豪姫

八丈島にある豪姫と宇喜多秀家の像

前田家 宇喜多家

利家の娘で秀吉の養女~プリンセス豪姫が宇喜多秀家とドラマのような生涯を送る

憧れる女性は多いけど、実際はそんなにラクじゃないよね? という「お姫様」。

戦国時代は、政略結婚で嫁ぐのが当たり前であり、実家と嫁ぎ先を橋渡しする外交を担っていたりもしました。

本日はその中でも「名は体を表す」とばかりに剛毅さを見せた豪姫に注目です。

前田利家の実の娘であり、かつ豊臣秀吉の養女であり、さらには戦国時代きってのイケメン・宇喜多秀家の正室という、ある時期まではスーパーハイクラス・プリンセスでした。

しかし、ある日を境に人生は一変。

夫と息子と離れ離れにさせられ、実家で悲嘆の日々を送ることになります。

いったい豪姫に何があったのか?

寛永11年(1634年)5月23日は彼女の命日、その生涯を振り返ってみましょう。

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子供に恵まれず悩んでいた秀吉の養女に

豪姫が生まれたのは、天正二年(1574年)7月。

まだ織田信長も存命中であり、実父・利家も養父・秀吉も若手だった頃のことです。

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豪姫は前田家の四女だったりするんですけども、子供としては五人目です。

両親が健康だったおかげか。

夭折した子が一人しかいないというのは、当時としてはかなりの確率ですね。

あくまで推定ですが、江戸時代以前の子供は半数ぐらいしか成人としての寿命を全うできなかったのでは?という見立てだったりします。

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そんなにぎやか家族だった利家夫妻の隣で、秀吉夫妻がなかなか子供に恵まれず悩んでいました。

後々のことを考えても、子供がいないのは秀吉に問題があったのは明白ですが、まあ当時はハッキリとわかりませんからね。

そこで秀吉が利家夫妻に向かって「すでに4人の子供がいるあなた達が羨ましい。5人目の子供が生まれたら我が養子にいただけぬか?」と頼んだとされます。

こうして豪姫は、生後ほどなくして秀吉の養女となったのです。

 


同じく秀吉の養子だった秀家と15歳で結婚

他に、豪姫が2歳になったときに秀吉がお願いしたとか、【賤ヶ岳の戦い】後だったとか。

諸説あってハッキリとしませんが、秀吉の猫可愛がりからして、かなり小さい頃のことだったのは間違いなさそうです。

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なんせ合戦中にも「豪姫はどうだ?ちゃんとご飯食べてるかい?早く、おまえ(豪姫)に会いたいよ」なんて手紙を出していたほどです。

それを受け取っていた秀吉の妻・ねねも同じように豪姫を可愛がり、血は繋がっていないにしても幸せな家族になっておりました。まったくエエ話やで。

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そして無事健康に育った豪姫は天正16年(1588年)、15歳のとき、同じく秀吉の養子だった宇喜多秀家(当時17歳)へ嫁ぎます。

後に豊臣政権の五大老に選ばれる秀家ですから、いかに豪姫を大切にしていたか、ここからもわかりますね。

※同時に秀家の姉が秀吉の養女として吉川広家に嫁いでおり、政略結婚の意図からも関係が密接だったことがわかります

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ちなみに、秀家の父であり、暗殺名人として知られる謀将・宇喜多直家は天正9年(1581年)に亡くなっています。

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豪姫の産後鬱から、あわや御家騒動へ

秀家と豪姫の夫婦仲は極めてよく、二男一女に恵まれました。

心身ともに実の両親や養父母に似たんですね。

しかし、二人に暗い影が落ち始めます。

大坂(中之島)で暮らしていた豪姫は、長女を出産してから産後鬱になってしまいました。

救いを求めようとしたのでしょう。彼女は内藤ジュリア(キリシタン武将・内藤如安の妹)の手引でキリスト教を受洗すると、慌てた秀吉は秀吉で伏見稲荷に祈祷させたり、秀家も法華宗の寺院に命じて治癒の祈祷をさせます。

しかし、それでも治らずキレる秀家。

そこで領内に「法華宗→キリスト教」への改宗を命じるという、ちょっとエキセントリックな政策を打ち出してしまいました。

どうやら豪姫に付き従ってきたキリシタン武将が中心となり、キリスト教の普及を推し進めていたようなのです。

実は宇喜多秀家の領内は法華宗が中心でした。それだけに秀家の改宗政策はそう簡単に受け入れられません。

さらに朝鮮出兵で戦費が拡大。これを太閤検地による増税で賄おうとすると、宇喜多家の家臣団にも不満が溜まっていき、ついには内部分裂寸前の御家騒動へと発展してしまいます。

ゴタゴタは簡単には収束せず、あわや武力衝突か!というところで徳川家康が仲裁。

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戦いは避けられ一件落着……とはなりませんでした。

騒動を機に徳川家に取り込まれる武将が出てしまい、そしてその半年後、日本を真っ二つに分けた大戦が勃発するのです。

そう、【関ヶ原の戦い】です。

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