織田と徳川の連合軍が武田を相手に快勝した――長篠の戦いは、信長が大量に用いたとされる「鉄砲」が話題となりがちです。
しかし、実際の戦いに至るまではそう単純でもなく、武田と徳川に挟まれ奮闘し、勝敗の流れを決定づけた武将がいました。
奥平信昌です。
もともとは徳川と武田の国境周辺にいた国衆「山家三方衆」の一人であり、激戦地の中で明日をも知れぬ、非常に危うい存在でした。
それがなぜ、生き残り、家康の婿となって大出世を果たすことができたのか。
1615年4月11日(慶長20年3月14日)はその命日。
奥平氏と奥平信昌の生涯を振り返ってみましょう。
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山家三方衆(やまがさんぽうしゅう)奥平氏
奥平信昌を輩出した奥平氏は「武蔵七党」の児玉氏が先祖だとされます。
関東に拠点を起き、永享10年(1438年)に発生した【永享の乱】では、鎌倉公方・足利持氏に従って敗北。
そのため三河国設楽郡の作手に移住してきたと伝わります。
現在の愛知県新城市にあたるこの辺りは甲斐と接していて、戦国時代に入ればそれはもう非常に難しい土地となり、信昌の父や祖父以前の代から困難な日々が続いていました。
16世紀初頭の奥平氏は今川義元の父である今川氏親に従い、義元の代でも本領は安堵されています。
しかし、弘治元年(1555年)から4年(1558年)にかけて、【三河忩劇(みかわそうげき)】という今川への反乱が起き、奥平氏も巻き込まれてしまうのです。
特に時代が激しく動き始めるのは弘治2年(1556年)に入ってからのこと。
信昌の祖父である奥平貞勝が今川に残ると、信昌父の奥平定能は今川から離反。
結局、定能は赦免されて今川に戻るものの、今度は永禄3年(1560年)に起きた【桶狭間の戦い】で義元が討死を遂げてしまいます。
義元の死を契機に今川から離反した徳川家康と、奥平定能は対峙することとなりますが、永禄7年(1564年)には家康に従う道を選びつつ、その後も徳川・今川・織田三氏の間での活動が続きます。
『三河物語』では、長篠城の菅沼氏、田峰城の菅沼氏、そして作手城の奥平氏をもって【山家三方衆(やまがさんぽうしゅう)】と呼んでいます。
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武田軍と徳川軍に挟まれる苦悩
そんな奥平氏の奥平定能に九八郎が生まれたのは、弘治元年(1555年)のこと。
後の奥平信昌です。
信昌が生まれてからも、揺れ動く今川と徳川の間でどうにか勢力を保ってきた奥平氏にとって、悪夢とも言えたのが元亀元年(1570年)でしょう。
17歳になった信昌の前に現れたのは、あの武田信玄でした。
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大軍を引き連れ、奥三河まで進出してきた武田軍に対し、山家三方衆と三河衆は共に迎撃体制で待ち構えます。
しかし、そこから衝撃的な展開へ。
徳川氏と遠山氏の連合軍が【上山合戦】で武田軍を相手に敗北してしまうのです。
これを見た奥平氏を含む山家三方衆は、戦わずに城へ戻り、結局、元亀3年(1572年)には武田への従属の道を選びます。
当然、困り果てたのが徳川家康です。
すぐ北方に武田方の軍勢が待機していることとなり、常に脅威に晒され続けている。
敵勢の勢いを削ぐため、何か楔(くさび)を打ち込むためには、せめて奥平氏をハッキリと味方につけたいが、彼らにそのことを要請しても慇懃無礼な対応で埒があかない。
いよいよ八方塞がり――ということで家康は信長に相談しました。
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