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安土城でどのような食事が振る舞われた?
安土城では、信長自ら給仕やお酌をするなど。
「ウェルカム、家康とその家臣たち!!」な大歓迎を受けました。
実際、安土城でどのような食事等が振る舞われたか?
まだ交通網も発達してなかった当時において、全国から取り寄せた高価な食材を次々に提供――。
そんな記録をもとに再現したのが名古屋「宝善亭(→link)」で出されていた『信長御膳』です。
以下に食レポがございますのでよろしければご参照ください。
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信長が安土城で家康に振る舞った豪華な食事の中身とは?現代に蘇る信長御膳
続きを見る
食事を振る舞われた家康一行は、さらに能見物などで数日過ごした後、京都へ向かいます。
家康はあまり演劇に興味がなかったようなので「ありがた迷惑だったんじゃね?」と見る人もいますが、まぁそこはお付き合いなんでしょう。
ちなみに信長の息子・織田信忠と、豊臣秀吉は大の能ファンで、秀吉などは後年、自ら作品を作るなど意外な趣味力を発揮しております。

織田信忠(左)と豊臣秀吉/wikipediaより引用
なお、この家康滞在中の接待役が明智光秀で、途中、「腐った魚を出しやがって!」と信長にぶちキレられて接待役を外され、その恨みから本能寺の変に至ったという説もありますね。
現在では否定されておりますが、古いフィクションなどではしばしば見られたシーンですので、そう思われている方も多そうです。
少し余談が過ぎましたね。
そろそろ本題へと参りましょう。
堺でお買い物中に本能寺の変!
家康は予定通り京都を見物し、5月30日からは堺見物をしていました。
国主ですから、ただ単に楽しんでいただけではなく「これからウチ街をどう作っていくか?」なんてことも考えていたでしょう。
しかし、見物を終えて、いったん京都へ向かおうとしていたところ、激震が走ります。
6月2日未明に本能寺の変が起こったのです。
浮き浮き旅行気分から一転、家康はドン底気分に落とされます。
信長の討死を知らされたのは堺を出て少し北上した飯盛山辺り(現在の大阪府大東市)とされ、京都までは当時の交通事情でも一両日程度しかありません。
明智光秀が、自身と敵対しそうな連中は粛清だ!なんてことを言い出せば、真っ先にやられるのはほぼ丸裸状態の家康です。

明智光秀/wikipediaより引用
さらには農民や地侍などの、落ち武者狩りも横行するかもしれません。
八方塞がりになった家康、一時は「(京都の知恩院で)ワシも死ぬ」と大混乱に陥ったとも伝わります。
しかし「信長死す」の報を届けてきた商人・茶屋清延(茶屋四郎次郎)や本多忠勝、案内役の長谷川秀一などが説得。
「私たちもお供しますので、一刻も早く逃げましょう。金を出せば通してくれるところもあるはずです」
少人数だからこそ、かえって目立たず行動できる――と踏んだのでしょう。
そもそも長谷川秀一が織田信長の配下だったため、その前で信長に従って「追腹を切る」というポーズを取っただけ、という見方もありますが、いずれにせよ逃げなければ殺される状況です。
では家康たちは実際どんな道を通ったのか?
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