山県昌景

山県昌景:歌川国芳作/wikipediaより引用

武田・上杉家

赤備えを率いた武田家の最強武将・山県昌景が長篠の戦いに散るまでの生涯

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三方ヶ原の戦い

元亀3年(1572年)10月3日、信玄は【西上作戦】を開始しました。

武田勢は二手に分かれ、遠江国と三河国へ。

大河ドラマ『どうする家康』では、前半部のクライマックスとも言える戦いになるでしょう。

戦いに至るまでの詳細は今なお諸説ありますが、浜松城の眼前を通り過ぎようとした武田軍に対し、それを追うようにして襲いかかった徳川軍というのが通説。

両軍は三方ヶ原で激戦となりました。

 

幾度もの激闘を経験してきた武田軍。

とりわけその先陣を担うとされる山県昌景の赤備えは、この戦いで徹底的に徳川軍を苦しめました。

家康に襲いかかる武田軍から守るため、家臣・夏目吉信が身代わりになった――そんな話もあるほど追い込まれた家康はどうにか浜松城へ戻り、九死に一生を得ます。

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この一連の戦いにより、武田家は徳川家・織田家と徹底的に対立。

家康も信長も窮地に陥る……と、そこで両家にとっては僥倖の報せが届きます。

翌元亀4年(1573年)4月12日、武田信玄が亡くなったのです。

家督を継いだのは四男の武田勝頼

死に際して信玄は、昌景に「勝頼の補佐を頼む」と言い残しました。

信玄が最も信頼していた家臣が、春日虎綱(高坂昌信)と山県昌景だったのですが、残念ながら勝頼とは反りが合わなかったとされます。

しかしそれは、勝頼一人の問題とも言えません。

嫡男・義信の死により、武田家の後継者候補は混乱の様相を呈し、信玄の認識ですら勝頼は後継者ではなく、あくまで中継ぎだったのです。

そんな信玄以来の武断派功臣と、勝頼の側近たちでは、どうしたって歪が生じてしまう。

昌景はそれでも武勇を奮い、敵対した織田勢の前に立ち塞がり続けました。

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長篠に散る

天正3年(1575年)5月、運命の一日がやってきます。

長篠の戦い】が勃発。

武田軍は約1万5千に対し、織田徳川は約3万8千とされるの連合軍であり、しかも、敵の視界から見えづらい山中に隠れるようにして陣を張るなど、万全の迎撃態勢です。

そんな圧倒的不利な状況にもかかわらずなぜ武田軍は突撃したのか?

山県昌景が勝頼を諌めたという話もありますが、酒井忠次率いる別働隊が背後に迫ったことで武田軍は前に出るしか無くなった――という見立てもあり、ともかく後がないとばかりに突撃してゆきます。

九ツ始め(午前11時)、一番隊三百騎を率いたのが山県昌景でした。

赤備えの山県勢が、猛然と徳川勢に襲い掛かります。

しかし、徳川には鉄砲や陣など入念な準備もあり、山県隊はあえなく潰され、次に二番隊の武田信廉が突撃。

以降も、小幡隊、武田信豊、馬場隊など、次々に武田軍は打ち破れて、未刻(午後2時頃)には全軍撤退を余儀なくされるほど追い詰められます。

さしもの昌景も、鉄砲の猛射撃には耐えきれず、結局、この戦いで敗走中に討死と相成りました。

生年不明のため享年も不明。

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山県氏のその後

勝利を収めた織田・徳川は、討ち取った首の筆頭に山県昌景を置いたと伝えられています。

後世に、武田四天王あるいは武田二十四将でも称えられる山県昌景は、それほどおそろしい敵として認識されていたのでしょう。

第四次川中島の戦い三方ヶ原の戦い、長篠の戦い――など、武田軍の著名な合戦には必ずその名がありました。

ゆえに現代の映像作品でも出番が多く、長身の役者が演じることがあります。

2022年大河ドラマ『どうする家康』で演じる橋本さとしさんは184センチと、武田信玄の阿部寛さんに勝る体格です。

しかし、伝えられるところによると、山県昌景当人は小柄で風采は冴えなかったとされます。

戦場での際立った強さゆえ、大きな像として描かれる。それが武田家の誇る猛将・山県昌景でした。

昌景の討死後、山県家は子の昌満が家督を継承し、武田家が滅亡すると、織田信長に捕らえられ処刑されました。

福井藩には笹治大膳という家があり、十代目に山県に姓を改め、山県昌景の子孫と称しています。

その他の子孫は、上杉家や徳川家に仕官した者がいるとされます。

【大坂の陣】にも子孫を名乗る者はいたとされます。

女系をたどると山県昌景の娘の一人は初婚の夫を亡くした後、酒井忠次に嫁ぎ、三男・久恒を産み、駿府で一生を終えたとされます。


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文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link

【参考文献】
『武田氏家臣団人名事典』(→amazon
高野賢彦『甲州・武田一族衰亡史』(→amazon

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