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【横田高松の生涯】
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「戸石崩れ」で討死
天文十九年(1550年)8月末、戸石城攻めです。
武田ファンにとっては、聞けば苦い思いをしてしまうこの一戦。
上田原の戦いと同じく村上義清相手の合戦で、高松は信玄の命により、大井信常や原虎胤と共に城の攻略に挑みました。

砥石城跡/wikipediaより引用
9月3日に城へ接近し、9日から攻撃を開始。
その名の通り同城は砥石のような崖の上に立っているため、なかなか落ちません。
月末になっても陥落させられなかったため、高松ら武田方は攻略を断念し、10月1日から撤退することにします。
しかし、城方が優勢な状況で攻め手が退こうとしたらどうなるか……そうです、追撃戦です。
このとき高松は殿(しんがり・最後尾)を務めたとされており、その中で天文19年10月1日(1550年11月9日)に討死したされます。
長享元年(1487年)誕生説が正しければ、63歳だったことになります。
老将としては本望だったかもしれません。
当時20歳だった高松の養子・横田康景(原虎胤の息子)は、この戦いで村上方の足軽大将・小島五郎左衛門と組み討ちして討ち取り、深手を負って退いたとか。
他にも高松の隊から20人ほど死傷者が出たとされます。
“横田”の名は続く
横田高松、最期の戦いとなったこの撤退戦は、その後「戸石崩れ」と呼ばれるようになりました。
信玄最大の敗北とまで呼ばれており、横田高松らを失った衝撃が相当に大きかったことが伺えます。
不幸中の幸いというべきか横田康景は生き延びて勝頼に仕え、天正三年(1575年)長篠の戦いで討死。

長篠合戦図屏風/wikipediaより引用
その子・横田尹松(ただとし / ただまつ)が跡を継ぐと、尹松は高天神城での奮闘が伝えられ、甲斐武田氏の滅亡後は徳川氏に仕えて江戸幕府の旗本となり、横田氏は最高格の旗本として存続します。
養父の高松も、実父の虎胤も満足したのではないでしょうか。
高松は合戦に参加すること34回、戦傷は31か所あったと言い伝えられています。
康景の実父・原虎胤にも似たような話があり、二人は気の合う戦友みたいな関係だったのかもしれません。
高松の屋敷跡地には現在遺構はないものの、そのことを示す看板が立っています。
甲府市の武田神社のすぐ裏手といえる位置なので、現地を訪問された際には足を伸ばしてみるのもいいかもしれません。
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参考文献
- 佐藤正英(校訂・訳)『甲陽軍鑑(ちくま学芸文庫 サ15-2)』(筑摩書房, 2006年12月6日, ISBN-13: 978-4480090409)
出版社: 筑摩書房公式サイト(書誌情報) |
Amazon(Kindle): 電子版商品ページ - 柴辻俊六・平山優・黒田基樹・丸島和洋(編)『武田氏家臣団人名辞典』(東京堂出版, 2015年5月15日, ISBN-13: 978-4490108606)
出版社: 東京堂出版公式サイト(商品情報) |
Amazon: 商品ページ - 吉田龍司・相川司・川口素生・清水昇『戦国武将事典 乱世を生きた830人(Truth In History 13)』(新紀元社, 2008年6月20日, ISBN-13: 978-4775306284)
出版社: 新紀元社公式サイト(書誌情報) |
Amazon(Kindle): 電子版商品ページ - 上田正昭・西澤潤一・平山郁夫・三浦朱門(監修)『日本人名大辞典』(講談社, 2001年12月6日, ISBN-13: 978-4062108003)
出版社: 講談社公式サイト(書誌情報) |
Amazon: 商品ページ




