戦国時代の東海地方を一変させてしまった桶狭間の戦い。
織田信長と今川義元という二人の傑物の運命を左右したのであるから「日本全体を一変させてしまった」と考えてよいかもしれない。
なんせこの戦いには、後の天下人・徳川家康(当時は松平元康)も大きく関わっている。
義元が討たれた後の家康は、
・大高城を出て
・矢作川を渡り
・松平氏の菩提寺「大樹寺」で
殉死しようとした。
しかし、このとき大樹寺の住職・登誉上人は、
「厭離穢土 欣求浄土」(この 戦乱の世を平和な世に変えるのがそなたの天命)
と諭し、自害を思いとどませたと通説では伝わる。
果たしてそれは本当か?
つまり史実はどうであったのか?
当地の伝承と古文書から桶狭間直後の家康を探ってみた。
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永禄3年 義元討死
──永禄3年(1560年)5月19日
今川義元、桶狭間にて討死──
そのとき松平元康(後の徳川家康)は、今川方の大高城にいた。
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慎重であった。
今川義元の訃報が次々と届いても「退却して、誤報であれば笑われる」と言い、伯父の水野信元が使者・浅井道忠を通して、「今川義元は討死し、駿河衆は退却している。岡崎城へ戻られよ」と忠告されても動かない。
「伯父は敵の織田方であるから策かもしれない」と考え、岡崎から書状が届いてようやくその重い腰を上げたという。
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それは夜11時のことであった。
「大高城にいれば落ち武者狩りに遭わない。安心である」
「織田軍は全軍でも5000人に満たないから大高城を攻めてきても、城は落ちない」
そう考えて、慎重に行動したという説もある。
その後、松平元康は知立城(ちりゅうじょう)へ向かった。
知立城は、今川氏の尾張国攻略における拠点である。
城主は、後に徳川家康の側室となった於万の方(結城秀康の生母)の父・永見貞英。
そこにいる限りは「逃げた」とはならず「兵を立て直して弔い合戦をするため一旦退いた」という理屈となって誰にも笑われない。
実際、その様子を聞いた織田信長は、
「信義厚く、末頼もしき大将なり」
と絶賛したという。
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しかし、いざ知立(愛知県知立市)へ行ってみると、駿河衆が集結していなかったばかりか、織田方の上田半六率いる2,000人の落ち武者狩りに出くわした。
このとき先導していた浅井道忠が、機転を利かす。
「我は水野信元が家臣・浅井道忠である。殿の命令で今川軍を追っている。道を開けられよ」
かくして事なきを得て安祥(愛知県安城市)へ入ると、そこで松平元康軍は解散。
残された主従は8騎とも、18騎とも伝わる。
後は矢作川を渡りさえすれば岡崎城だった。
矢作川に渡し船がない!
当時はまだ矢作橋は無い。
普段であれば、渡から六名へと舟で渡る岡崎城の南の「下の渡(しものわたし)」を使うが、ここでも落ち武者狩りの危険性は否めない。
仕方なく、北野から大門へと舟で渡る岡崎城北の「上の渡(かみのわたし)」を使うことにした。
松平元康軍は「御清水」(地蔵堂前のステンレス槽)で馬を休ませ、「上の渡」へ行くと、あろうことか渡し舟が無い。
今川軍が先に渡河(とか)して、追手が川を渡れないよう、舟を戻させなかったのである。
梅雨で増水中の矢作川を舟なしで渡ることなんて出来ない。
そのとき。
長瀬八幡宮の森から、3匹の白鹿が現れ、矢作川を渡った。
すかさず石川数正が、
「浅瀬を知る鹿に続け!」
と叫び、松平元康一行は、無事に矢作川を渡ったという。
以降、「上の渡」は「三鹿の渡」と呼ばれるようになり、浅瀬(渡河点)の目印に植えられた松は「鹿ヶ松」と呼ばれるようになった。
この白鹿は、
「伊賀八幡宮の神の使いである」
とか
「白鹿を見つけたのは石川数正か、それとも本多忠勝か?」
とも伝えられる。
しかし本多忠勝が、伊賀八幡宮の神の使いである白鹿が矢作川を渡るのを見たのは、後に水野信元軍の偵察に、刈谷へ行った帰りのことである。
白鹿の正体はなんだったのか?
長瀬八幡宮における神の使い3匹か。
あるいは伊賀八幡宮の神の使い1匹か。
したがって見つけたのは石川数正か、それとも本多忠勝か?
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そんな考察以前に、貿易船が行き交う矢作川に浅瀬はないように思われる。
常識的に考えれば、浅瀬があれば、座礁は避けられない。
実は、答えは次のような話ではなかろうか?
「上の渡」(三鹿の渡)の北に、配津八幡宮(廃絶社)があり、その境内に「德川家康渡船之所」碑がたっている。
碑文によれば、家康を助けたのは白鹿ではなく、配津村の半三郎という船人だ。
松平元康の主従8人を舟に乗せて対岸の仁木(岡崎市仁木町)へ運び、お礼に銀銭3文と長刀1振を頂いたという。
私は未見だが、そんな古文書が残されているらしい。
松平元康は慎重であった。
そして少数であった。
落ち武者狩りがいるであろう「上の渡」や「下の渡」を使うとは思えない。
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