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【前田綱紀】
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生活保護
農業方面のさまざまな制度を整えたり。土地を整備したり。
前田綱紀は色々やっていますが、特徴的なものが二つあります。
一つは飢饉の際に作った【御小屋】という施設です。
生活に困っていた人々に米を支給したり、病人のための医者を配置していたところで、今で言えば生活保護制度にあたるでしょうか。綱紀はこうした救民制度を以前から考えていたようです。
しかし、平時に設けるには費用がかかりすぎるということで家老たちから反対されていたとか。
そりゃあ、タダでご飯が食べられて病気になったときも見てもらえるとなれば、タカりに来る不届き者も予測できたでしょうしね。
飢饉のおかげで望み通りになったと見ると皮肉ですよね……。まぁ、庶民が助かったので結果オーライですが。
もう一つの特徴は【学問の奨励】です。
綱紀自身が学問好きでもあり、ジャンルにこだわらず武芸や建築、文芸などありとあらゆる学問を奨励したといわれています。
保科正之には「儒学以外はちょっと……」と言われたようですが、気にしなかったんですね。

保科正之/wikipediaより引用
正之が相手だったから穏便に済んだのであって、もし別の人だったら大ゲンカになってたんじゃないでしょうか。度胸の良さはジーチャンの薫陶かもしれません。
図書館まで整備する名君に
学問の奨励の中には【書物奉行】もあります。
新たに設けた役職であり、古書を収集&保存。学者を多く招聘した上、自らも百科事典の編纂に携わったという身の入れようです。
そのため藩士たちも学問や芸術を好む気風となり、新井白石から「天下の書府(図書館)」と賞されたとか。

新井白石/wikipediaより引用
自分の手元に集めるだけでなく、他家の文書保存にも資金や技術者を提供しており、心底学問や書物が好きだったのだろうと思われます。
また、自領内で長寿の人には褒美として米を与えたり、刑罰を緩やかにしたり、もはや江戸人ではなく現代人です。
将軍が家光から家綱に変わった後も武断政治が続いていましたが、前田綱紀の影響もあって全国的に文治政治へと変わっていく流れができました。
ジーチャンもトーチャンも、草葉の陰で胸を張っていたことでしょう。
それでいて政治的なバランス感覚もシッカリ持っているのですからたまりません。
大藩であるが故に幕府に睨まれやすいため、蓄財はしないという方針にしていたようで、改築や調度品などに惜しみなくお金を使っています。
もしかすると、上記の学問奨励もわざと散財するという面があったのかもしれません。
舞もお上手!開発も順調に130万石突破
あまりにもデキ過ぎてそろそろ悪いところも見つけたくなってきます。
しかし、残念ながら(?)さらに良いところがあります。
前田綱紀は舞の名手でもあり、プロの能楽師にも引けを取らなかったというのです。
将軍の前で披露したこともあるそうなので、若干誇張はあるにしろ相当の腕だったことは間違いないでしょう。そうした際の衣装にもお金を使っていたでしょうね。
ここまで「◯◯にお金を使いました」という話が出れば、お次は「そのせいで財政破綻しました」と続くのがお約束ですけども、加賀藩では真逆のミラクルが起きます。
徳川綱吉の時代に入って、加賀藩は名実共に100万石を達成しているのです。

徳川綱吉/Wikipediaより引用
御小屋も変わらず続けていて「加賀にはホームレスがいない。素晴らしい政治だ」とこれまた絶賛されました。
しかも綱紀の後の時代にも石高は増え続け、幕末には130万石超になっていたとか。なんかよくわからんけど、とにかく羨ましい。
★
そんな感じで家を安全な位置に落ち着かせ、民からも慕われた綱紀は、ほぼ生涯現役の藩主でもありました。亡くなる前年まで現役の藩主だったのです。
上記の通り、当時の状況で80歳超というのはかなりの長寿。
幼少期については祖父の後見もあったとはいえ、1645年~1724年まで約80年間も藩主の座にあったというのは稀な例でしょう。
この辺の安心感がより一層庶民にも藩士たちにも慕われる理由だったかもしれませんね。
藩主が積極的にお金を使ったおかげで領内でもお金が回るようになり、その結果藩ごと豊かになったのではないでしょうか。
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長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
朝日新聞社『朝日 日本歴史人物事典』(→amazon)
前田綱紀/wikipedia