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【長野業正(長野業政)】
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3,000 vs 80,000の河越夜戦でまさかの……
時は天文15年(1546年)――。
当時、“相模の獅子”の異名を持つ3代目・北条氏康の時代になっていた北条家は、古河公方(足利家)と両上杉家のゴタゴタの隙を突いて武蔵国(東京都・埼玉県)にグイグイと勢力を伸ばしていました。
「さすがにヤバい!」
そう気づいたのか。
古河公方と両上杉家はついにタッグを組み、北条家の支城である河越城(埼玉県川越市)に攻撃を仕掛けました。
城兵の数が約3,000なのに対して、タッグ軍の数はなんと約8万!
このタッグ軍の山内上杉家の軍勢に長野業正さんもいたのです。
長野業正さんは上野国の西部の豪族たちによる「箕輪衆」を率いて参戦していました。
3,000に対して80,000は、さすがに長野業正さんが加わるタッグ軍が圧勝かと思われますよね?しかし……。
小田原城から援軍(約8,000)に駆けつけた北条氏康が偽りの降伏を申し出たためタッグ軍は油断。
夜襲を仕掛けられて大惨敗してしまいます!
【河越夜戦】や【河越城の戦い】と呼ばれるこの戦い、織田信長の「桶狭間の戦い」と毛利元就の「厳島合戦」と並んで“日本三大奇襲”と呼ばれています。
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この奇襲を受けて、扇谷上杉家の当主・上杉朝定は討ち死にして、扇谷上杉家は遂に滅亡……!
また、長男の長野吉業も重傷を負い、後にわずか16歳にして亡くなったといいます。
長野家に残された男子は、まだ3歳の次男・長野業盛だけです。
嫡男を失い、もはや滅亡寸前の主家。当時、56歳(もしくは48歳)になっていた長野業正さんの心情やいかばかりか…。
主君の上杉憲政が武田に大惨敗
悪い時に悪いことは続くものです。
翌年の天文16年(1547年)には、主君の上杉憲政(山内上杉家の当主)が「小田井原の戦い」で甲斐(山梨県)の武田信玄に大惨敗。
このとき長野業正さんは出陣に大反対をしたのですが、上杉憲政は意見を却下して、長野業正さんは参陣を拒否したそうです。スーパー爺の言うことを聞いておけば良いのに…。
そして、主君の上杉憲政が天文21年(1552年)には、前線基地だった古御岳城(埼玉県横瀬町)を北条家に攻められて上野国の平井城(群馬県藤岡市)に敗走するのでした。
「是非に及ばず……」
そう思ったかどうかは分かりませんが、ここにきて長野業正さんは遂に、主君を見限ることにしました。
主君の上杉憲政は、上野国を追われて越後国の春日山城(新潟県上越市)の長尾景虎を頼って落ち延びました。
長尾景虎は、永禄4年(1561年)に上杉憲政から家督を譲られ「上杉政虎」と改名し、元亀元年(1570年)頃に「謙信」の法号を名乗りました。
そうです、あの上杉謙信ですね。
こういった経緯から、長野業正さんは、長尾景虎こと上杉謙信と共同戦線を貼っていくことになります。
信玄「長野業正がいる限り、上州に手は出せぬ……」
さて、主人公の長野業正さんはどうなったのか。
山内上杉家が事実上の滅亡ということは、北条家に従った?
答えは「否」!
長野業正さんは、かつての主君への義理を欠いてはいけないと、北条家には従わずに独自の勢力をキープし続けたといいます。
まさに国衆の矜持、ここにあり!
しかし、長野業正さん最大の敵がここで出現します。
元主君を数年前に完膚なきまでに破り、上野国の支配を目論む――そうです、武田信玄です。
それはつまり上野国を巡る“甲斐の虎”と“上州の黄斑”による激突の始まりでした。
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弘治3年(1557年)から武田信玄が、長野業正さんがリーダー的な存在だった西上野に本格的に侵攻。
長野業正さんは国衆を束ねて大軍を結成します。その数、なんと2万以上!
武田軍を迎え討ち善戦するものの、徐々に劣勢となり退却戦となってしまいます。
この時に殿(しんがり)を務めたのが長野業正さんでした。
織田信長の「金ヶ崎の退き口」や島津義弘の関ヶ原での「島津の退き口」に代表されるように、退却戦は非常に難易度が高く、特に殿は死に直結するような難事業です。
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この殿を長野業正さんは見事に果たして、武田軍の追撃を凌ぎ切って箕輪城に籠城しました。
武田信玄は箕輪城に攻撃を仕掛けようとするものの、長野業正さんからの要請で援軍に訪れた上杉謙信の協力もあって武田軍を撃退!
それでも西上野の制圧を諦めない武田信玄は、その後も幾度も箕輪城を攻撃し続けました。
信玄が箕輪城を攻撃した数、なんと6回!
長野業正さん、アブない!
ところが、この“甲斐の虎”の猛攻を“上州の黄斑”は、早朝や深夜に奇襲を仕掛けるなどして全て撃退することに成功するのです!
武田信玄はこう嘆きました。
「長野業正がいる限り、上州に手は出せぬ……」
御歳60前後! 痺れるぜ! スーパー爺!! しかし……。
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