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【長野業正(長野業政)】
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武田傘下の真田幸綱が訪れた
さすがの長野業正さんも寄る年波には勝てません。
71歳(もしくは63歳)になった永禄4年(1561年)に病床に臥せってしまいます。
その長野業正さんに、ある意外な人物が訪れます。
“攻め弾正”の異名を持つ武田信玄の重臣の真田幸綱(幸隆)でした。
表裏比興の者として知られる真田昌幸の父であり、真田信幸と真田信繁(幸村)の祖父にあたる人物です。
信玄の快進撃を支えた真田幸綱(幸隆)子の昌幸や孫の幸村へ繋げた生涯62年
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「なぜ真田のおじいちゃんが?」と思われるかもしれませんが、実は真田幸綱は浪人時代に長野業正さんにお世話になっていたことがあるんです。
真田幸綱は天文10年(1541年)に「海野平(うんのだいら)の戦い」で、信玄の父・武田信虎に敗れて信濃国(長野県)の領地を追われ、箕輪城で過ごしていました。
その後、信玄がクーデターを起こして父の信虎を追放すると、信濃国に戻って武田家の重臣として大活躍していたのです。
既に隠居していた真田幸綱は、旧恩のお礼を述べるために長野業正さんの許を訪れました。
そこで長野業正さんは真田幸綱に次のようなことを伝えたそうです。
「信濃国のように、上野国もいずれ貴公(真田幸綱)に切り取られてしまうだろう。同じ取られるなら、他人よりも気心の分かる貴公に渡すことが憂いの中の喜びというものだ」
なんだか、ドラマのワンシーンのようです!
さらに、長野業正さんは続けてこう告げたといいます。
「真田家の領地の吾妻郡に続いた利根郡を計略すれば良いだろう。この地を治める沼田家は長くない。私は沼田家を奪うことは容易いが、寿命も尽きたようだし、我が子の力ではまだ及ばないと思うので貴公に進上しよう
19年後の天正8年(1580年)――この言葉は実現します。
真田幸綱の子の真田昌幸によって沼田城が攻略され、利根郡は真田の手中に収まるのでした。
なんともドラマチック!!
葬儀は無用 武運が尽きたなら潔く討ち死にせよ
長野業正さんは、この年の11月22日(私の誕生日の翌日だ)に病死しました。
亡くなる直前、18歳になっていた次男の長野業盛を枕元に呼んで、次のようなことを遺言したそうです。
・葬儀は無用
・一里塚(道標)のような墓を造り、敵の首を墓前に1つでも多く供えよ
・敵に降伏してはならない
・武運が尽きたなら潔く討ち死にせよ
・それこそが私への孝養である
これもまた、ドラマみたいなお話!
長野業正さんの死を知って大喜びした武田信玄は、再び上野国に攻め込みました。
長野業盛は何度も武田軍を撃退したものの、永禄9年(1566年)には2万にも及ぶ大軍で箕輪城を攻撃。
劣勢になった長野業盛は父の遺言を守るように一族郎党と共に箕輪城で自害して果てました。
こうして長野業正さんが全盛期を築いた上野国の名家は滅亡を迎えています。
自害の地とされる本丸の北の御前曲輪には現在、慰霊碑が建てられています。
名将には間違いないが真の業績は不明!?
「武田信玄を6度も撃退」
「真田幸綱との別れ際」
「息子への遺言と御家滅亡」
どれを見ても、まるで作られたお話のようなカッコ良さや美しさがあります……。
そう!
そうなんです!
ここまで読んでくださった皆様にコレをお伝えしたら一揆を起こされてしまうかもしれませんが、ここまで紹介した長野業正さんのこういった歴史やエピソードは、おそらくほとんどがフィクション……。
実は、長野業正さんのことが描かれているのは『関八州古戦録』など、江戸時代に描かれたものばかりなんです。
長野業正さんの活躍した当時の史料からは、ほとんど事績は分かっておりません。
しかも一番驚くことは、武田信玄と戦ったことが1度も無かったとのでは?とも言われていることです! ズコーー!
ただし、小大名ながら武田信玄や北条氏康などの大大名たちと渡り合って、御家を守った名将であることは間違いありません。
そこから話がグンと広がって、後世に地域のヒーローとして描かれるのも、これまた歴史の醍醐味の1つですね!
そんな長野業正さんのお墓は、歴代の当主と共に「長年寺」に建立されています。
また、長野業正さんの父(長野信業)が創建したという「長純寺」にも供養塔(右隣は長野業正さんの正室の供養塔と伝わる)が建てられていて、開山堂には「長野業正公の像が安置されています。
そして、父の遺言を守って討ち死にした長野業盛は、その死を悼んだ僧侶によって埋葬をされ「伝・箕輪城主長野業盛の墓」として伝えられています。
今回は以上です!
長文にお付き合いいただき、ありがとうございました。
まだまだご紹介したご当地マイナー武将たちはたくさんいますので、次回も是非ご期待を!
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拙著『ヘンテコ城めぐり』(→amazon)もご愛顧よろしくお願いします。
文:れきしクン(長谷川ヨシテル)
◆れきしクンって?
元お笑い芸人。解散後は歴史タレント・作家として数々の番組やイベントで活躍している。
作家名は長谷川ヨシテルとして柏書房やベストセラーズから書籍を販売中。
【著書一覧】
『あの方を斬ったの…それがしです』(→amazon link)
『ポンコツ武将列伝』(→amazon link)
『ヘッポコ征夷大将軍』(→amazon link)