1575年5月23日(天正3年4月4日)は徳川家臣だった大岡弥四郎の命日です。
徳川家康の嫡男・松平信康を補佐する岡崎城奉行でしたが、その最期は「鋸引き」という、想像するだけでも痛々しい方法で処刑されてしまう。
なぜ、そんな悲惨なことになってしまうのか?
というと、大岡の処刑は、後の松平信康事件にも関わるような衝撃的な事件だったからです。
下手をすれば二つに分断されかねなかった徳川の危機――その発端の一人とも言える大岡弥四郎の生涯を振り返ってみましょう。
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大賀ではなく大岡弥四郎
大河ドラマ『どうする家康』では毎熊克哉さんが演じた大岡弥四郎――。
Wikipeida等では今なお「大賀弥四郎」と表記されていますが、近年は大岡氏出自説が有力視されていて、ドラマでもそれが反映されました。
築山殿の父にあたる関口氏純も同じような経緯で表記の更新がされていましたね。
さて、そんな弥四郎については出自がハッキリとしていません。
・さほど身分が高くはない
・機転により家康に取り立てられる
こうした大まかな逸話が残され、明確に残されているのは彼が起こした事件とその顛末です。
天正3年(1575年)――松平新右衛門らと共に武田勝頼に内通。
岡崎へ引き入れる謀反を企てていたところ、計画が露見し、鋸引きの刑にあったということです。
当人だけでなく、妻子までもが磔刑とされました。
大岡弥四郎事件とは
いったい大岡弥四郎はなぜそんな事件を起こしたのか?
遠因の一つと考えられるのが、約2年前の元亀3年12月22日(1573年1月25日)――この日、徳川家康にとっては絶体絶命の危機となった【三方ヶ原の戦い】が起き、徳川軍は完膚なきまでに打ちのめされました。
程なくして武田信玄が没したため、その後、一時的に危機からは解放されましたが、武田家を相続した武田勝頼にしても依然として徳川にとっては強大な脅威。
三河を虎視眈々と狙う勝頼に対して睨みを利かせるため、家康は嫡男である松平信康を重要拠点の岡崎城に配しておきました。
たとえ勝頼率いる武田軍がやってきても、息子たちが岡崎城で籠城している間に、家康らが後詰めの援軍として向かう。
そんな算段でいたはずの岡崎町奉行が、徳川を裏切って武田に付こうとしていたのですから、家康にとってはあまりに衝撃的な事件。
実際この一連の事件は、武田勝頼の動きと連動していました。
推察される時系列で見てまいりましょう。
・元亀3年12月(1573年)三方原の戦い
・元亀4年4月(1573年)武田信玄の死去により勝頼が武田家を継ぐ
・天正3年(1575年)3月 武田勝頼が奥三河の足助城を落とす
・天正3年(1575年)4月 大岡弥四郎ら処刑
・天正3年(1575年)5月 長篠の戦い
・天正7年(1579年)9月 信康と築山殿の死
信玄は亡くなっても問題ない――と言わんばかりに、勝頼が奥三河へ進出。
足助城を落としたことで、謀反の火種はにわかに炎へと変わっていったのでしょう。
謀反の計画はこうです。
武田の幟を用いた囮で引きつけ、武田勢を城内に引き入れて放火し、城を落とした後に三河一国を攻略させる――そんな恐るべき企みは事前に発覚し、大岡弥四郎を含めて復数の者が処刑されます。
首謀者:大岡弥四郎、松平新右衛門
協力者:小谷九郎左衛門、山田八蔵
山田がおそれをなして事前に漏らしたとか、出入りの塩商人が武田の動きから察知したとか、発覚に至る経緯は諸説あってはっきりしません。
しかし、事件性があったことは間違いないようで、大岡らは無論処刑されています。
その内容は以下の通り。
首謀者の三名だけでなく、実は家老の石川春重も切腹しています。
おそらく事件に関与していたのでしょう。
家老まで関わっているとなると、もはや岡崎城全体が武田に味方するしかないと考えていたのでは?という推察もできます。
それほどまでに武田は強く、徳川は追い詰められていました。
事件直後に勃発した【長篠の戦い】での勝利に、どれほど救われたことか。もしも長篠が大勝利に終わっていなければ、再び岡崎城で事件が起きていたかもしれませんね。
なんせこの一件からは、実は徳川家が一枚岩でもなかった状況が浮かんできます。
対武田主戦派である家康と、それに反抗する信康の間で意思統一が計れなかったからこそ、謀反へ発展してしまったのでしょう。
岡崎城をあずかる松平信康と築山殿が許したからこそ、この事件は起きたとも言えそうなのです。
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