榊原康政

榊原康政/wikipediaより引用

徳川家

徳川四天王・榊原康政にはどんな功績がある? 家康と歩んだ生涯59年

徳川四天王をご存知でしょうか?

徳川家康のもとで大活躍をした四名の有名武将で、

・戦国最強の誉れ高い本多忠勝

・赤鬼と恐れられた井伊直政

長篠の戦いで重大な働きをした酒井忠次

などなど、いずれも戦国史で存在感を放っている方たちです。

本日、注目したいのはもう一人の四天王・榊原康政

四人の中では地味な存在ながら、実際は「秀吉に10万石の懸賞首をかけられた」なんて逸話もあるキレ者武将だったりします。

一体どんな人物だったのか?

今回は、慶長11年(1606年)5月14日が命日である、榊原康政の生涯にスポットを当ててみましょう。

榊原康政/wikipediaより引用

 

榊原康政は陪臣の家系だった

榊原康政は天文17年(1548年)、酒井忠尚の家臣として、三河上野城(現・愛知県豊田市上郷護国神社)に生まれました。

酒井忠尚は、家康の父・松平広忠の家臣。

つまり康政は当初、陪臣(家臣の家臣)だったんですね。

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かように生まれた身分は重くなかったものの、小さい頃から勉学を好んで書にも励んだとされます。

天才肌というよりコツコツ努力を重ねるタイプだったのでしょうか。

そして「書が得意」という点は、後に意外なところで力を発揮することになりますので後述しますね。

年齢的には、家康の6歳下で、同じ四天王の本多忠勝とは同い年。

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ついでに他の四天王を見てみますと、酒井忠次が康政の21歳上で、井伊直政が13歳下です。並べてみましょう。

酒井忠次(21歳上)

榊原康政・本多忠勝(同年)

井伊直政(13歳下)

ご覧の通り、徳川四天王の中だけでも、親子や祖父・孫のような年齢差があるんですね。徳川家臣団の層の厚さがうかがえます。

榊原康政の初陣は、13歳のときに起きた【三河一向一揆】でした。

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このときは家康の小姓として参戦。

元の主だった酒井忠尚は、このとき家康と対立する一揆側にいたとされています。

もし家康の小姓になっていなければ、康政も忠尚の配下として一揆方として参戦していたでしょう。

その場合、徳川四天王に名を連ねることはなかったのでは……。

一揆の戦功によって家康から「康」の字を貰ったともされますが、元服は若干遅く、一揆から5年ほどが経った永禄九年(1566年)のことでした。

康政は兄・榊原清政に代わって榊原家を継いでいるので、それに関する何らかのトラブルがあったのかもしれません。

詳細は不明ですが、後に康政は幾度か兄を見舞っておりますので、健康上の可能性もありましょうか。

 

若き頃から家康と苦楽を共にしてきた

元服後の榊原康政は、同年の本多忠勝と共に家康の旗本先手役という役を任されました。

護衛と先陣の両方を担う、非常に重要な役目です。

忠勝や康政、そして井伊直政が家康の「子飼い」とも呼ばれるのは、こうした役目も担ったからこそでしょう。

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酒井忠次だけは家康より年上なので、少し性質が異なりますが、いずれにせよ徳川四天王は「家康が若い頃から苦楽をともにしてきた仲」の人物であるということになります。

忠次が「康政と直政のケンカをなだめた」なんて話もありますので、年長の忠次が他の三人の仲立ちになるということも、たびたびあったかもしれませんね。

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元亀元年(1570年)6月28日――織田信長の同盟者として徳川軍も参加した【姉川の戦い】では、先陣が酒井忠次隊、康政は二番手として奮戦。

その勢いがすさまじく、忠次隊の面々も「先に手柄を挙げられてたまるか!」と、大いに士気を上げたという話もあります。

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他にも家康の重要イベントである

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といった主要な出来事にも深く関わっております。

三方ヶ原の戦いでは、あえて浜松城の手前で止まり、

「武田軍は勝ちに勝って、油断しているに違いない。夜に奇襲を仕掛ければ、これ以上の追撃は防げる」

と冷静に判断。

昼のうちに浜松城へ入れなかった兵を集めて夜を待ち、勢いに乗った武田軍を奇襲しました。

この作戦は見事に当たり、武田軍を大混乱させています。

勇猛果敢かつ冷静沈着といった感じで、実にカッコイイですね。

 

小牧・長久手の戦い

特に強烈なエピソードが残っているのが天正12年(1584年)。

小牧・長久手の戦い】でしょう。

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vs
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本能寺の変後、柴田勝家を破り、織田家の主導権を握った秀吉。

旧・武田領や家臣などを取り組み、東海甲信地方で絶大な力を有するようになった家康。

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両者が覇権を競った争いであり、榊原康政は家康の家臣ですから、当然、秀吉は敵となりました。

そこで康政は、槍働きだけでなく、意外な方向から攻撃を繰り出します。

【意訳】信長公の恩を忘れて主家を乗っ取ろうとする不届き者よ!

そもそもどこの馬の骨ともわからんヤツに従う義理はない!!

こんな風に秀吉を罵った手紙を、本人に送りつけたというのです。

敵を怒らせるのも戦略のうちとはいえ、康政の手紙は、空前絶後の度胸と言わざるを得ません。

当人は達筆だったので、この罵詈雑言(正論)も相当綺麗な字で書かれていたことでしょう。煽り度がうなぎ登りですね。

もちろん、秀吉は怒髪天を衝く勢いで怒りました。

「康政を討ち取った者には10万石を与える!!」

とまぁ、いかにも秀吉らしいリアクションで面白い話なのですが、話の出典が江戸時代の書物ですので、信ぴょう性については疑問符が付くところです。

実際に榊原康政が家康から10万石を貰っているので、それだけ活躍したということは間違いないんですけどね。

ちなみに「10万石」という懸賞首が本当だとしたら、これがどのくらいスゴイ賞金になるのか?

「石」は領地の単位というイメージをお持ちの方も多いかと思います。

元々はお米の量を指し、1石=大人一人が一年間に食べる米の量となり、だいたい150kgくらい。

つまり康政の首は、10万人を一年養えると見なされたことになりますね。秀吉どんだけキレてるねん。

余談ながら、現代の日本人は一年で一人50~60kgくらいの米を食べているといわれています。

つまり戦国時代の人は、現代人の三倍前後も食べていた。

料理のレパートリーが少なかった時代とはいえ、米の重要性がわかりますよね。

そして康政、これだけの啖呵を切るからには、相当の覚悟も決めています。

家康はこの戦の際、一時的に『小牧城に康政を残し、撤退しようか』と考えていました。

重臣居並ぶ場でこの話を聞かされた康政は

「秀吉ほどの敵を引き受け、城を枕に討ち死にするのであれば、末代までの誉れ」

と言っていたそうです。いやーカッコイイ。

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