榊原康政

榊原康政/wikipediaより引用

徳川家

榊原康政(家康の腹心)秀吉に「10万石の懸賞首」をかけられたその生涯

徳川四天王をご存知でしょうか?

徳川家康のもとで大活躍をした四名の有名武将で、

・戦国最強の誉れ高い本多忠勝

・赤鬼と恐れられた井伊直政

長篠の戦いで重大な働きをした酒井忠次

などなど、いずれも戦国史で存在感を放っている方たちです。

本日、注目したいのはもう一人の四天王・榊原康政であります。

四人の中では一見、地味な存在ながら、実際は「秀吉に10万石の懸賞首をかけられた」なんて逸話もあるキレ者武将だったりします。

一体どんな人物だったのか?

今回は康政の生涯にスポットを当ててみましょう。

榊原康政/wikipediaより引用

 

元は家臣の家臣 陪臣の家系

榊原康政は天文17年(1548年)、酒井忠尚の家臣として、三河上野城(現・愛知県豊田市上郷護国神社)に生まれました。

酒井忠尚は、家康の父・松平広忠の家臣。

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つまり康政は当初、陪臣(家臣の家臣)だったんですね。

かように生まれた身分は重くなかったものの、小さい頃から勉学を好んで書にも励んだとされ、天才肌というよりコツコツ努力を重ねるタイプだったのでしょうか。

13歳のとき徳川家康の小姓となり【三河一向一揆】で初陣を果たしました。

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元の主だった酒井忠尚はこのとき一揆側にいたといわれています。

もし家康の小姓になっていなければ、康政が徳川四天王に名を連ねることはなかったかもしれませんね。

一揆の戦功によって家康から「康」の字をもらったともされていますが、元服は若干遅く、一揆から5年ほど経った永禄九年(1566年)でした。

康政は兄・清政に代わって榊原家を継いでいるので、それに関する諸々のトラブルがあったのかもしれません。

詳細は不明ですが、後に康政は幾度か兄を見舞っておりますので、健康上の理由だった可能性もありましょうか。

 

若き頃から家康と苦楽を共にしてきた

元服後は、同年の本多忠勝とともに、家康の旗本先手役(護衛と先陣の両方を担う役目)という大変重要な役を任されました。

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忠勝や康政、そして井伊直政は家康の「子飼い」とも呼べる将ですね。

四天王のうち酒井忠次だけは家康より年上なので、少し性質が異なりますが、いずれにせよ徳川四天王は「家康が若い頃から苦楽をともにしてきた仲」の人物であるということになります。

「忠次が康政と直政のケンカをなだめた」なんて話もありますので、年長の忠次が他の三人の仲立ちになるということも、たびたびあったかもしれませんね。

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そんなわけで康政は、家康の重要イベントである

三方ヶ原の戦い

・長篠の戦い

神君伊賀越え

といった主要な出来事にも深く関わっております。

その中でも特に強烈なエピソードが残っているのが天正12年(1584年)に勃発した【小牧・長久手の戦い】でしょうか。

【小牧・長久手の戦い】

豊臣秀吉
vs
徳川家康 with 織田信雄(信長の次男)

という秀吉と家康によって行われた覇権争いであり、康政は家康の家臣ですから、当然、敵は秀吉です。

「小牧・長久手の戦い」での榊原康政/Wikipediaより引用

そこで康政は槍働きだけでなく、意外な方向から秀吉へ攻撃を繰り出しました。

「信長公の恩を忘れて主家を乗っ取ろうとする不届き者! そもそもどこの馬の骨ともわからんヤツに従う義理はない!!」(意訳)と罵った手紙を、本人に送りつけたというのです。

すると……。

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