佐川官兵衛

中央が佐川官兵衛/wikipediaより引用

明治・大正・昭和

斬り合いの最中に銃弾が胸を貫いた! 会津藩士・佐川官兵衛の西南戦争タイマン

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心やさしき鬼官兵衛さま

明治10年(1877年)、西南戦争が勃発します。

佐川官兵衛と警視庁に勤めていた藤田五郎一等巡査は、この時を待っていたと喜び勇みました。

憎き薩摩藩士を斬る好機到来というわけです。

斎藤一/wikipediaより引用

佐川は、豊後口第二号警視隊副指揮長兼一番小隊長として従軍。

味方に対して厳しく命令を下します。

・物品を購入した際には、きちんと見合う金額を支払うこと

・不正な行為はせず、住民に暴力的なことは絶対にしない

薩軍も官軍も、横暴な振る舞いが目立った西南戦争です。

ところが佐川の部隊は規律正しく、見物にふらふらと来た子供すら可愛がり、こう言うほどでした。

「よしよし、敵の首さ、土産に持って来てやっがらな」

はじめこそおっかなびっくり佐川を迎えていた住民も、だんだんと敬愛を抱くようになったほど。

「さすがは官軍さまだ」そう言い合っていたのです。

 


敵は鎌田雄一郎 示現流の使い手

3月18日、黒川村。

佐川官兵衛率いる隊は、薩軍と対峙することになります。

激戦の最中、佐川は敵の隊長と見定めた男に、軍刀を抜いて挑みかかります。

敵は鎌田雄一郎でした。

溝口派一刀流の佐川と、薩摩示現流の鎌田です。

剣を構えてにらみ合い、相手の猿叫が響く中、両者は斬り結びあうのでした。

一進一退の中、佐川は胸に衝撃を受けます。

狙撃でした。

剣での戦いと銃撃が混じり合う、この頃ならではとも言える壮絶な最期。

享年47。

「鬼佐川」は、元会津藩士として激闘を戦い抜き、そして斃れました。

訃報を聞き、川路利良も涙したとされます。

あれほど勇敢な鬼の佐川を、もっとよい環境で戦わせるべきだったと、彼は悔しがったのでした。

辞世は、薩軍の待ち受ける地に赴いた朝、明神ヶ池の水を飲んで詠んだとされています。

君が為 都の空を 打ちいでて 阿蘇山麓に 身は露となる

知恵山川(山川浩)と鬼佐川――会津戦争を戦い抜いた二人は、それぞれの戦い方で有名を西南戦争で残しました。

山川浩/wikipediaより引用

これもまた、西南戦争の一面と言える歴史なのです。


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文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link

【参考文献】
櫻井懋『山川浩』(→amazon
長野浩典『西南戦争 民衆の記《大義と破壊》』(→amazon
小川原正道『西南戦争―西郷隆盛と日本最後の内戦 (中公新書)』(→amazon
猪飼隆明『西南戦争―戦争の大義と動員される民衆 (歴史文化ライブラリー)』(→amazon
野口信一『会津藩 (シリーズ藩物語)』(→amazon

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