享保九年(1724年)5月9日、加賀藩4代藩主で加賀前田家5代目である前田綱紀(つなのり)が亡くなりました。
槍の又左こと藩祖の前田利家を含めて5代目。
将軍でいうと、三代・徳川家光から八代・徳川吉宗の時代に生きていた人で、途中に在位数年の将軍がいるとはいえ、かなりの長さですよね。
生まれが寛永二十年(1643年)ですから、享年82。
現代でも長寿の域に入るくらいですから、当時はもっとめでたいことでした。
しかし、綱紀の人生は最初からうまくいっていたわけではありません。
どんな一生を送った人だったのか、さっそく見て参りましょう。

前田綱紀/wikipediaより引用
お好きな項目に飛べる目次
待望の男子として祝福されて
前田綱紀が生まれたとき、前田家では上を下への大騒ぎになりました。
なぜかというと、長い間男子が生まれなかったので、まさに「待望の嫡男」だったのです。
父・前田光高(4代)と祖父・前田利常(3代)は大いに喜び、誕生直後の連歌会でも喜びの歌を詠んでいたとか。
さらに光高については「綱紀誕生直後に参勤交代で地元に戻った際、120里(約468km)を7日間で踏破した」とまでいわれています。
一日あたり約67kmって……(´・ω・`)
徳川秀忠が大坂冬の陣で爆走したときよりも圧倒的に早い……間違いなく盛ってますね。
早馬のように馬を乗り捨て&乗り継いだとしても厳しいのでは?
ともかく、それだけ喜んだってエピソードが残るのも、大名家にとって跡継ぎはまさに死活問題だから。
上記の通り、当時は武断政治真っ盛りな家光の治世だったので、
【嫡子ナシ=改易】
という可能性が非常に高かったのです。
喜んだのも束の間 31歳の父が急死する
外様大名では最大勢力の前田家でも、跡継ぎなしというのは安心していられない状況でした。
大きな藩でしたら分割という手もありますし、もし前田綱紀が生まれなかったらそうなっていた可能性も否定できないでしょう。
そんなわけで真綿で包んで胴上げするような祝賀ムードだった加賀藩。
綱紀3歳のとき、4代目の父・光高が31歳の若さで亡くなるという不幸にも見舞われました。
光高は日頃から力自慢だったらしいので、おそらく筋骨たくましい人だったはず。
老中を招いた茶会の席で急死したらしいのですが、解せない話です。
老中「に」招かれてであれば毒殺の可能性も高そうですけれど、そうでもないですし、解せぬ。
とはいえ嫡男がいて、さらに隠居である利常がいたので、徳川家光からは「じゃあ、じーさんが孫を指導してやれよ」という命令が出ました。

徳川家光/wikipediaより引用
おかげで加賀藩は改易されることなく、綱紀と共に利常の元で何とかやっていくことになります。
戦国最後の武将と呼ばれる祖父に帝王教育
祖父の利常は、あの前田利家の子供です。
戦国武将といえるギリギリの世代であり、そのため前田綱紀にも武道を奨励します。

前田利常/wikipediaより引用
同時に利常は、孫の藩主としての能力を養うため、他藩で「名君」と呼ばれていた人物と引き合わせています。
例えば
仙台藩の2代目・伊達忠宗
岡山藩の初代・池田光政
など。
彼らが綱紀のお手本として選ばれたばかりか、他の客が来たときも綱紀を隣室に待機させ、話を聞くように言いつけていたと言います。
座学だけでなく他人の実体験から活きた勉強も修めさせたかったのでしょう。
かくして、じーちゃんの手で立派に育てられた綱紀は、1654年(12歳のとき)に江戸城で元服を果たして正四位下の位階を受け、1658年(16歳)に保科正之の娘を正室にもらいました。
藩主としての地位固めは順調に進んだんですね。
結婚から8年して彼女が亡くなった後、新たに正式な妻を迎えることはなかったそうです。
また、利常が亡くなった後は、舅である正之を政治の模範として藩政に励みました。
大藩ともなれば、その政治は非常に難しいものですが、果たして綱紀はどう取り組んだのか?と言いますと……。
※続きは【次のページへ】をclick!