手にする者のほうが上――こうなると、たとえば儒教の経典は、思想家たちがさまざまな注釈を入れます。
しかし、兵法書については難しい。
注釈そのものが忌避された結果、学問としてアップデートされることはなく、時代的にかなり古い曹操の魏武注が決定打となる。
現場で兵器や戦術の進歩、土地ごとの違いを踏まえて『孫子』を活用することで、勝利は掴めるとなりました。
兵法書は、あくまで実践でのアレンジありきとも言えますね。
一方で、官僚になれない文人たちは、作家になります。
例えば彼らが執筆した『三国志演義』のようなエンタメ作品では、実践に基づかない無茶苦茶な戦法で描かれ、マジシャンめいた軍師像が形成されてゆきます。
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甲州流軍学も、こうした中国におけるエンタメのような発展をしていったといえます。
実践に基づいているとはいえず、ともかく派手にした結果、荒唐無稽になってゆく。
そのため徳川の権威が落ちていった幕末となると、胡散臭いものとして認識されてしまうのです。
新選組に武田観柳斎という人物がいます。
五番隊隊長も務め、それなりに重用されましたが、途中で脱退したためか、どうにもマイナスイメージがつきまとまいます。
そのために悪用されるのが、真偽不明の男色好みと、甲州流軍学です。
武田観柳斎は確かに近藤勇にブレーンとして重用されているので、賢い人物ではあったのでしょう。
しかしその賢い要素としてあえて甲州流軍学を持ち出すあたりに、彼を貶める意図も感じます。
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だからといって、山本勘助なり、甲州流軍学なりを、荒唐無稽な妄想の類と片付けられはしないでしょう。
由来はどうあれ、武田の軍師は皆の憧れ。
中国語圏には、日本史ファンが数多くいます。
その契機となっているのがコーエーテクモゲームスの『信長の野望』シリーズであり、その中でも武田家は大人気。
「軍師」というキーワードを調べてみても、中国よりも戦国時代の人物が数多く並びます。
武士を重視した日本史の結果、エンタメの世界ではそれがプラスになっているんですね。
中国史を受容して発見さえてきた武田家ルーツのさまざまなことが、海と時代を超えて人気を得ている。
山本勘助はその中にいて、スーパーレア軍師として愛されているのです。
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★
山本勘助を考えるとなると、実在論や何かから入ります。
それが歴史を学ぶということであり、正しいアプローチであることに間違いありません。
しかし、それだけでは見えてこないものもあるでしょう。
彼がどのように語り伝えられ、そこにはどんな意図や願望があったのか。時代によってどう受け止められたのか。
そこを読み解いてゆけば、色々な歴史も見えてくるはず。
『風林火山』を読み直す。大河ドラマを見返す。ゲームに出てくる性能を比較してみる。
そうして軍師像を考えてみるのも意義はあるのではないでしょうか。
中国の歴史とエンタメ、そして人々が諸葛亮を生み出したならば、日本には山本勘助がいる。
黒田官兵衛よりも創作が多いだけに、像も出来上がっていて、また別の作品にも登場することを楽しみにしてしまう。
これからもこの隻眼の軍師を愛してゆきたいと思うのです。
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文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link)
【参考文献】
平山優『山本勘助』(→amazon)
渡邉義浩『孫子―「兵法の真髄」を読む 』(→amazon)
石川忠久『日本人の漢詩―風雅の過去へ』(→amazon)
他