松平昌久

かつて大草松平氏が拠点としていた岡崎城

徳川家

松平昌久はなぜ同族の家康と対立したか?岡崎を巡る松平一族の怨恨

こちらは2ページ目になります。
1ページ目から読む場合は
松平昌久
をクリックお願いします。

 


清康の躍進と守山崩れ

安祥松平氏が居を構えた周辺は、もともと本願寺が力を有していました。

そこで安祥松平氏は、門徒らを家臣団に組み込み、勢力を拡大。

以降、急速に力を伸ばして、他を圧倒してゆきます。

際立っていたのが安祥松平氏7代当主の松平清康でした。

徳川家康の祖父であるこの清康、どんぐりの背比べ状態だった三河松平氏のうち大草松平氏を圧倒し、昌久の父・松平信貞(昌安)から岡崎城を奪い取ります。

かくして大草松平氏は、安祥松平氏に降ったのです。

ドラマにおける松平昌久のキャッチフレーズが「家康覚悟!我こそが松平宗家」であり、「家康覚悟!」と恨みを持つ理由は確かにありますね。

しかし、両者とも「宗家」ではないことにはご注意を。

もう少し松平清康の動向を見て参りましょう。

勢力を拡大させた清康は、三河を超えて西へ。

狙うは、美濃の斎藤道三と争っていた尾張の織田家。

天文4年(1535年)末、織田信秀の弟・織田信光の守山城に攻めかかります。

織田と今川に挟まれた弱小の松平――そんなイメージが強いかもしれませんが、このときは攻勢にかかっていたのですね。

もし、この守山城を落とすことができたら、尾張一国も支配できたのでしょうか。

と、そうそううまくはいきません。

守山城と対峙中、松平清康は家臣の阿部正豊に斬られて、即死してしまうのです。

この事件を【守山崩れ】と呼び、当然ながら安祥松平氏には激震が走りました。

 


広忠が清康の跡を継ぐと……

清康の跡を継いだのは松平広忠です。

家康の父であるこの広忠は、どうにか松平氏を統率しようとしますが、いかんせん急拡大した同家を継ぐにはまだ若く、庶流の松平氏に背かれてしまいます。

いわゆる「十四松平」をまとめることは能わず、今川義元の支援を受け、どうにか家を立て直そうとしました。

ゆえに幼い徳川家康も、今川の庇護下にいたのですね。

松平広忠
謎の死を遂げた家康の父・松平広忠~織田と今川に挟まれた苦悩の24年を振り返る

続きを見る

このように勢力が乱立していた三河松平氏。

同族同士の争いとなると、『鎌倉殿の13人』における河内源氏を連想されるかもしれません。

義家流の源頼朝と、義光流の武田信義は、同じ源氏ながら必ずしも思惑は一致せず、むしろ勢力を競い合っていましたが、規模を小さくして同じような争いを繰り広げていたのが三河松平氏といえます。

『鎌倉殿の13人』の登場人物には、以下のように、後の戦国時代に大名となる家が複数あります。

◆武田信義→武田信玄

武田信義
武田信義~頼朝に息子を殺されても甲斐武田氏を守り抜いた生涯に注目

続きを見る

大江広元毛利元就

大江広元
大江広元がいなければ鎌倉幕府は運営できなかった?朝廷から下向した貴族の才覚

続きを見る

佐竹義政佐竹義重

佐竹義政
なぜ佐竹義政は広常に謀殺されたのか? 義光流源氏の佐竹が河内源氏の頼朝と対立

続きを見る

◆足利義兼※1→今川義元

足利初代
足利氏の始まりは尊氏ではなく義康! 初代~七代までの歴史を一気に振り返る

続きを見る

※1正室が北条時政の娘で『鎌倉殿の13人』に登場しないことが不可解とされた人物

こうした大名家とは異なり、近年の研究成果において三河松平氏は国衆だと認識されています。江戸幕府が見栄を張って出自を実際よりも高く見積もり、その誇張が定着してしまったのですね。

お隣・遠江で国衆だった井伊直虎・直政、信濃の国衆・真田昌幸らとさほど変わらない立場といえます。

そうなると家康にとっては都合が悪く、どうしたって先祖の話を盛りたくなり、結果、経歴がわかりにくくなったのが三河松平氏と言えるでしょう。

 


最後は一揆に便乗するも

ドラマでは、桶狭間の戦い後に家康を討ち取ろうとした松平昌久。

史実においては永禄6年(1563年)に【三河一向一揆】が起きると、家康に反旗を翻して東条城に入っています。

三河一向一揆
徳川家臣団を危機に追い込んだ三河一向一揆~家康はどう対処した?

続きを見る

しかし結果は敗北。

永禄7年(1564年)、落城と共に姿を消しました。

昌久は宗教的な判断から家康に逆らったわけではなく、あくまで同族争いの延長です。

三河松平氏が大名ではなく国衆とみなした方が筋が通るとするのは、こうした状況からも判断されます。

しかしそうすると家康が“人質”として今川家の庇護下にあったことも考え方が変わってきます。

人質というより、今川家御一門である関口氏純築山殿の父)の娘婿として、一族に次ぐ好待遇だったのではないか?と見直されつつあるのです。


あわせて読みたい関連記事

徳川家康
徳川家康はなぜ天下人になれたのか?人質時代から荒波に揉まれた生涯75年

続きを見る

築山殿築山殿(瀬名姫)
家康の正室・築山殿(瀬名姫)はなぜ殺された?家康には重たい女と思われていた?

続きを見る

松平広忠
謎の死を遂げた家康の父・松平広忠~織田と今川に挟まれた苦悩の24年を振り返る

続きを見る

コメントはFacebookへ

今川義元
なぜ今川義元は海道一の弓取りと呼ばれる?42歳で散った生涯とは

続きを見る

織田信長
織田信長の天下統一はやはりケタ違い!生誕から本能寺までの生涯49年を振り返る

続きを見る

三河一向一揆
徳川家臣団を危機に追い込んだ三河一向一揆~家康はどう対処した?

続きを見る

文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link

【参考文献】
柴裕之『青年家康』(→amazon
黒田基樹『家康の正妻築山殿: 悲劇の生涯をたどる』(→amazon
『図説 徳川家康』(→amazon

TOPページへ


 



-徳川家
-

×