久松長家

久松長家の再婚相手・於大の方(左)と徳川家康/wikipediaより引用

徳川家

家康生母の再婚相手・久松俊勝(長家)が織田や松平に飜弄されて迎えた結末とは

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織田信長の猜疑心が投げかける悲運

永禄5年(1562年)、家康と信長の間に結ばれた【清洲同盟】は、久松俊勝にとっても利のあるものでした。

ただし、メリットだけではなく、暗い影も落とします。

俊勝と先妻の間の子・である久松定員(信俊)は、父から継いだ坂部城主となり、織田氏につく道を選びました。

すると天正3年(1575年)、久松定員と、於大の兄である水野信元が、織田信長から武田勝頼との内通疑惑をかけられたのです。

水野信元
家康の伯父 水野信元は織田徳川同盟のキーマン 最期は切腹を命じられ

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「謀反の疑いあり」

そう追い詰められ、定員は大阪・四天王寺で自刃。

坂部城は織田信長の家臣・佐久間信盛に攻め落とされました。

家康が母と再会を果たした坂部城は、こうして焼け落ちたのです。

久松定員は滅び、その子孫は久松松平氏を頼って仕える道を選ぶしかなく、俊勝も辛い道を選ばされます。

信長の命を受けた家康が、水野信元を三河に呼び寄せ、養子もろとも殺害すると、この顛末に怒り嘆いた俊勝は隠棲することを選んだのです。

織田信長は、徳川家康の家族に対して、しばしば武田勝頼との内通疑惑をかけています。

やがてこの猜疑心は、家康の正室である築山殿と、その間に生まれた嫡男・松平信康の命をも奪うことにもなります。

そして織田信長が没した5年後の天正15年(1587年)3月13日、ひっそりとその生涯を終えました(14日とも)。

享年61。

織田信長
史実の織田信長はどんな人物?麒麟がくる・どうする家康との違いは?

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戦国時代の国衆が“適当”に生きるとは?

もう一度『どうする家康』の公式キャッチコピーを見てみましょう。

適当こそわが人生

家康の義父

演じるリリー・フランキーさんは、世渡りの上手いキャラクターであると感じ、ユーモアを交えて演じたいと語っていました。

しかし、歴史的に見て、そうした表現は妥当だったのでしょうか?

例えば、大河ドラマにおいて国衆の役割が大きくクローズアップされることになった、2016年『真田丸』と2017年『おんな城主 直虎』に注目してみますと……。

『真田丸』の真田昌幸は、武田、北条、上杉、徳川、豊臣と、主君をめまぐるしく変えました。

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『おんな城主 直虎』の井伊直虎にしても紆余曲折を経ています。

当初は今川に仕えていながら、様々な苦難を乗り越え、最終的には大事な跡取り・井伊直政を徳川に託していた。

井伊直虎
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彼らも久松俊勝と同じように主君を替えています。

描き方によっては、コロコロと簡単に主君を乗り換えるようにも見えるかもしれません。

しかし、実際のところはどうなのか?

一歩間違えれば一族が殺されてしまう――そんな過酷な状況下で、それこそ血の滲むような決断の末に、国衆たちは自分たちの主君を決めていたはずです。

『真田丸』の真田昌幸は「大博打じゃあ!」と言い表したものの、あれは彼の個性が並外れて強靭に描かれただけであり、常人からすれば胃に穴が開きそうな状況でしょう。

久松俊勝も、そうした国衆の一人です。

激戦地となる尾張と三河の狭間にいて、さらに甲斐には武田信玄と勝頼という強力な父子がいる。

あまりにも凄まじい修羅場で適当に生きるとか、そんな呑気な心持ちでいられるでしょうか?

むろん、そんなわけはありません。

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