艶のある優しさや色気で、金持ちの爺さんをメロメロにして、死後その家を乗っ取る――。
『後妻業の女』が一時期話題となりました。
若い女性が高齢男性を意のままに操り、財産から残りの寿命まで全てを奪ってしまうのは、ある意味、人類普遍の現象なのでしょうか。
戦国時代には、日本史上で最もスケールの大きな悪女とされる女性が登場します。
ご存知、浅井三姉妹の長女であり、豊臣秀吉の室となった彼女は二人の男子を産むなどして秀吉の尋常ならざる寵愛を得て、最終的に息子の秀頼が豊臣家を継いでいます。
同時に、彼女の偏った愛情や判断力が息子や豊臣家を滅亡に追い込んだともされ、今なお「悪女」のイメージを背負わされた女性とも言えるでしょう。
しかし実際のところはどうなのか?
本当に悪女なのか?
慶長20年(1615年)5月8日はその命日。
淀殿(茶々)の生涯を振り返ってみましょう。
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彼女は何と呼ぶべきなのか?
浅井茶々として生まれ、おふくろ様として大坂城に散った彼女は何と呼べばよいのか?
実は結構難しい問題です。
例えば北条政子の場合、当時はそう呼ばれていなかったことが確かでありながら、現在では定着しているため、フィクションでも同名が用いられます。
一方、時代によって変わる人物もいて、豊臣秀吉の正室・北政所がその代表例です。
「ねね」か「おね」か、研究の進展によって異なります。
織田信長の小姓として有名な森蘭丸も、大河ドラマ『どうする家康』では「森乱」が採用されました。
『真田丸』の放送以降に「真田信繁」が広まった真田幸村は、ドラマの中で「信繁」から「幸村」に変わる過程が、ストーリー展開にうまく織り込まれていました。
歴史人物の名前は、とかく難しく、特に浅井茶々の場合は、江戸時代以降の偏見を考慮せねばなりません。
彼女が「淀」と呼ばれるのは、第一子の出産で「淀城を産所とした」からとされます。
当時の女性は居住場所で呼ばれるものであり、秀吉待望の男子を産んだ淀城がその名とされました。
問題は「淀」の後に続く尊称です。
女性の地位が低下してゆく江戸時代、彼女は家を滅ぼした悪女とみなされました。
そのため遊女を意味する「辻君」に由来する「君」をつけ、「淀君」という呼称が広まったとされます。
現在では「淀君」はあまり用いられず、大河ドラマですと1987年『独眼竜政宗』が最後となりました。
貶めるニュアンスのない「淀」+「殿」という呼び方が現在は一般的です。
しかし、これとて当時呼ばれていたとは考えにくい。
「淀」+「の方」か、「淀」+「様」か、特定はできません。
長々と説明させていただきましたが、本稿では現在最も一般的な「淀殿」で進めさせていただきます。
正室なのか側室なのか 謎多き女性
名前からして難しい淀殿。
実は、何者なのか?という点についても諸説ある人物です。
豊臣秀吉の側室なのか? それとも正室であるか?
ジェンダー観点からの研究も進歩しており、そもそも戦国時代の正室は一人なのか、複数いるのか、側室との違いは何か、諸説ある状況です。
戦国時代における女性の地位は、江戸時代で上書きされてしまい、現在では非常にわかりにくくなってしまいました。
江戸時代は、女性城主や当主は消えてしまいます。
戦国時代には少数ながら存在したのに、なぜそうなったのか?
父系の倫理である儒教が強固なものとなり、その価値観によって過去をはかった結果、実態がわかりにくくなってしまったのです。
淀殿は、権限がかなり強固でした。
産みの母よりも正室を重視するのであれば、淀殿が産んだ子だろうと他の誰であろうと、北政所を母として養育しても何らおかしくはない。
しかし、実態はどうも違う。
秀吉の子を産み、秀頼の母であり、大坂城の主であった――いわば戦国最後の女性城主ともいえるのがが淀殿です。
そんな彼女の人生はあまりにも劇的なためか、様々なイメージに覆い尽くされて、複雑な様相を呈しています。
今まで何度も映像化されてきたのに、その度、新たな顔が見えてくる。
実に興味深い人物です。
父の浅井長政が伯父の織田信長に敗死
浅井茶々として生まれた彼女には、実は生年からして諸説あります。
永禄10年(1567年)とすることもありますが、本稿では永禄12年(1569年)説を採用。
織田信長の妹である市は、永禄11年(1568年)頃に浅井に嫁いだと推察され、それから5年ほどの結婚生活で、三人の娘が生まれました。
それぞれの生年を確認しますと……。
◆茶々(淀殿 / 永禄12年 / 1569年)
◆初(常高院 / 元亀元年 / 1570年)
◆江(崇源院 / 天正元年 / 1573年)
婚姻後から立て続けに恵まれたんですね。浅井長政には男子もおりましたが、妊娠期間を考えると市の子ではなく、別の女性が母と推察されます。
しかし江が生まれた天正元年9月1日(1573年9月26日)、浅井長政は織田信長によって小谷城を落とされ、自刃します。
幼くして実の父を失った茶々。
三姉妹は母の市と共に城を出ることになり、それから9年目の天正10年(1582年)、今度は父を討った伯父の織田信長が本能寺の変で討たれてしまいます。
事態は急展開で進み、信長を討った明智光秀も、中国攻めから引き返してきた羽柴秀吉に敗れて討死を遂げました。
信長の死後、織田家の体制はどうなってしまうのか?
そのことが【清洲会議】で話し合われるころ、岐阜にいる市と娘たちの身の振り方も俎上にのぼります。
彼女たちは、小谷城の落城後は岐阜にいました。
信長の三男である織田信孝は、そんな市を柴田勝家に再嫁させ、二人は岐阜城で婚儀をあげました。
そして勝家の北ノ庄城へ。
母と共に北陸へ転居した三姉妹たちにとって、平穏な日々は長くは続きません。
新しく母の夫となった柴田勝家が羽柴秀吉との戦いに敗れ、天正11年4月24日(1583年6月14日)、北ノ庄城にて自刃してしまうのです。
しかもその妻であり、三姉妹の実母である市も自刃。
三姉妹は、またしても焼け落ちる城から逃され、幼くして二度目の落城を味わったのでした。
浅井三姉妹の去就
母が亡くなった後、三姉妹はどこへ身を寄せたのか。
安土城にいたとも、叔父である織田長益(織田有楽斎)のもとにいたともされます。
浅井長政と市の娘であるだけでなく、織田信長の姪でもある三姉妹。
政治的価値は高く、織田家の後継者である秀吉庇護のもと、彼女たちは政略結婚の駒として扱われることになります。
まず天正12年(1584年)、12歳の三女・江が佐治一成に嫁ぎ、同年のうちに離縁させられました。
天正15年(1587年)頃には、二女の初が京極高次に嫁いでいます。
そして天正16年(1588年)頃、茶々が秀吉の側室とされたと推察されます。第一子・鶴松の出生である天正17年からの逆算です。
なぜ妹が先に嫁いだのか?
秀吉はあえて茶々を手元に残しておいたのか?
意図的なことなのか、偶然の展開なのか?
その辺の事情が記されていないだけに、後世、様々な解釈が出されました。
秀吉が「好色である」として悪名高いのは当時から。
しかも、かつての主君である信長の姪を側室にするという所業は、倫理的にも問題があるとみなされて仕方のないところでしょう。
秀吉は、主である信長の一族を蹂躙しているように思えます。
勝家と共に秀吉に滅ぼされた織田信孝は、こんな辞世を詠んだとされます。
昔より 主(しゅう)を内海(うつみ)の 野間なれば 報いを待てや 羽柴筑前
【意訳】古来より、主筋を討つとは悪の極みである! 報いを待て、羽柴秀吉め!
信孝の予言めいたこの辞世により羽柴(豊臣)が滅びたわけではなく、後世の創作とされます。
しかし、その滅亡に信孝の従姉妹である淀殿が巻き込まれるというのも因果なことではあります。
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