人間、先のことを正確に予測するのは難しいものです。
特に自分の未来については色んな欲も絡んで思うようにはいかないものですが、一方で他人の行動や考えについては冷静に見れる分、ある程度の予測はできますよね。ごく身近な喩えで言いますと「あの人は◯◯という小説が好きだと言うから、同じ作者の本もたぶん好きだろう」といったような。
これが合戦ともなれば、相手の情報をどれだけ知っているか? ということが勝敗に直結します。まさに孫子が「敵を知り己を知れば百戦危うからず」と書いた通りでして。
本日はその点に少々難があったと思われる、あの戦の当事者たちのお話です。
慶長十九年(1614年)11月5日は、大坂冬の陣で大坂方の薄田隼人らが平野を焼き討ちした日です。
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豊臣を見限って徳川方についた平野の住民たち
ここは現在の大阪市平野区周辺にあたります。
当時は決して大規模とはいえないながらも、自治権を持ち、堀を築いて要塞化していました。
平野はかつて、織田信長や豊臣秀吉に保護されていたことがありますので、大坂方へついてもおかしくなかったのですが……弱い立場の者ほど、機を見るに敏なところがありますよね。
このときの平野の人々も、「今度の戦で豊臣方が勝つのは難しいだろう。なら、早めに徳川につくことを表明しておかないと、ここも戦に巻き込まれてしまう」と考えました。
そして徳川方に連絡を取ったのですが、豊臣方からすれば当然「何だよあいつら、太閤様の恩を忘れやがって!!」となるわけです。その結果がこの日の焼き討ち、そして平野のリーダー格だった一族の連行でした。
幸い、信長の弟の織田有楽斎が間に入って、すぐに解放されてはいます。
しかし、戦の始まる・終わる前から裏切り者の処罰だけに気が向くというのは、決して上策とはいえません。
先日は徳川方から見た大坂の役のお話をしました(過去記事:片桐且元は家康にハメられたのではなく少しは期待もされていた!? 大坂の陣前夜、急展開の2ヶ月間)ので、今回は豊臣方の内部についてもみていきましょう。
信繁の撃って出る作戦は否定され籠城へ
有名な話ですが、当時豊臣方は二つの意見に割れていました。
片桐且元が追い出された後、淀殿の信任を受けてまとめ役になっていた大野治長という人がいます。彼は、「大坂城の幾重にも重ねられた堀を利用し、徳川方を根負けさせて、有利な状況になってから講和を狙えばいい」と考えていました。
これに対し、真田幸村(信繁)や後藤又兵衛を始めとした浪人たちは、治長の意見に真っ向から対立します。
彼らは「城にこもるのではなく、徳川方が諸大名と合流する前に一度叩き、その状態で味方になってくれる大名を探して、戦力を整えよう。その上で籠城すれば間違いなく勝てる」と主張しました。
結局、淀殿が籠城を強く推したため、治長の意見に従って戦うことが決まります。
淀殿にとっては、歴戦の将とはいえ見知らぬ男たちよりも、日頃からよく知った治長のほうが信頼できたのでしょう。彼女の来歴からすれば、むしろ「籠城してもいいことはないから、皆で打って出て戦っておくれ」と思ってもおかしくはないのですが……。
これには良くも悪くも、もう一つの要因が影響を与えていたと思われます。
秀吉の残した莫大な遺産です。
秀頼と淀殿は、秀吉が亡くなった後、お寺や神社の修復や造営を近畿各地で行っています。「国家安康・君臣豊楽」の鐘銘事件で有名な方広寺大仏殿もその一つですし、他にも延暦寺や熱田神宮など、有名どころの寺社がたくさんありました。全部で85カ所ほどだったといわれています。
当然膨大な金額と人手が要りますが、これらの工事が終わっても、秀吉の遺産はたっぷり残っていました。だからこそ、あっちこっちの元大名や浪人に「勝ったら◯◯万石あげるから、こっちに味方して」なんてことが言えたのです。
金はある! 米もある! 牢人もいる! しかし……
時系列が前後しますが、大坂夏の陣が終わった後、江戸幕府は大坂城の蔵から28万両もの金と、24万両の銀を押収しています。ちなみに、江戸時代の平均で現在の貨幣価値に換算すると、だいたい1両=12~20万円くらいになります。※28万両を15万円で計算しますと420億円
ただしこれは、合戦にお金を使った後での計算ですから、手をつける前の金額は計算はいかほどになったのでしょう。実際、秀吉クラスの権力者であれば、現代の金銭価値でならば兆単位の資産があっても不思議じゃないでしょう。
これに加え、関が原の後も残っていた秀頼の領地である65万石の領地から得られる米と、あっちこっちからかき集めた浪人や武将、そして大坂城という堅牢な城が揃っていたとなれば、淀殿が「籠城すれば勝てる」と考えたのも無理はありません。
淀殿は徳川家の所領のことはある程度見当がついていたでしょうが、徳川につきそうな諸大名のことまでは頭になかったでしょうし、戦略のことは完全に門外漢(女性だけど)。となれば、正しい判断はできないですよね。
せめて、秀吉の遺産のうち何分の一かだけでも、皇室や公家に献金するとか、貧民救済に充てるとかしていれば、もうちょっと平和的な解決もできたんじゃないかと思うのですが……。
そんなわけで、大坂方が河川を利用して有利に立とうとしても、この日のように徳川方についた町を焼き払っても、家康の予想や対処を上回ることはできませんでした。
結局、秀頼は何も考えていなかったのか、淀殿の責任にされたのか
これに加えて、もう一つ淀殿や治長の計算外だった点が出てきます。
彼らは「きちんと報酬を約束したのだから、浪人たちは自分たちのために戦ってくれるし、命令には忠実に従ってくれる」と信じきっていたフシがあります。ある意味近代的な考えなんですね。
が、当時の武士はサラリーマンではなく「少しでも自分が気に入る人のために働きたい」「自分を信じてくれる主君のためなら、命も惜しくない」というのがスタンス。となると、淀殿や治長の態度に対し「勝ったらカネや領地をくれるって言ってるけど、俺達の言うことはちっとも受け入れてもらえない。何なんだあいつらは!」という考えが主流になるのも当然の流れです。
また、金につられて「どこそこで仕えていた武士です」と騙る農民もいたとかいなかったとか。
こんな調子では老獪な家康に立ち向かうには力不足にも程があります。
かくして「見当ハズレな作戦」「上と下の不和」「強すぎる敵」というイヤな方向のトリプルコンボに加え、一ヶ月後には大坂城へ直接大砲をブチこまれてしまい、冬の陣は講和へ向かっていくことになるわけです。
もちろんその間には、幸村らによる真田丸の大奮闘などがあるのですが……まあ、その辺は大河でやるでしょうから、ここでは割愛しましょう。当コーナーでも以前お話していますし。その記事はこちら→過去記事:真田幸村ファンが燃え上がる大坂冬の陣「真田丸の戦い」【その日、歴史が動いた】
ともかくこんなgdgd状態で奮戦した「幸村や又兵衛の殺る気がスゴい!」ということはわかりますね。
ここまで一切秀頼の意見が出ていませんが、記録がないので仕方がありません。当時秀頼は21歳ですから、自分の意見もそれなりに言えたはずなのですけれども。
本当に淀殿がすべてを決めていて、秀頼に口出しをさせなかったのか、あるいは秀頼の失策を淀殿がかぶった形にしたのか……考えすぎですかね。
長月 七紀・記
参考:今日は何の日?徒然日記 今日は何の日?徒然日記 大坂の陣/Wikipedia