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【林羅山】
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江戸幕府の儒教思想を確たるものとする
大坂の陣を機にその名を広く知られるようになった林羅山。
家康の諸政策の背景では、羅山の助言が反映されていますが、彼の足跡は、その後の代において確たるものとなります。
家康の嫡男である徳川秀忠とその妻・江は、長男である徳川家光よりも、二男の徳川忠長を偏愛していました。
誰が三代将軍になるのか?
そんな争いが起こりそうになったところで家康は江をたしなめ、長子相続を確たるものとしています。
そして羅山は寛永元年(1624年)、家光の侍講に指名されました。
江戸上野忍岡に土地を与えられがのが寛永7年(1630年)で、儒学者としての本領を発揮していくのはまさにこれから。
寛永9年(1632年)、羅山はここに学問所、文庫、孔子廟を建て「先聖殿」と称したのです。
後に昌平坂に移転され、江戸幕府最高学府・昌平坂学問所(昌平黌・しょうへいこう)へ。
各地の藩校の手本となり、学校・孔子廟・文庫という施設が日本全国に建てられてゆきました。
林羅山は、真面目で酒を嗜まず、愛妻家で、学問を好んだ人物として知られます。
徳川の信任も厚く、4代将軍・徳川家綱の代まで仕え、明暦3年(1657年)、最愛の妻が亡くなった翌年に後を追いかけるようにして最期を迎えました。享年74。
林羅山一人では成立しない日本における儒教朱子学受容
林羅山の朱子学は、江戸時代の基礎を築く上で大変重要なものです。
しかし明治以降は、そのことがかえってマイナス評価に繋がったと言えます。
江戸幕府へのマイナス評価もあれば、「脱亜入欧」の意味合いでも貶められました。
「支那だの朝鮮だの、劣等国家が掲げる学問じゃないか! けしからん!」というわけです。要するに差別です。
同じ儒教でも、陽明学は吉田松陰はじめ、幕末維新志士が好んだためにむしろ高評価をされ、一方で朱子学はとかく嫌われました。
平成になっても、そんな風潮は続いていたようで、儒教と特定の国家をまとめ、貶す本が売れたものです。
だからこそ、朱子学を日本に根づかせた林羅山もまた非常な低評価となってしまう。
結果的に【大坂の陣】を勃発させたことも、謀略に長けた悪印象を強化する。
しかし、これには大きな問題があります。
・江戸時代の儒教浸透は、家綱時代以降も続く
【生類憐れみの令】により、日本人に慈愛の精神を植え付けた五代・徳川綱吉。
明・洪武帝の「六諭」を参考にし、『六諭衍義大意』を寺子屋で習わせることにした八代・徳川吉宗。
彼らからすれば、林羅山一人により4代までで朱子学が浸透したわけじゃない――そう反論したくなることでしょう。
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・停滞は儒教だけが悪いわけでもない
西洋と比べ、東洋の技術革新が停滞した理由は何なのか?
経済的なもの、地理的なものなど、複合的な要因があり、儒教にだけ責任を押し付けられるものではありません。
事はさほどに単純な話ではないでしょう。
・儒教だけが宗教や思想としておかしいわけでもない
儒教には女性や少数民族に対する差別的な思想が含まれています。
しかし、これは何も儒教だけではなく、多くの宗教にある要素です。
それを試行錯誤の末、改善してゆくのが思想というもの。儒教だけに原因を押し付けても問題は解決しません。
・日本だって儒教的な価値観は大事にしてきた
明治以降、西洋思想一辺倒に流されることに、危機感を覚える日本人は当然いました。
渋沢栄一はその流れに乗り『論語と算盤』を出版しています。
『教育勅語』に記されているという普遍的な道徳価値観も、もとは儒教の道徳観念です。
あれは儒教道徳を忘れゆく日本人を再教育するための項目として、加えられているのです。
「日本人は儒教の影響なんて克服した!」という論は、どこかバイアスのかかった危うい偏見でしょう。
別にプロテスタント思想や倫理、フランス革命以降の人権思想が広く浸透しているわけでもありませんし。
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・差別と偏見の言い訳として利用される
儒教を掲げていた国家として、日本以外では中国と韓国があげられます。
こうした国を見下すために儒教をバッシングする手口はありふれたものです。
しかし、世界的に見れば日本も儒教国家。
これを攻撃すればブーメランとなって自分達に跳ね返ってきます。
中国にせよ韓国にせよ、儒教の悪影響をふまえ、克服することも考えています。それを課題として掲げた時代劇も多い。
それを見て見ぬふりをして貶すより、日本も改善する方向へ舵を切った方がよほど建設的でしょう。
ヘイトのために思想を悪用するのは自らの首を絞めることになりかねません。
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・そもそも理解していないのでは?
儒教といえば小馬鹿にするものだとみなし、思想を理解しないまま、曖昧なイメージだけで攻撃するような姿勢を目にします。
福沢諭吉のように儒教を理解した上での批判なら説得力はある。
しかし、ふわっとしたイメージだけでというのはいかがなものでしょう。
儒教朱子学が江戸幕府泰平の世を築いたというプロットは、大河ドラマ『麒麟がくる』にありました。
明智光秀が主として見定めだ織田信長は「麟」を花押に用いていたとされます。光秀は信長の中に、麒麟がくる泰平の世を見出し、仕えることにしたのです。
しかし、信長は本当に泰平の世をもたらすのか?
あまりに血を流しすぎる信長に絶望し、光秀は本能寺へと向かってゆきます。
信長を討ち果たしたあと、光秀自身も志半ばにして斃れるのです。
その本能寺の前のこと。光秀は徳川家康に君主としての器を見出したのか。二人は親しげに話しています。二人の姿を燃えるような憎しみの目で見つめる信長の姿がありました。
バックラッシュ的な叩きが目立つ儒教思想朱子学を再検討し、プロットに入れ込んだ高度なストーリー。
泰平の世をめざす光秀をただの妄想家として否定できるかどうか?
そう再考してみるのもよいかもしれません。
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文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link)
【参考文献】
小島毅『子どもたちに語る 日中二千年史』(→amazon)
小島毅『朱子学と陽明学』(→amazon)
二木謙一『徳川家康』(→amazon)
『徳川家康事典』(→amazon)
『徳川家康―大戦略と激闘の譜 (新・歴史群像シリーズ 12)』(→amazon)
『徳川家康―天下人への跳躍 (別冊歴史読本 92)』(→amazon)
歴史群像編集部『戦国時代人物事典』(→amazon)
他