酒井忠世/Wikipediaより引用

徳川家

酒井忠世(家康と秀忠の側近)雅楽頭家の忠臣は三河時代から徳川を支えた

「人生何があるかわからない」

使い古された表現の一つながら、人間誰しも歳をとればとるほど実感の湧く言葉でもありますよね。

本日は、最晩年に思わぬ落とし穴が待っていた武士のお話。

元亀三年(1572年)6月5日は、徳川家臣の酒井忠世が誕生した日です。

酒井家はいろいろな系統があって少々ややこしいですが、忠世の家は「雅楽頭家(うたのかみけ)」と呼ばれ、徳川四天王に数えられる酒井忠次とは違う血筋の人です。

忠次のほうは「左衛門尉家(さえもんのじょうけ)」と呼んでいます。

酒井忠次―鉄の結束・三河武士をまとめた熱い忠義【徳川四天王 四之太刀】

続きを見る

どちらも古い時代から松平家に仕えていた、まさに譜代の家臣という家柄です。

 

音楽の才は……? 家康の命で雅楽頭を名乗るように

酒井忠世も幼い頃から徳川家康に仕え、10代後半辺りから家康や徳川秀忠の側近を務めました。

徳川家康(松平元康)が直面した3度の絶体絶命!75年の生涯まとめ【年表付】

続きを見る

家康が関東に移ると、父とは別に加増を受けて川越城主となっています。この頃は10代後半で、秀忠付きの重臣として扱われるようにもなりました。

秀忠は忠世の7歳下なので、年の近い側近として選ばれたのでしょう。

朝鮮出兵では名護屋城に滞在し、関が原に際しては会津征伐や第二次上田合戦に従軍しています。

おそらく、上田では逸る秀忠をなだめる場面もあったのでしょう。

秀忠からの信頼も上々でした。

特に、当人が二代目の征夷大将軍になると、忠世はそれまでの忠勤を評価されてか、筆頭年寄として一段と高い立場になりました。

徳川秀忠(家康の三男)関ヶ原の遅刻は冤罪か!? 二代目将軍の実力

続きを見る

この場合の「年寄」は老中とほぼ同じ意味で、現代でいえば大臣のようなものです。

その後、大御所となった家康の命で雅楽頭(うたのかみ)を名乗るよう命じられました。

「雅楽頭」は朝廷の雅楽寮(うたりょう)という役所のトップのことです。文字通り音楽を担当する役所なのですが、忠世が楽の才を持っていたとか、楽器が得意だったという話はありません。

むしろ無口で有名な人でした。

おそらくは、忠世の先祖が雅楽助(雅楽寮のナンバー2)を名乗っていたからだと思われます。

 

朝廷・幕府がギクシャク 最悪のタイミングで火事騒動が

同じ酒井氏でも、忠次のほうは「海老すくい」という踊りを得意としていたとされるので、こっちのほうが何となく雅楽頭の通称が合う気がしますね。

まあ、このころ忠次は既に他界していますし、上記の通り忠次の系統は左衛門尉(さえもんのじょう)家と呼ばれていたのですけれども。

こうして幕府の中でも指折りの重鎮になった忠世でしたが、大坂夏の陣が終わり、父・重忠の領地を受け継ぎ、さらに家光付きになり……と、次代までの活躍を期待されました。

大坂夏の陣がわかる局地戦まとめ! 幸村が突撃し又兵衛が散った各地の戦績は?

続きを見る

しかし、晩年に差し掛かる頃、思わぬ失敗をしてしまいます。
※続きは【次のページへ】をclick!

次のページへ >



-徳川家
-

Copyright© BUSHOO!JAPAN(武将ジャパン) , 2020 All Rights Reserved.