佐川官兵衛

中央が佐川官兵衛/wikipediaより引用

明治・大正・昭和

斬り合いの最中に銃弾が胸を貫いた!会津藩士・佐川官兵衛の西南戦争タイマン

2025/03/17

大河ドラマで2013年『八重の桜』と、2014年『軍師官兵衛』を比較して、

「駄目な方の官兵衛」

「寝坊した官兵衛」

という、可哀相なあだ名を得てしまった会津藩士がおります。

佐川官兵衛です。

『八重の桜』では中村獅童さんの愛嬌あふれる演技が印象的でした。

ではなぜ、あそこまで見事に寝坊を突っ込まれたのか?

と言いますと、ドラマの作り話ではなく史実だったからです。

しかし、だからといって佐川を軽んじるのは早計。

山川浩と同じく西南戦争へ出向いた彼は、元会津藩士たちの悲哀憤怒を背負い、明治10年(1877年)3月18日、壮絶な最期を迎えます。

佐川の生涯を振り返ってみましょう。

佐川官兵衛/wikipediaより引用

 


藩主からの信頼も篤い佐川官兵衛

会津戦争において松平容保から労いの杯を賜り、そのまま気持ちよく寝過ごして、出陣のタイミングを逃してしまった――。

そんな佐川官兵衛のために弁護をしますと、当時は連戦で身体が疲れ切っていたのです。

なので寝坊をあまり責めないでおきたいところ。

ちょっとドジではあったものの、佐川は人望が篤く、愛すべき性格でした。

若い頃、江戸で定火消と言い争いになり斬り捨ててしまい、謹慎処分を受けております。こうした粗忽な一面もありながら、素直で愛嬌のある性質であったゆえ皆から好かれておりました。

佐川は会津藩士らしい真っ直ぐな性質で、会津若松城落城後も、最後まで戦おうとします。

そこに容保から「先に降伏してすまなかった」という書状が届いたのです。

松平容保/wikipediaより引用

それに応じてやっと降伏したものの、高熱が続いて苦しめられたほど……負けず嫌いで真っ直ぐな性格でした。

会津戦争のあとは、切腹を申しつけられた萱野権兵衛の代わりになりたいと申し出るものの、受け入れられません。

斗南藩に移ってからは、どこか落ち込んだような日々を送っていた、それが佐川でした。

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“鬼官”ちゅう男がいたはずだ

そんな佐川官兵衛に、目を付けた男がいます。

「会津には、“鬼官”ちゅう男がいたはずだ」

警視庁を組織することに力を注いでいた元薩摩藩士の川路利良です。

川路利良/wikipediaより引用

彼の脳裏にも、会津で鬼と呼ばれるほど強かった佐川の記憶があったのです。

官兵衛も四十歳を越えて、年老いたと思う日々です。

残る命を、会津の名誉のために燃やすにはどうすればよいのか?

彼の背後には、職と出世を求めた会津藩士もおりました。

川路の誘いを受け、佐川は警視庁出仕を決めます。

ちなみに佐川は、とある人物の仲人でもあります。

その人物とは、斎藤一あらため藤田五郎と、時尾夫妻でした。藤田も警視庁に出仕しておりました。

警視庁に出仕した佐川は、続発する士族反乱の鎮圧を目の当たりにすることになります。

その中には、旧会津藩士・永岡久茂が首謀者であった明治9年(1876年)【思案橋事件】もありました。

永岡久茂/wikipediaより引用

明治の世は、佐川にとって辛いものです。

それでも、彼は生き抜くほかありませんでした。

 


心やさしき鬼官兵衛さま

明治10年(1877年)、西南戦争が勃発します。

佐川官兵衛と警視庁に勤めていた藤田五郎一等巡査は、この時を待っていたと喜び勇みました。

憎き薩摩藩士を斬る好機到来というわけです。

斎藤一/wikipediaより引用

佐川は、豊後口第二号警視隊副指揮長兼一番小隊長として従軍。

味方に対して厳しく命令を下します。

・物品を購入した際には、きちんと見合う金額を支払うこと

・不正な行為はせず、住民に暴力的なことは絶対にしない

薩軍も官軍も、横暴な振る舞いが目立った西南戦争です。

ところが佐川の部隊は規律正しく、見物にふらふらと来た子供すら可愛がり、こう言うほどでした。

「よしよし、敵の首さ、土産に持って来てやっがらな」

はじめこそおっかなびっくり佐川を迎えていた住民も、だんだんと敬愛を抱くようになったほど。

「さすがは官軍さまだ」そう言い合っていたのです。

 

敵は鎌田雄一郎 示現流の使い手

3月18日、黒川村。

佐川官兵衛率いる隊は、薩軍と対峙することになります。

激戦の最中、佐川は敵の隊長と見定めた男に、軍刀を抜いて挑みかかります。

敵は鎌田雄一郎でした。

溝口派一刀流の佐川と、薩摩示現流の鎌田です。

剣を構えてにらみ合い、相手の猿叫が響く中、両者は斬り結びあうのでした。

一進一退の中、佐川は胸に衝撃を受けます。

狙撃でした。

剣での戦いと銃撃が混じり合う、この頃ならではとも言える壮絶な最期。

享年47。

「鬼佐川」は、元会津藩士として激闘を戦い抜き、そして斃れました。

◆

訃報を聞き、川路利良も涙したとされます。

あれほど勇敢な鬼の佐川を、もっとよい環境で戦わせるべきだったと、彼は悔しがったのでした。

辞世は、薩軍の待ち受ける地に赴いた朝、明神ヶ池の水を飲んで詠んだとされています。

君が為 都の空を 打ちいでて 阿蘇山麓に 身は露となる

知恵山川(山川浩)と鬼佐川――会津戦争を戦い抜いた二人は、それぞれの戦い方で有名を西南戦争で残しました。

山川浩/wikipediaより引用

これもまた、西南戦争の一面と言える歴史なのです。


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【参考文献】
櫻井懋『山川浩』(→amazon)
長野浩典『西南戦争 民衆の記《大義と破壊》』(→amazon)
小川原正道『西南戦争―西郷隆盛と日本最後の内戦 (中公新書)』(→amazon)
猪飼隆明『西南戦争―戦争の大義と動員される民衆 (歴史文化ライブラリー)』(→amazon)
野口信一『会津藩 (シリーズ藩物語)』(→amazon)

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    小檜山青

    東洋史専攻。歴史系のドラマ、映画は昔から好きで鑑賞本数が多い方と自認。最近は華流ドラマが気になっており、武侠ものが特に好き。 コーエーテクモゲース『信長の野望 大志』カレンダー、『三国志14』アートブック、2024年度版『中国時代劇で学ぶ中国の歴史』(キネマ旬報社)『覆流年』紹介記事執筆等。

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