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【榊原康政】
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若き頃から家康と苦楽を共にしてきた
元服後の榊原康政は、同年の本多忠勝と共に家康の旗本先手役という役を任されました。
護衛と先陣の両方を担う、非常に重要な役目です。
忠勝や康政、そして井伊直政が家康の「子飼い」とも呼ばれるのは、こうした役目も担ったからこそでしょう。
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酒井忠次だけは家康より年上なので、少し性質が異なりますが、いずれにせよ徳川四天王は「家康が若い頃から苦楽をともにしてきた仲」の人物であるということになります。
忠次が「康政と直政のケンカをなだめた」なんて話もありますので、年長の忠次が他の三人の仲立ちになるということも、たびたびあったかもしれませんね。
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元亀元年(1570年)6月28日――織田信長の同盟者として徳川軍も参加した【姉川の戦い】では、先陣が酒井忠次隊、康政は二番手として奮戦。
その勢いがすさまじく、忠次隊の面々も「先に手柄を挙げられてたまるか!」と、大いに士気を上げたという話もあります。
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他にも家康の重要イベントである
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といった主要な出来事にも深く関わっております。
三方ヶ原の戦いでは、あえて浜松城の手前で止まり、
「武田軍は勝ちに勝って、油断しているに違いない。夜に奇襲を仕掛ければ、これ以上の追撃は防げる」
と冷静に判断。
昼のうちに浜松城へ入れなかった兵を集めて夜を待ち、勢いに乗った武田軍を奇襲しました。
この作戦は見事に当たり、武田軍を大混乱させています。
勇猛果敢かつ冷静沈着といった感じで、実にカッコイイですね。
小牧・長久手の戦い
特に強烈なエピソードが残っているのが天正12年(1584年)。
【小牧・長久手の戦い】でしょう。
豊臣秀吉
vs
徳川家康 with 織田信雄(信長の次男)
旧・武田領や家臣などを取り組み、東海甲信地方で絶大な力を有するようになった家康。
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両者が覇権を競った争いであり、榊原康政は家康の家臣ですから、当然、秀吉は敵となりました。
そこで康政は、槍働きだけでなく、意外な方向から攻撃を繰り出します。
【意訳】信長公の恩を忘れて主家を乗っ取ろうとする不届き者よ!
そもそもどこの馬の骨ともわからんヤツに従う義理はない!!
こんな風に秀吉を罵った手紙を、本人に送りつけたというのです。
敵を怒らせるのも戦略のうちとはいえ、康政の手紙は、空前絶後の度胸と言わざるを得ません。
当人は達筆だったので、この罵詈雑言(正論)も相当綺麗な字で書かれていたことでしょう。煽り度がうなぎ登りですね。
もちろん、秀吉は怒髪天を衝く勢いで怒りました。
「康政を討ち取った者には10万石を与える!!」
とまぁ、いかにも秀吉らしいリアクションで面白い話なのですが、話の出典が江戸時代の書物ですので、信ぴょう性については疑問符が付くところです。
実際に榊原康政が家康から10万石を貰っているので、それだけ活躍したということは間違いないんですけどね。
ちなみに「10万石」という懸賞首が本当だとしたら、これがどのくらいスゴイ賞金になるのか?
「石」は領地の単位というイメージをお持ちの方も多いかと思います。
元々はお米の量を指し、1石=大人一人が一年間に食べる米の量となり、だいたい150kgくらい。
つまり康政の首は、10万人を一年養えると見なされたことになりますね。秀吉のキレようったら……。
余談ながら、現代の日本人は一年で一人50~60kgくらいの米を食べているといわれています。
つまり戦国時代の人は、現代人の三倍前後も食べていた。
料理のレパートリーが少なかった時代とはいえ、米の重要性がわかりますよね。
そして康政、これだけの啖呵を切るからには、相当の覚悟も決めています。
家康はこの戦の際、一時的に『小牧城に康政を残し、撤退しようか』と考えていました。
重臣居並ぶ場でこの話を聞かされた康政は
「秀吉ほどの敵を引き受け、城を枕に討ち死にするのであれば、末代までの誉れ」
と言っていたそうです。カッコイイ。
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