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【松平忠輝】
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この頃、まだ豊臣家は健在でした。
彼らからすれば
「家康はもう老人。亡くなればきっと天下は秀頼に返ってくる」
というのが最後の希望。
しかし、家康は当然お見通しでした。
自分が生きているうちに秀忠へ将軍職を継承させ、豊臣家へ権力を返す可能性を完全に否定したのです。
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さらに、家康は秀吉の正室だった高台院(ねね)を通して
「秀頼様に江戸へご足労いただき、秀忠の将軍就任を祝っていただきたい」
とまで申し入れました。
これは秀頼に対し、「徳川家の下風に立て」と言ったも同然。
当然、秀頼の生母・淀殿は大激怒、拒絶しました。
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秀忠の名代に選ばれた忠輝
ここからは個人的な推測をはさみますが……家康としては、軽いジャブのつもりだったのかもしれません。
豊臣方がこの要求を飲めば、権力への執着が薄れたとみなし、公家として残す事も考えていた可能性はなきにしもあらず。
家を残してやれば、未来永劫にわたって秀吉の子孫に「ウチは徳川のおかげで生き残れたんだよ」と伝えさせることができるのですから、本能寺の変から20年も天下取りを先延ばしにされた恨みも晴れようというものです。
拒絶された場合についても、即座に武力を行使するつもりはなかったのではないかと思われます。
秀忠の将軍就任が慶長十年(1605年)、大坂冬の陣が慶長十九年(1614年)です。
実際には徳川方が多少譲歩し、”秀忠の名代”が秀頼へ挨拶に行くことで収まっています。
この名代に選ばれたのが松平忠輝でした。
といっても、この人選は消去法という印象もあります。
家康は子沢山ですが、このとき名代を務められる人が忠輝しかいなかったのです。
この名代の件と絡めながら生まれ順に並べると、以下のようになります。
長男・信康 天正七年(1579年)に切腹、故人
次男・秀康 結城氏に入っていたので、秀康の名代役には微妙
三男・秀忠 将軍継承済み、直接秀頼に挨拶しに行くと豊臣>>>>徳川になってしまうのでマズい
四男・忠吉 慶長九年(1604年)頃から病気がちになっており、名代は荷が重い
五男・信吉 慶長八年(1603年)に死去
六男・忠輝 存命かつ健康 ←この記事の主役
七男・松千代 慶長四年(1599年)1月夭折
八男・仙千代 慶長四年(1599年)3月夭折
九男・義直 慶長五年(1601年)生まれなので慶長十年(1605年)に名代は無理
十男・頼宣 慶長七年(1602年)生まれ(以下同文)
十一男・頼房 慶長八年(1603年)生まれ(以下同文)
なんだか、本当に「他にいないからしょうがなくお前にやらせるわ」感がすごいですね。
越後・高田藩45万石
頼りにされているとも言いきれず、かといって完全に見放されているわけでもなく……微妙な立ち位置になった松平忠輝。
慶長十五年(1610年)には越後・高田藩を与えられ、45万石という大身になっています。
舅・政宗との関わりも強まりました。
忠輝の居城・高田城(新潟県)築城の総監督を政宗が務めたり、後述する大坂夏の陣では実戦経験のない忠輝の相談役に政宗があてられたり、切っても切れない関係になったのです。
他の逸話にインパクトがありすぎるのでかき消されがちですが、北陸道の宿駅制度(今でいう郵便制度)を整えるなど、真面目な仕事もきちんとやっています。
まるっきりのバカ殿や乱暴者というわけではなかったということですね。
政宗の協力もあり、今度こそなんとか立場が固まるかと思いきや……大坂冬の陣前後から、”忠輝乱心”の噂が立ち始めます。
「家臣をむやみやたらと手打ちにした」とか「生きたまま人の腹を裂かせた」とかお決まりのアレです。
甥っ子にあたる松平忠直(秀康の息子)とほぼ同じ内容ってだけでも胡散臭さ全開ですね。もうちょっとバリエーションがあれば信憑性が増したでしょうに。
この噂を信じたのか、それともこれを好機と見たのか。
大御所・家康と将軍・秀忠は露骨に忠輝を冷遇し始めます。
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