徳川家

築山殿(瀬名姫)が家康に送った最後の手紙 なぜ彼女は殺されたのか?

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徳川家康の正室・築山御前を乗せた輿は岡崎を出ると、三遠国境の本坂峠を越えて、三ヶ日へ。
そこから船に乗り、難所・猪鼻瀬戸を通り抜けて、猪鼻湖から浜名湖へ漕ぎ出すと、歌枕・浜名橋の黒木の橋桁を思い浮かべながら宇布見へ向かった。

入野川を遡り、入野之江(現・佐鳴湖)の北東、小藪村で下船。
ほどなくさしかかった大等ヶ谷(現・御前谷)で、野中重政が槍を輿に突き刺す。

谷中に、断末魔の叫びが響き渡った。

『築山御殿御伝記』意訳 ※1記事末に原文掲載(以下同)

佐鳴湖(三ッ山の対岸から撮影。手前は竹村広蔭選定の「佐鳴湖八景」碑)

佐鳴湖(三ッ山の対岸から撮影。手前は竹村広蔭選定の「佐鳴湖八景」碑)

徳川家康の正室・築山殿(瀬名姫)はなぜ殺されなければならなかったのか?

一般的に彼女の評価は、いわゆる悪女に近い。
家康との間に生まれた長男・松平信康が自害へ追い込まれ、彼女もまた冒頭で記したように家康の家臣に殺されている。

原因は、信康の妻であり、織田信長の娘であった徳姫に「武田との内通を密告」されたせいだというが、果たして彼女自身はどのような人物であったのだろうか。

若き家康の正室であった築山殿(瀬名姫)にスポットを当ててみよう。

 

家康最初の妻は「肌の白い超美人」だった!?

徳川家康の正室は、家康と結婚して岡崎市の築山(地名)に住んだことから「築山殿」と呼ばれている(岡崎市では「駿河御前」、浜松市では「築山御前」)。

後の将軍正室であるからして、その立場は絶大なものだったと考えたくなるが、女性であったがゆえに生年も享年も本名も不明。肖像画も木像もないながら、「肌の白い超絶美人」だったと伝わる。三ッ山を背景に描かれた「築山御前像」(西来院蔵)は、大正から昭和時代に活躍した画家・鈴木白華の創作で、古い絵の模写ではない。

彼女は幼名も不明で、「阿鶴」や「鶴姫」と推定されている。
家康の初恋相手がこの鶴姫とも、はたまた亀姫とも、お田鶴の方(後の引馬城主・飯尾連龍室)ともいわれているが、家康が、築山殿とは別の初恋相手から娘に「亀姫」と名付けたとして、夫婦仲が悪くなったという伝承もある。

いずれにせよ、彼女の父は瀬名氏(後に関口氏の養子になって関口と名乗る)であるので、ここから先は便宜上、出身家名を使って「瀬名姫」と呼ばせていただく。

瀬名2丁目の西奈生涯学習センター「リンク西奈」(この南側一帯(200m☓200m)が瀬名氏居館)から北を撮影

瀬名2丁目の西奈生涯学習センター「リンク西奈」から北を撮影・この南側一帯200m四方が瀬名氏居館とされる

 

竹千代と三河を手中に収めようとする義元の政略

「瀬名氏」とは、もともとは今川氏の出である。
「天下一苗字」ルールのため、「今川」と名乗れるのが宗家(駿河今川氏)のみというルールに従い、彼らの本拠地(静岡県静岡市葵区瀬名)の地名から「瀬名」と名乗っただけであって、実際は遠江今川氏の傍流。

瀬名姫の父は、今川義元の父・氏親からの偏で「親永」と改名するなど宗家の覚えもよく、その妻は今川義元の妹であった。
つまり瀬名姫は、義元の姪であり、同家の姫(プリンセス)と言える。

光鏡院(瀬名1丁目)の「今川陸奥守源一秀公供養塔」

光鏡院(瀬名1丁目)の「今川陸奥守源一秀公供養塔」・瀬名氏の祖である

そんなお姫様が、三河から来た人質・竹千代(後の徳川家康)と結婚することになったのだから、高いプライドが傷つけられる一方、逆玉の竹千代は、見目麗しき今川家の姫と結婚できて天にも昇る思い――小説などではそんな風に描かれることが多い。実際、身分的には不釣り合いなカップルであった。

にもかかわらず今川義元がこの婚姻を押し進めたのは、竹千代と三河国を同時に傘下に収める腹積もりであったからだろう。義元は、竹千代に「元」の一字を与えて元服させ松平元信(後の元康)と名乗らせた。そして若い2人の間には、永禄2年(1559年)3月6日に嫡男・信康、翌・永禄3年(1560年)6月4日に長女・亀姫が生まれる。

一男一女の子を残し、まずは御家安泰。しかしコトはそう単純ではなかった。

亀姫が生まれるわずか2週間前、桶狭間の戦いが起きていたのだ。この戦いが、瀬名姫にとって二重のショックとなったのは、後ろ盾の義元が殺されただけでなく、その直後の夫・家康の行動にあった。

家康はこのとき、駿府に戻ってくるのではなく、空き城となった岡崎城に入ってしまったのだ。これにより彼女とその子どもたちは、今川の人質同然の立場にさせられてしまったのである。

 

元康の独立に怒った氏真は、松平の人質を槍で串刺し

徳川側の史料によると、岡崎城に入った松平元康は「今川と織田の間に松平という壁を作った。この壁が破られないうちに今川義元の仇を討つように」と何度も今川氏真に催促したという。
しかし、氏真が動かない。だから仕方なく今川を見捨てて独立したとある。

確かに表向きはそのような言動をしたのかもしれない。
されど「今川氏(人質生活)から離れて三河に戻ろう」という気持ちは以前から持っていたのだろう。

いずれにせよこの独立に怒った今川氏真は、吉田城代・小原鎮実(おはら しずざね)に命じて、松平の人質13人(11~14人とも)を城下の龍拈寺(りゅうねんじ)口で、尻の穴から槍を入れて串刺しにした。

「十三本塚」の案内板

「十三本塚」の案内板

この酷い対応には、さすがの元康もガチギレ。
東の今川氏真を完全に見捨て、西の織田信長と手を組もうとするが、そのためには高い壁を乗り越えねばならなかった。

家康の祖父である松平清康や父の広忠が、織田信秀(信長の父)と長年の宿敵関係にあり、更には元康自身も織田信秀のもとで人質生活を送っていたことがあり、織田家とはそうやすやすと同盟締結に至りそうになかったのである。

しかし、元康の伯父・水野信元や、実母・於大の方の再婚相手・久松定俊(後の俊勝)の尽力があって、元康は信長の居城・清洲城を訪問。以降、戦国時代において珍しく強固な「清洲同盟」(「織徳同盟」「尾三同盟」とも)が結ばれたのである。

締結日については、『信長公記』など第一級史料に掲載がないのが不思議だが、永禄4年(1561)9月とも、永禄5年(1562)1月ともいう。

 

夫の清洲同盟を遠く駿府の地で聞いた瀬名姫の心境とは

この同盟締結を遠く駿府の地で驚き、悲しんだのは瀬名姫である。

──夫が、今川家の仇・織田信長と同盟?
──これで夫は今川と切れた。私も離縁される?
今川寄りの妻子(築山殿と長男・信康、長女・亀姫)は「桶狭間の戦い」以降、駿府に残されたままで人質状態になっていた。

ほどなくして永禄5年(1562年)、元康は依然として今川傘下にあった三河国内の鵜殿長照(うどの ながてる)を攻めた。
今川義元の妹の子であり、桶狭間の戦いの時には、元康が兵糧を入れて助けた大高城代であった。

このとき長照は愛知県蒲郡市神ノ郷町にある「上ノ郷城」におり、力攻めではなかなか屈しない同城に対し、元康は忍者を使って火をつけさせた。その様子を腰掛岩に座って見下ろしていたという。

そして首尾よく長照の子(氏長・氏次兄弟)を生け捕りにすると、駿府の妻子(築山殿・信康・亀姫)と人質交換することにした。

土塁の上の「上郷城址」碑

土塁の上の「上郷城址」碑

家康公の腰掛岩

家康公の腰掛岩

しかし、実際に人質交換するにあたっては、ひとつ問題があった。
「桶狭間の戦い」の時に母の胎内にいた亀姫が生まれており、交換には3人必要だったのである。

家康は、実母・於大の方に頼み、再婚相手との間に儲けた松平康俊(まつだいら やすとし)を差し出させた。
交換は吉田湊で行われ、妻子3人は船で岡崎城へ。この時、交換は鵜殿兄弟と信康・亀姫との2人だけで、康俊と瀬名姫の入れ替わりは1年後だったとする説もある。

善照院殿泉月澄清大居士(松平康俊)の墓

善照院殿泉月澄清大居士(松平康俊)の墓

【参考】上ノ郷城跡を愛する会

※人質として駿府にいた松平康俊は、武田氏が駿府を攻めた時に捕えられ、人質として甲斐国で監禁。雪の降る夜に脱走したため、足の指全てを凍傷で無くしてしまう。それを見た於大の方は「今後、自分の子は人質に出さない」と決めたそうだ。
後に豊臣秀吉が人質を要求してきた時、家康は於大の方に断られ、結果、次男・秀康を秀吉の養子(実質的には人質)に差し出したため、三男・秀忠が徳川二代将軍となっている。

 

家臣串刺しに続き、今度は瀬名姫の両親が自害に追い込まれる

大事な人質をまんまと家康に取り戻され、今川氏真は怒り心頭に発したのであろう。

完全に歯止めが効かなくなったようで、永禄5年(1562)、関口屋敷において瀬名姫の両親を自害させる。
「娘(瀬名姫)の夫(松平元康)が今川氏を裏切った罪」あるいは「娘婿に同調して今川氏を裏切る可能性がある」というのがその理由だ。

最近の学説では、織田信長を諌めようと自害した平手政秀のように「今川氏真を諌めるための自害だった」という考え方もあるが、ともかく瀬名姫両親の自害は、夫・松平元康と無縁ではない。

そして元康は、今川氏との縁が完全に切れると、永禄6年(1563)、今川義元から貰った「元」の字を捨て、「元康」から「家康」に改名した。

総持尼寺と守護社・築山稲荷(岡崎市中町小猿塚)

総持尼寺と守護社・築山稲荷(岡崎市中町小猿塚)

駿府の人質生活から解放され、信康と亀姫は岡崎城へ移った。その一方で瀬名姫は一時的に軟禁生活を余儀なくされる。

それが彼女が「築山殿」と呼ばれる所以にもなっており、岡崎城から離れた「築山」(菅生郷築山)に住み、「築山殿」「築山御前」と称されるようになった(これ以前は「駿河の御前」だった)。

あるいは別の説では、家康の父・松平広忠が、水野氏が今川方から織田方に移ったため妻・於大の方を離縁したように、今川方から織田方に移った家康も瀬名姫を離縁し、息子の信康が彼女を呼び寄せて「築山」に住まわせたので「築山殿」と呼ばれるようになったともいう。

更には好色で有名な朝倉義景の側室になった後、信康に引き取られて築山に住んだから築山殿となった説なども。
※築山の位置は、岡崎城の籠田総門付近にあり、人々が出入りするサロン(情報交換の場)になっていたとされる。そこで「軟禁状態」だったと目される

信康像(清瀧寺蔵)と「信康さん」(映画「反逆児」上映会にて)

信康像(清瀧寺蔵)と「信康さん」(映画「反逆児」上映会にて)

 

夫と姑にキレた徳姫が父・信長へ「12ヶ条の弾劾文」

元亀元年(1570年)6月、家康は、元服した信康に岡崎城を譲り、自身は浜松城へ移った。

城主になった信康は、母・築山殿を軟禁状態から解き、岡崎城内の東曲輪に入れたという。
これが大いなる悲劇の火種になった。

岡崎城には、松平家代表・於大の方(家康の実母)、今川家代表・築山殿(家康の正室)、織田家代表・徳姫(信康の正室)の3人の女性が揃ってしまったのである。

信康の妻・徳姫は、織田信長と生駒お類の長女であり、永禄10年(1567)5月27日に岡崎城へやってきていた(このとき2人は9歳)。
ただでさえ難しい嫁姑の関係。築山殿と徳姫との溝は、日に日に深まっていく。築山殿にとって徳姫は、宿敵・織田信長の娘であり、現代の常識から見ても好きになれるワケがない。

そして天正7年(1579年)8月、夫・信康とも仲が悪くなった徳姫は、ついに父の信長へ「徳姫12ヶ条の弾劾文」を届ける。その内容は……。

徳姫から送られた弾劾文は、築山殿と信康親子を中傷したもので、古文書はまだ発見されていないが、復元すると次のようになるという。

①築山殿は、私と信康様との仲を裂こうとする。
②築山殿は、女子しか生んでない私の事を「役立たず」と言う。
③築山殿は、男子は妾に生ませればよいと、武田関係者の妾を用意した。
④築山殿は、浮気相手の減敬を通して武田と繋がっている。
武田勝頼は、信康を味方にし、織田・徳川滅亡後は信康を領主とし、築山殿は武田の武将・小山田と結婚させると言っている。
⑥信康は、気が荒く、私に情報を提供してくれた侍女を、私の目の前で「このおしゃべり女め」と言って殺し、さらにその口を裂いた。
⑦信康は、踊りが好きで、踊りが下手な者を射殺した。
⑧信康は、鷹狩で獲物がなかったのを出逢った僧のせいにし、その僧の首と馬を縄で繋ぎ、馬を走らせて殺した。
⑨武田勝頼は、信康を味方にしたいと言っているので油断しないように。
⑩築山殿は、金使いが荒く、贅沢三昧な暮らしをしている。
⑪築山殿は、武田勝頼に「(今川義元を殺した)織田信長と(両親の自害の原因を作り、さらに今川家を滅亡させた)徳川家康を殺して欲しい」と言っている。
⑫近頃、岡崎城下で踊りが流行して、風紀が乱れているのは、城主の信康が愚公だからだ。
※「徳姫12ヶ条の弾劾文」(『参河志』)※2

言ってみれば「築山殿は好色で派手」「信康は残忍な愚公」という愚痴であるが、信長にとっては到底無視できない箇所があった。
「信康が武田と組んで、信長や家康を殺そうとしている」という点である。
これにブチキレた信長が「信康を殺せ」と家康に命じ、更には助命嘆願のため浜松城へ向かった築山殿も討たせたという。

──あくまで家康は、信長の命令で泣く泣く妻子を殺した。
これが通説である。
実際、その証拠(「築山殿謀反の誓書」※3と武田勝頼が築山殿に出した返信※4)が、築山殿の秘密の文箱から見つかったとされている。

しかし、である。いかにもな証拠が揃っている状況が逆に怪しいことから、最近になって、
──妻子を殺そうと思ったのは家康であり、信長が承認した。
そんな説が注目を浴びている。

この説の論者は、妻子殺害のバックボーンを、浜松に連れて行ってもらえなかった岡崎の徳川家臣と、浜松の徳川家臣の分裂を治めるためとも、家康と信康の不和ともする

 

瀬名姫の死 諸説と大きく食い違う浜松での伝承

では築山殿の最期はいかなる状況だったのか? 実は、これがよく分かっていない。

①岡崎城から浜松城に向かう輿の中で、野中重政に槍で刺された
②岡崎城から浜松城に向かう途中、三ッ山で野中重政に首をはねられた

主に2つの説が挙げられ、小説や演劇では①のように描かれることが多い。輿から引きずり出された築山殿は、大声で泣きわめき、呪いの言葉を吐くも、野中重政に首を切り落とされたという話である。

一方、②の築山殿は、凛として落ち着いているのが特徴だ。
小藪村で船から降りると「三ッ山に歓迎の宴の用意がしてございます」と言われて、「夫が出迎えに来てるかも」と思って輿に乗り、降りるとそこには白い横断幕……。全てを悟った築山殿は自害し、野中重政が介錯した。

片方は見苦しく、片方は実に潔い。
一体どちらが本当の彼女なのか。

実は、そもそも浜松の伝承では、まったく異なる話が伝わっている。
「岡崎城から浜松城に向かう途中」で殺害されたのではなく、築山殿は浜松にいたとしているのだ。背景にあるのは、徳川家康が、遠江侵攻時から築山殿を一緒に連れてきていたとする話で、
──女性を戦場には連れて行かないでしょ?
と反論されそうだが、徳川家康は、阿茶局や、お梶の方(男装・騎乗)を同行させた実績もある。

実際、今川義元の姪である築山殿を遠江侵攻時に連れて行くのはメリットがあり、
①自分は遠江国を領する今川家の姫の夫である
②妻の両親は今川氏真に自害させられた。これは敵討ちである
と正当性を主張することができたという。

そして、引馬城を守るお田鶴の方を討ち終えると、築山殿は塚を築いて自ら100本余の椿を植えたとされるが、そこで彼女が病気になり、名医として有名な元慶が呼ばれるが、これがよくなかった。
築山殿と元慶が不義密通をしたのである。
怒った家康は、三ッ山での宴会中に、野中重政に殺させた――というのが浜松に伝わる顛末である(『遠江古蹟圖會』「築山御前の墓」)。
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