桶狭間の戦いに敗れた今川義元。
その先陣として大高城への兵糧運搬を成功させた徳川家康(当時は松平元康)は、喜びに浸るのも束の間、思わぬ惨事に直面し、窮地に陥ります。
主亡き今、駿府へ戻るべきなのか?
岡崎城へ進んでみるのか?
その途上、立ち寄ったのが大樹寺。
自害をも覚悟した家康――それを生きるように諭したとされるのが登譽上人(とうよしょうにん)です。
大河ドラマ『どうする家康」では里見浩太朗さんが演じる、いかにも徳の高そうな僧侶でしたが、いったい彼は徳川家康の人生にどんな影響を与えたのか。
後の「神君」を救った伝説といえば
登譽上人と徳川家康の話のはずなのに、まずは遠くイングランドに注目することをご容赦ください。
9世紀の同国に、かつてアルフレッド王という人物がいました。
ヴァイキングの度重なる襲撃から生き延び、勝利を収めた人物であり、その功績から「アルフレッド大王」と呼ばれて顕彰されています。
彼を讃えた演劇の劇中歌『ルール・ブリタニア』は今に至るまで愛されるほど。
そんなイギリス人にとって、国民的な夏の風物詩があります。
7月から9月の8週間にわたってBBCが主催で開催するクラシック音楽祭「プロムス」です。
BBCで中継もされ、「やっぱりこれがイギリスの夏だよな!」と見る人も多いとか。
そのイベント中の定番曲が『ルール・ブリタニア』で、これを聞かないと夏が終わらない――まるで夏の甲子園に流れる高校野球の大会歌『栄冠は君に輝く』のような名曲ですね。
そんな国民的英雄には、かろうじて生き残った伝説があります。
夜間にヴァイキングの襲撃を受け、かろうじて逃げ延びたアルフレッド。
農家に逃げ込みむと、その家の女性が「焦がさないように、パンを見張ってなさい」と頼んで席を外します。
しかし、ヴァイキング対策で頭がいっぱいのアルフレッドは、案の定、焦がしてしまう。
戻ってきた女性は箒でバシッとアルフレッドを叩きました。
家臣が慌てて割って入ると、女性は謝りますが、アルフレッドは「いや、焦がした自分が悪い」と語ったという伝説です。
時代も国も違うとはいえ、こうした絶体絶命伝説は国民に愛されます。
偉大なる王を窮地から救い、再起のきっかけを与える――。
箒で叩くか。
それとも諭すか。
違いはあるとはいえ、登譽上人はこのおばちゃんと似たような立ち位置の人物と言えるでしょう。
ならばイギリスと日本での知名度はなぜこうも違うのか?
それもまた歴史と言えましょうか。
アルフレッド大王がイングランドの祖として顕彰されていく一方、徳川家康が神として崇められる機会は明治以降めっきり減りました。
『ルール・ブリタニア』も、BLM運動以来批判の対象とされます。
英雄崇拝の行く末を考えることも興味深いもの。
そこであらためて登譽上人に注目です。
自害を止め、導いた高僧伝説
実は、登譽とは“伝説上の人物”としか言いようがありません。
相模国小田原に生まれ、浄土宗成道山大樹寺の13代目住職であったとはされます。
そこへ徳川家康(当時は松平元康)が逃げ込んだ。
その経緯を振り返ってみましょう。
永禄3年(1560年)5月19日に勃発した【桶狭間の戦い】で、今川義元は織田信長に討たれてしまいました。
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桶狭間の戦い|なぜ信長は勝てたのか『信長公記』の流れを振り返る
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今川方に味方していた諸将は、当然ながらピンチに陥り、戦場から急いで撤退せねばなりません。
とはいえ、当時の今川軍と織田軍は、単純に勝ち負けだけでは判断できません。なぜなら義元が討たれても、依然として兵力は今川の方が多かったからです。
確かに『どうする家康』では、負け組となった松平元康が、織田信長に追い詰められていました。
しかし、2020年の大河『麒麟がくる』を思い出してください。あの作品における桶狭間の戦いで、信長は望外の勝利に満足し、凱旋する姿が描かれたものです。
雨の中、ピンポイントでの奇襲に成功し、義元を討ち取った織田軍に、その後、残った今川方の諸将を討ち取る余裕があったかどうか。
現実問題、織田軍も砦を落とされるなどして無傷ではなく、勝利した信長にしたって、まずは無事に尾張へ戻ることが第一だったはず。
織田に比べて圧倒的だった今川との戦力差を踏まえると、『麒麟がくる』の方が自然な表現と言えるでしょう。
このとき家康は斥候を出して情報を収集しながら、次の一手を考えました。
彼にとって今川はもはや敵の可能性もあります。今川方には、義元の威のもとに味方同士とされただけで、実際には敵対していた者もいました。
駿府に戻るのではなく、岡崎を得る――元康の賭けはそんな状態で始まり、何一つ身の保証は無く、だからこそ岡崎城に今川方がいると察知すると、ひとまず大樹寺に入って態勢を整えました。
『麒麟がくる』で描かれた元康は、必ずしも今川に心服しておらず、隠密の菊丸を使って情報を集めていました。
あのときの元康なら、そうした冷静な行動をとるものです。
一方『どうする家康』はどうか?
伝説よりも榊原を重視した展開に
大樹寺に入った家康。
『どうする家康』ではその後、エモーショナルな伝説をアレンジしながら、実際の放送では以下のように流されました。
・敵兵に追われた元康は、逃げ込んだ大樹寺の先祖の墓前で自害をはかる
→ドラマでは本多忠勝が介錯を買って出ていた。
・登譽が自害を止め、元康の先祖・平親忠が将軍の別称である「大樹」を寺号にこの寺を創設したことを語る。元康がのちの将軍となることを示唆する、まさしく伝説の流れ
→ドラマでは放送なし
・「厭離穢土 欣求浄土」という浄土宗の教えを説き、後に徳川家康の旗印となる
→ドラマではたまたま覗き見をしていたニヒルでクールな榊原康政が、以下のように述べていた。
「ただ、あの、恐れながら間違いにございます。
『厭離穢土欣求浄土』
あの世に行けという意味ではございませぬ。汚れたこの世をこそ浄土にすることを目指せ。
かような意味と登譽上人様に教えてもらいました」
要は、榊原康政に言わせるようにアレンジしたのです。
ならば、なぜ登譽上人を出したのだろう……?と迷ってしまう場面ですが、とにかく後の四天王である榊原康政の顔見せをしたかったのでしょう。
アルフレッド大王の故事だとすれば、さしずめイケメン家臣たちが焦げたパンを食べつつ、
「うまいっすよ! こうしてダメになったようでもいけるんじゃないスか、俺らも再起しましょ!」
と語りかけるようなノリでしょうか。
里見浩太朗さんのようなベテラン俳優が重々しく教えを説くより、軽快な展開を選んだということですね。
あくまで伝説ではあるけれど
登譽上人はあくまで伝説上の人物です。
偉大なる王の危機を救う――物語ではお約束の人物であり、家康が「厭離穢土欣求浄土」を旗印とした経緯には複数の説があります。
出しても出さなくてもよい。
そこを踏まえると『どうする家康』の方向性は明確。
重々しい神君家康公ではなく、明るくノリのいい、現代若者のような姿にしたかったのでしょう。
寺島しのぶさんが敢えて伝説を茶化してナレーションを語り、ズッコケ要素を入れた本編が始まるあたりからもうかがえます。
『鎌倉殿の13人』の陰惨さが苦手だった方にとっては良いのかもしれません。
なお、桶狭間の戦い後、家康がどうやって岡崎城までたどり着いたのか――という行軍ルートについては、以下の記事で検証されていますので、よろしければ一読ください。
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【参考文献】
柴裕之『青年家康 松平元康の実像 (角川選書)』(→amazon)
柴裕之『徳川家康 (中世から近世へ)』(→amazon)
他






