天和3年(1683年)7月3日は家康の六男・松平忠輝が亡くなった日です。
天下人・家康の息子なのに苗字が徳川ではなく松平という辺りから、なんとなく違和感があるでしょうか。
家康の子には他にも「松平姓」はおりますが、この忠輝については、父親に理不尽な嫌われ方をされ続けたことで知られます。
一体なぜそんなことになってしまったのか。
松平忠輝の生涯を振り返ってみましょう。

松平忠輝/wikipediaより引用
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秀康と忠輝の命運を分けたもの
いきなりでなんですが、なぜ松平忠輝は家康に嫌われたとされるのか。
「双子で生まれたから」という説もあります。
仮に事実であれば、家康ばかりを責めるのは可哀想かもしれません。
なんせ当時は
「人間は一人ずつ生まれるのが当たり前なのに、犬猫のように何人も生まれるのはおかしい! 母親は畜生に違いない!」
という、科学が発達していない時代ゆえの誤解を受けていたのです。
双子が生まれると片方を殺したり、別の家に養子として出すこともありました。
しかし、家康が自分の気持ちを書き残しているわけではないので、確たる証拠とはいえません。

徳川家康/wikipediaより引用
ではなぜ松平忠輝は家康から嫌われていたとされるのか――実例を見ていきましょう。
松平忠輝の不遇っぷりを見るには、相続や出世などの経緯を見るのが一番わかりやすいかもしれません。
松平忠輝の同母弟・松千代と絡んだ話があります。
弟の後釜に据えられる屈辱
松千代は文禄3年(1594年)生まれで忠輝の7歳下でした。
家康は松千代に対しては他意がなかったらしく、生まれた直後から”長沢松平家”という遠い親戚筋の家を継ぐことが決まります。
しかし、松千代は慶長四年(1599年)1月に夭折。
すると家康は「忠輝、お前が長沢松平家に入れ」と命じたのです。
”弟の代わりに親戚の家を継げ”とは……ない話ではありませんが、どうにもスッキリしない話でしょう。
当事者としても微妙な気持ちだったでしょうね。
その後、忠輝も少しずつ加増や移封を重ねて出世していきましたが、年下の御三家初代たち(9男・徳川義直/10男・徳川頼宣/11男・徳川頼房)よりも立場が弱く、所領が少ないという、不遇な扱いを受け続けます。

左から徳川義直(尾張藩)・徳川頼宣(紀伊藩)・徳川頼房(水戸藩)/wikipediaより引用
ここまでされるからには、双子説以外の理由もありそうですが……残念ながら、その候補は見つかっていません。
政宗の娘・五郎八姫と結婚
松平忠輝の扱いが少しだけマシになったのは、伊達政宗の娘・五郎八姫(いろはひめ)と結婚してからでした。
このお姫様、政宗によって
「男の名前しか考えてなかったけど、”いろは”って読ませればいいよね!」
という、機転が利いてるんだか屁理屈なんだかよくわからん名付け方をされたせいか、とても勝気な人だったようです。

伊達政宗/wikipediaより引用
まぁ政宗にとっては初めて正室にできた子供だったので、男の子を望むのは当たり前ですし、しょうがないっちゃしょうがないんですが。
忠輝は武術だけでなく茶道や絵画も趣味としていたためか。
政宗の娘とはうまくやっていけたそうで、舅の政宗とも何かと行動を共にしています。
こうして後ろ盾を得て、少し地位が向上すると、忠輝は徳川秀忠の将軍就任後にちょっとした活躍をしています。
当時、豊臣家はまだ健在。
彼らからすれば「高齢の家康が亡くなればきっと天下は秀頼に返ってくる」というのが最後の希望。
しかし、家康にはすべてお見通しでした。
自分が生きているうちに秀忠へ将軍職を継承させ、豊臣家へ権力を返す可能性を完全に否定したのです。

徳川秀忠/wikipediaより引用
さらに、家康は秀吉の正室だった高台院(ねね)を通して
「秀頼様に江戸へご足労いただき、秀忠の将軍就任を祝っていただきたい」
とまで申し入れました。
つまりは秀頼に対し「徳川家の下風に立て」と言ったも同然。
その生母である淀殿は大激怒、拒絶しました。
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