日本初の歴史・戦国ポータルサイト

BUSHOO!JAPAN(武将ジャパン)

イラスト・富永商太

スポンサーリンク

週刊武春 織田家

織田信長は意外と優しい!? 49年の生涯をスッキリ解説!【年表付き】

更新日:

進化する織田信長の研究成果

みなさんがよく知っている織田信長は、もう古い――なんて言ったら横暴に聞こえるかもしれないが、実際、最新の研究によってその像が崩れかけている。

一般的に信長と言えば「桶狭間の戦い」や「長篠の戦い」、そして家臣たちを頭ごなしの恫喝で支配する、紋切り型の武将像であろう。

それと同時に「楽市楽座」や「鉄砲戦術」など次々に新しいシステム・テクノロジーを生み出す天才型の傑物としても語られてきた。

果たしてこれらは全て真実なのだろうか。

確かに信長は、その超合理的主義な考え方でもって、実際に行動に移し、そして自身の家臣だけでなく数多の戦国大名たちも従わせてきた。間違いなく日本史を代表する傑物には違いない。

しかし、楽市楽座は彼が最初ではなかったし、また「三段撃ち」で知られる鉄砲の戦術も、最新の研究では「なかった」可能性の方が高いと半ば決着もついている。

さらに恐怖の上司像というのも現在では崩れかけていて、むしろ「情に深い」一面や、寺社仏閣や皇室も手厚く取り扱っていた記録などもクローズアップされるようになってきた。

織田信長は優しい――。

さすがにそこまでの断言は語弊があるが、これまでの一義的な見方で判断するのが危険な状況であるのも事実だ。

そこで本稿では【織田信長の生涯マトメ】を読みやすく、できるだけ最新の学説・研究に基づいて真の姿へ迫ることを試みたい。

一体、織田信長とは?

織田信長年表(記事末にも掲載しております)

 

スポンサーリンク

ゲームのように楽々と勢力を拡大できたわけではない

まずは織田信長の生涯を大雑把に区分してみよう。
異論はあるだろうが、5つに大別してみたい。

【第一期~国内混乱期】
濃姫との結婚から家督相続へ

【第二期~天下布武の旗揚げ】
桶狭間の戦いから岐阜へ進出

【第三期~危機の波】
信長包囲網と信玄の上洛&死亡

【第四期~勢力の急拡大】
方面軍の派遣

【第五期~人間五十年の最終章】
本能寺の変

信長勢力図

13才で元服した信長は18才で家督を継ぎ、そこからエポックメイキングとなる桶狭間の戦い(27才)までは約10年の月日を要している(第一期)。

さらに岐阜城で天下布武を掲げるのが34才のときであるから、土台作りまでかなりの時間がかかっているのがご理解いただけるだろう(第二期)。
いかに天才とてゲームのように楽々と勢力を拡大できたわけではない。

そして実際に岐阜を領した後も、京都への道筋を確保しながら、幾度も危機に見舞われる。
浅井・朝倉の挟撃に遭い、足利義昭、本願寺、武田、機内の諸勢力等にも包囲され、争いの終着点となる本願寺との和睦(1580年)までには更に10年もの歳月が過ぎていった(第三期)。

そこからはまさしく電光石火であった。
明智光秀、豊臣秀吉(羽柴秀吉)、柴田勝家、滝川一益、丹羽長秀など有能な家臣たちにそれぞれの方面軍を組織させ、織田軍を全国へ展開させたのである(第四期)。

これが後の本能寺の変(第五期)へとつながってしまうワケだが、その詳細は後述するとして、まずは第一期・国内混乱期の考察から進めていこう。

 

スポンサーリンク

国内の混乱期

戦国後期に天下布武の旗印を掲げ、全国を半ばまで統一した織田信長は、1534(天文3)年5月、現在の愛知県西部(尾張国)で生を受けた。※追記 従来は宣教師の伝聞情報に基づく5月11 or 12日とされていたが28日が各種資料から本当の誕生日である可能性が高い(記事末に読売新聞を引用)。

父は尾張守護代家に仕える清須三奉行の一人であった織田信秀。母は土田御前(どだごぜん・土田政久の娘)。幼名は吉法師といった。

生まれた場所は、かつては名古屋市の那古野城(なごやじょう・現存する名古屋城内)とされてきたが、近年は書状の分析から、信長が生まれた当時、那古野城は今川家が押さえていたことが明らかになり、勝幡城(しょうばたじょう・愛西市)での出生が確実となっている。

実は、信長は次男だった。
異母兄の信広がいて、すぐ下の異母弟・信時も実際は信長より早く生まれた兄だったとも考えられ、信長は三男とされることもある。
しかし、正妻から生まれた初めての息子である信長は最初から嫡男として育てられた。

実際、1546年に父の居城・古渡城(ふるわたりじょう・名古屋市)で元服し、那古野城主となり、1551年に父・信秀が流行病で亡くなると同家の家督をスンナリ継いでおり、相続自体には障壁がなかったことをうかがわせる。

その後、守護代家である織田家が、守護の斯波氏をクーデターで追いやったのに乗じ、織田信長は「守護を守る」との大義名分で尾張の中心だった清須城(清須市)を事実上、乗っ取る。
ここから守護代織田家の家臣筋だった織田信長は「織田本家」となった。※おおまかに戦国時代は「清須」、江戸時代以降に「清州」と表記されるようである。

若き信長と言えば、父・信秀の葬儀で焼香のとき、抹香(まっこう)を仏前へ投げつけたのはあまりに有名な話。
信長を礼賛する『信長公記』(著・太田牛一)に記されているため、ほぼ間違いないと思われ、現代においても「尾張の大うつけ」として知られる一因ともなっている。

そしてその影響で1553年、教育係の平手政秀が諫死(かんし・死でもって信長の行為をたしなめる)したというのもよく知られた話だ。

では、若いころの織田信長は手の付けられない馬鹿者・乱暴者であったのか?

というと、実際はそれほどでもなく、当時、上級武家の子息たちなら蹴鞠などお上品な作法を行儀よくお勉強をしなさいとされていた規範にそぐわなかっただけであり、信長が好んだ馬の教練などは、常に生死の問われる戦国武将にとっては、むしろ自然だったとも考えられる。

また、現代の漫画やドラマなどでは、魔王のごとく恐ろしいキャラクターで描かれることの多い信長であるが、後の史実を含めてみても実はそういった印象は薄い。

平手政秀の死に際してはこれを大いに嘆き悲しみ、愛知県小牧市に政秀寺(せいしゅうじ)を建立、臨済宗の沢彦宗恩(たくげん そうおん)にその霊を弔わせている。
※沢彦もまた信長の教育係であった。

1557年には弟の織田信行(信勝)を病気と称して呼び出し、謀殺しているが、これとて単に「気に入らなかった」というような感情的理由ではなく、信行が複数回の裏切りを画策していたからだった。

信行はその前にも兄・信長を排斥しようとして失敗。そのときは両者の実母・土田御前に諭され処分は下されることがなかっただけで、さすがに2度目の裏切りでは殺害も致し方なかった処置だった。
実際、信行を支持した柴田勝家は、許されてその後、信長に重用されている。

なお、その前年(1556年)には、妻・濃姫の父である斎藤道三が「長良川の戦い」で息子の斎藤義龍に討たれ、その際、信長が救援に向かっていたことは有名な話。
実弟の裏切りはその直後のことだっただけに、後ろ盾を失った信長が織田家を引き締めるためにも、果断な処置が求められたことは想像に難くない。

ただ単に、殺害した――とクローズアップするのは、やはりバランスを欠いた考え方であろう。

 

桶狭間の戦い

最近の研究では、父の信秀は尾張だけでなく東の三河国西部(愛知県西部)までを支配していたことがうかがえるようになっている。
ただ、信秀の急死で織田家内が内乱状態となったことで、信長は三河どころから尾張の維持すら危うくなっていた。

かように混沌としている最中、戦国時代、最大の「番狂わせ」が起きる。

1560年5月19日、桶狭間の戦いだ。

従来、この合戦は嵐の最中、少数精鋭の織田軍が、上洛(京都へ上ろうとすること)中の今川義元軍に気づかれることなく、大きく迂回して、桶狭間という窪地で休息していた義元の本陣へ攻め込み、電撃的な奇襲で義元の首をうち取った勝利とされてきた。

3~4万という兵数の今川軍に対し、2~5千の織田軍では、正面からぶつかっても太刀打ち出来るワケがないと考えられたからだ。

しかし、これは戦前の旧参謀本部が「日本戦史 桶狭間役」によってお墨付きを与えた迂回奇襲説であり、最近は疑問符が投げかけられている。

そもそも、今川義元は上洛しようとしていたのではなく、尾張国内に進出した今川方の二つの城(大高城と鳴海城)が織田方に包囲されるために救援にやってきた、国境線上の「後詰め説」が有力視されている。

もし上洛を進めるのであれば、美濃の斎藤氏や近江の六角氏など、途中の武将たちに連絡を取らねば不可能であるが、実のところ今川氏からの書状(通過を求める連絡)は残っていない。
この時点で今川が、織田、斎藤、六角といくつもの戦国武将を撃破し続けて京都に上がる可能性は極めて小さいし、そもそもその意味もないからだ。

そこで桶狭間の戦いに対する一つの有力な見方として掲げられているのが、正面突破からの偶発的勝利説である。藤本正行氏が1993年の『信長の戦国軍事学』(JICC出版局)で提示したことで知られ、迂回奇襲説に対して「正面攻撃説」と呼ばれている。

「信長公記」の記述がもとになっているから、かなり定説に近い地位を占める説となっているが、この説は現地の地理からするとかなり無理がある。
信長が出陣した善照寺砦から大高丘陵の尾根にいるとされる今川本陣まで遮蔽物がなく丸見えだからだ。

疑問を投げかけたのは、桐野作人氏や黒田日出男氏。
黒田氏は、初戦で今川軍が織田軍を徹底的に叩いた際に乱取状態(一言で言えば、勝利者が近隣を襲いまくる「ヒャッハー」な状態で今川軍が無秩序だった)になったとする「乱取状態奇襲説」を提示した。(黒田「桶狭間合戦の『甲陽軍鑑』」『立正史学』、2006年)

さらに、城攻めの観点から別の有力説が浮上して注目されている。

城郭考古学者の千田嘉博氏が2013年に『信長の城』(岩波新書)で提示した正面奇襲説だ。
3行でいうと、
①今川軍は尾根の上にはおらず山の裏側(南側)にいた。
②今川と織田はそれぞれが見えない状態だった。
③現地に詳しい信長は裏側の地形を読み切って、おけはざま山(大高丘陵)をすり抜けて奇襲をかけた
というものである。

これまでの諸説は、信長公記という唯一のテキストを解釈に解釈を加える形で行われてきたが、千田説は登場する城や砦の考古学や歴史地理の研究成果も合わせた3次元な論証を行っており、桶狭間の戦いをめぐる論争は今、次世代の段階に入ったといえる。

【現地の地形を含めてより詳しく知りたい方はコチラの記事へ▶桶狭間の戦い「正面奇襲説」がよくわかる現地リポート!【マンガ解説付き】

ともかく、信長は当時の総大将としては珍しく自らが前に出るタイプであり、だからこそ桶狭間の戦いでも少ない部下を率いて攻めこむことができたことが最大の勝因であることはゆるぎない(後に石山本願寺との対戦中にも自ら寡兵で救援にかけつけるなどの記録も残っている)。

重臣たちにギリギリまで自分の意思を伝えないなど非常に高度な情報戦を展開した胆力。
そこから辺境の争いをいつの間にか大将首を取ったというミラクルにまで発展させた実力と運。
いかなる説が正確なのか不明ながら、信長の凄まじさだけは変わりはないだろう。

この戦いで信長の性格が垣間見えるのは、戦略性や実行力だけでない。
信長はこの大勝利の理由に「天候の急変」と「自分の判断の読み違え(今川軍は前哨戦で疲れ果てていると思っていたが無傷の義元本陣とぶつかった)」があったことから、その後、奇襲作戦は使っていない
要は、成功体験をあっさり捨てられることもまた、特筆した才能といえよう。

かくして日本史上に燦然と輝く快挙を成し遂げた織田信長ではあったが、前述したとおり、このとき尾張一国も完全にまとめきれていない状況だった。

※2017年8月1日の読売新聞にて「桶狭間の戦いにおいて、織田信長は六角氏と同盟を結んでいた!?」という趣旨の記事が公開されました(読売新聞)。「桶狭間合戦討死者書上」という文書が徳川美術館の特別展「天下人の城」で公開され、その中に「織田軍の戦死者のうち272人が近江国(滋賀県)の大名・六角氏からの援軍だった」という趣旨の記述が。

※ちなみに、2017年の大河ドラマ『おんな城主 井伊直虎』で注目度の上がっている井伊家も桶狭間の戦いに今川方で参戦し、多くの者が命を落としている。
同家からは後に徳川四天王の一人・井伊直政が輩出されており、もしも彼が跡を継いでなかったら徳川軍団にも多大な影響を及ぼしていたであろうから、やはりこの戦いは意義深いものであった。

 

小牧山城の築城と岐阜城への移転

家督を継いでから、その後、天下に名前を鳴り響かせるまで、織田信長は頻繁に本拠地を変えた。

実は、本拠の移転は、他の大名にはあまりなかったことで、たとえば武田信玄は隣国・信濃(長野県)を支配するため、勢力拡大の度に前線の城を大いに利用したが、甲斐(山梨県)の躑躅ヶ崎館(甲府市)から本拠地自体を移動したことはない。

関東管領となり、同地域の名目的支配権を獲得したライバルの上杉謙信も、本拠地を南へ移せば豪雪の障害も減り、関東への侵攻は格段にラクになったハズであるのに、春日山城(新潟県)から動いたことはない(謙信は上杉家臣団のまとまりがなかったという要因もあるが)。

戦略に応じて本拠地を変える――。
過去の成功を一考だにしない――。
いずれも超合理主義者・信長ならではの偉大な才能の一つなのであろう。

その取っ掛かりとして信長に大きな影響を与えたと最近考えられているのが、1563年(永禄6)に清須城から移転した【小牧山城】(愛知県小牧市)である。

発掘調査によって注目度の高まっている小牧山城。天守風の建物は戦後に建てられた模擬天守。当時は天守はなかった

普通、信長の本拠地移転といえば、岐阜城が真っ先に挙げられがちだ。
あまり知られていない小牧山城がなぜ? と思われるかもしれないので、同城の特徴を記しておくと、

①30歳の織田信長が築いた最初の城郭
②最大三段の石垣を備えた城で、後の安土城にも影響を与えた可能性
③わずか4年間しか使われなかったために文書の記録がほとんど残っていない

平成になって行われた発掘調査で、これまで「無い」とみられていた信長期の石垣が山頂部で発見された。

本格的な都市計画に基づく城下町跡も見つかり、信長が初めて自らの手で作った城が単なる中継ぎの砦(城)ではなく、城下町を備えた本格的かつ尾張では存在しなかった石垣の城であることが判明。
小牧山城に対する注目度は高まっている(なお、前述の千田教授は発掘以前から地籍図の読み込みによって城下町の存在を指摘していた)。

実際、この城の新造に合わせて、これまで従っていなかった一族の支配地・尾張北部も手に入れ、さらにそれをきっかけに美濃国(岐阜県)へ攻め入ったのである。

極めつけは「麒麟(きりん)のサイン(花押)」であろう。

かつては岐阜城において、「天下統一の意思を示す」ものとして、「天下布武」の表明と共に、中国の皇帝が使う幻獣「麒麟」と花押の2点セットが初めて使われたとされていたが、そのうち麒麟のサインは小牧時代から使い始めていたことも分かった。

このころ美濃は、義父の斎藤道三の代から2代あとで孫の斎藤龍興が当主となっていた。
道三時代は友好だった関係も、道三の息子の義龍が軍事クーデターによって反織田に切り替わってからは、むしろ反信長の織田家の居城犬山城など尾張北方を侵食されており、清須より北の小牧山移転はこれに対応する攻守の政策決断であった。

が、義龍は急死。幼い龍興では斎藤家中はまとまらず、信長は徹底的に調略を駆使して稲葉一鉄ら「美濃三人衆」を切り崩し、1567年、ついに信長は斎藤氏の稲葉山城を陥落する。この城と城下町を「岐阜」と改名して本拠地を移転したのであった。

なお、美濃の調略工作で活躍したのが丹羽長秀や木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)だったとされている。

峻険な金華山に建つ岐阜城

 岐阜という名前は織田信長と僧・澤彦宗恩(たくげんそうおん)が初めて命名した――と考えられがちだが、実際は以前から存在しており、岐蘇(木曽)川の「岐」ならびに、土岐市の「岐」という意味が込められていた。例えば瑞龍寺の「土岐重頼画像」に「岐阜」という文字が記されている(1499年時点)。
【参考】政秀寺古記 岐阜という名前は信長の発明ではなかった!/天下人の城~徳川美術館応援団

 

第一次信長包囲網~浅井長政の裏切り

岐阜へ本拠を移動させた信長は、まず京都への道筋を確保すべく動いた。

自らが奉じた足利15代将軍・義昭の護衛(という名目)のためには、岐阜~近江~京都ルートを押さえることが肝要。
その途上を治めていた浅井長政に、絶世の美女と謳われた妹・お市を嫁がせる。

むろんこれだけでは完璧ではなく、南近江には信長に対抗する諸勢力がおり、彼らを駆逐せねばならなかった。そのうちの一つ・六角氏が最初に「楽市楽座」を行ったとする記録が残っているのが興味深い。

いずれにせよ南近江の国衆や小大名を各個撃破しながら京都への道筋を押さえた信長は、この先、運命を大きく変える判断ミスをしてしまう。
越前(福井県)朝倉氏へ攻め込み、妹婿であった浅井長政ならびに浅井家を敵に回してしまったのだ。

なぜ浅井氏は信長を裏切ったのか?

理由として挙げられるのが父・久政や家臣団の強い意向と言われており、実際、浅井氏は周辺の北近江ならびに琵琶湖権益を保持する国人衆との連合勢力であった。
ゆえに長政自身が強権を発動することはかなわず、従来通り朝倉との関係を維持することになびいて、信長を裏切ってしまったようだ。

しかし、いざ裏切った後の浅井・朝倉の行動はグダグダだった。

現代では凡将として知られる朝倉義景の生ぬるい状況判断や、その逆に激しく迅速な織田信長の逃亡劇によって、越前から京都まで無事に帰還。浅井・朝倉の猛追をしんがり軍で受け持った羽柴秀吉や明智光秀は、最後まで持ちこたえ、彼らもまた無事に逃げ戻る。
この一連の撤退戦が金ヶ崎の退き口である。

そして京都を経て岐阜城へ戻った織田信長はすぐさま浅井討伐軍を編成した。

信長にとって当面の敵は浅井となった。

上記の地図をご覧のように、信長の岐阜城(岐阜市)から小谷城(長浜市湖北町)までは直線距離で約20キロ。
山がちな土地であるため南側の大垣~関ヶ原ルートを迂回せねばならないが、それでも一日で行軍できない距離ではない。

むろん、そんな状況は浅井家でも重々承知しており、いきなり本拠地を信長に晒すわけもなく、織田軍の侵攻に備えて小谷城の南方に支城を配置、そしてこの地の攻防から、これまた後世に知られる合戦が勃発した。
姉川の戦い」である。

1570年6月、織田・徳川連合軍(1.3~4万)と浅井・朝倉連合軍(1.3~3万)がぶつかった。
発端は横山城の包囲戦から始まった野戦であり、当初、浅井・朝倉が優勢だったものが徳川の踏ん張りにより逆転、最終的に織田方が横山城奪取に成功したというのが有力説として伝わっている。

徳川の武力を世に誇るため後世に書き換えられたという説もあるが、いずれにせよ小谷城攻略への足がかりを作った信長。すぐさま浅井・朝倉を立て続けに反撃……とはならなかった。この辺りから「第一次信長包囲網」と呼ばれる苦境の時期に陥ったのだ。

まず8月、足利義昭に反対していた三好三人衆が摂津(大阪府)で挙兵。これに対処すべく出向いた織田軍の間隙をついて、全国での動員兵数が日本トップクラスの石山本願寺(のちの大坂城の場所に所在)の一向宗も立ち上がり、野田城・福島城の戦いへ発展する。

さらには浅井・朝倉・比叡山延暦寺が近江坂本へ軍を進めて織田軍は八方塞がりとなった。

次々に起こる脅威に対し、信長の周囲は生きた心地がしなかったであろう。

このとき浅井・朝倉・延暦寺の大軍に対して、寡兵で防御に徹したのが森蘭丸の実父・森可成(よしなり)であり、近江での「宇佐山城の戦い」と呼ばれる激戦で可成は命を落とすことになる。

しかし、まだ終わりではない。
尾張のお隣・伊勢では本願寺の要請で長島一向一揆が起こり、信長の実弟・織田信興が自害へ追い込まれ、すわ織田軍は滅亡か――というところで繰り出した信長のウルトラ技が「和睦」であった。

文字通り、織田軍を包囲していた浅井、朝倉、寺院勢力たちが休戦に応じたのである(1570年11月)。

織田軍を完全に囲んでおきながら、彼らはなぜそんな真似をしたのか。

そもそもは、信長が足利義昭を通じて、関白~天皇(正親町天皇)へと和睦を依頼し、それが首尾よくかなって勅命が発せられたのだった。
現代人からすればなんとも解せない外交という他ないが、ともかくこの一件で窮地を脱した織田軍はいったん帰国。一方、囲みを解いた連合軍たちはすぐさま激しく後悔することになる。

その第一の標的が延暦寺であった。

 

第二次信長包囲網と武田信玄の上洛

一部では「魔王」(第六天魔王)とも称せられ、恐怖の対象で見られがちな織田信長。
その一つの要因となっているのが「比叡山延暦寺焼き討ち事件」であろう。

1571年2月、佐和山城の磯野員昌を調略した信長は、南近江への進出を再度可能にし、比叡山へ攻めこんだ。

前年に和睦をしたばかりの延暦寺としては憤懣やるかたない状況であろうが、一方で、同山では僧兵が跋扈し、遊女も行き交うなど、そこは宗教施設というよりもはや戦場(そして歓楽街)である。

信長としても京への途上に敵対する「軍事施設」が構えているのだから戦略的にはとても捨て置けない状況だ。宗教施設ではなく軍の拠点であれば、攻め込むのは自然なことであった。

しかも、この事件、最近の研究から、今まで広く知られてきた残虐非道なものでもなかったという見方もある。

従来は、僧兵・僧侶のみならず女子供まで含め数千人が殺されたことになっていたが、発掘調査で、焼失した木材や大規模な白骨が出ることもなく「数字は操作されたものでは?」という見立ても強い。
ただ、武と権威を合わせ持つ有力寺院としての延暦寺が「消えた」ことは間違いない。

目の上のたんこぶ的存在だった比叡山を攻略した信長の、次の目標は浅井・朝倉であった。

岐阜から南近江を通り、琵琶湖水運も同時に活用して京へ進むルートは確保している。しかし、背後には浅井の小谷城があり、周辺は常に緊張状態。いつまた寝首を掻かれそうになるかわからない。

徹底的に潰すべし――。

されど、絶体絶命の状況へ陥ったのは、またもや織田信長であった。
戦国最強と称される武田信玄がついに軍を進めてきたのである。

©富永商太武田信玄

このとき武田信玄は、巷で言われるように京への上洛を望んでいたのか?

確かに足利義昭や畿内の諸勢力たちは信玄を頼りとして、信長討伐を催促するなど、いわゆる第二次包囲網を敷いていた。そして実際に信玄が立ち上がり、まずは徳川領内へ侵攻してきたことも事実である。

が、上洛までの道筋はさほどに簡単ではない。

桶狭間の戦いでも触れたように、あのときの今川軍は織田家との国境争いのために大軍を動員したと考えられている。

武田軍としても、徳川と織田を撃破すれば、その先、今川のように大きな敵はいないが、合戦には兵だけでなく武器も必要だし、さらには兵糧の調整も極めて重要となる(当時の兵は、実際に配られたかはさておき一日に7~10合の米が必要だったと言われている)。

戦国最強の武田家とて、その事情に変わりはない。

では何が狙いだったのか。
やはり織田徳川、特に徳川家康に対する圧力だったのであろう。

今川義元の息子・氏真から駿河国(静岡県中央部)を強奪した武田家にとって次に目標とすべき土地は、西側で領地を接する徳川の遠江(静岡県西部)・三河(愛知県東部)。
そこへタイミング良く、信長と仲違いをした足利義昭からの求めがあり、信玄は、大義名分を得た上で西上作戦を展開するのであった。

むろん武田家とて、織田徳川だけを相手にすればよい状況でもなかったのは皆さんご存知かもしれない。

特に越後の上杉。
積年のライバルである上杉謙信が脅威となっていれば主力を西へ向けられはしない。

そして東には、甲相駿三国同盟が破綻し、信玄に対して怒りを抱いている相模の獅子こと北条氏康もいた……のであるが、北条家が三増峠の戦いで武田に手痛い敗戦を喰らい、それから間もなく氏康が死去して事情は一変、このとき武田と北条は再び手を組んでいた。

北条が武田に付けば、今度は上杉にとっては関東に目を向けなければならない状況でもある。
つまり上杉としても武田にばかり関わってる余力もなく……。

三増峠の戦い石碑

 

そして、信玄、動く――。

精強な武田騎馬軍団の中でも最強と称される赤備え・山県昌景が先陣を切って三河へ向かい、信玄本隊は、昌景と並び称されるツワモノ・馬場信春等と共に遠江へ。

対する織田信長は、これまで表面上は友好的関係を保っていた武田信玄に対して激怒し、上杉へ挙兵を求めつつ、徳川に援軍を送る。

その数、佐久間信盛と平手汎秀(ひろひで・平手政秀の息子)の約3,000。
武田3~4万に対して、1~2万とされる徳川にとって、あまりにも心もとない兵力であった。
畿内で包囲網を敷かれていた信長も、それ以上の兵は送れなかったのである。

ついに激突する武田と徳川。一言坂の戦い、二俣城の戦いと続き、三方ヶ原の戦いへ――。

結果は、連敗そして惨敗であった。もちろん負けたのは織田徳川連合軍である。
特に三方ヶ原の戦いで武田軍は、家康のいる浜松城を素通りするかのように見せておきながら、背後から奇襲を仕掛けようとする徳川を万全の体制で待ち構え、完膚無きまでこれを叩きのめした。
まさに格が違う両者であった。

家康は、生涯に二度、合戦で命の危機にさらされたと言われる。
そのうちの一つがこの三方ヶ原の戦いで、もう一つが大坂夏の陣における真田幸村特攻だ。

やっとのことで三方ヶ原から逃げ出し、その際、恐怖のあまり大便を漏らしたと後世に逸話が作られるほどの手痛い打撃を負い、浜松城へは這々の体で逃げ帰るという有り様。

後を追った山県昌景が警戒心を抱くことなく同城へ攻めかかっていれば、後の江戸時代は到来せずに未来は大きく変わっていただろう。

ライトアップされた浜松城。三方ヶ原の戦いの後、徳川方の帰還兵を受け入れるため灯りをつけて開城されていたことが逆に山県昌景の警戒心を煽り、結果、家康の命は助かったと伝説がある。当時は如何にして松明が焚かれたのであろう……

 

風雲急を告げたのは、三方ヶ原の戦いを経て、武田軍が東三河の野田城を攻略した後のこと。
連戦連勝で徳川を追い詰めていた武田軍は急に進路を変えると、そのまま本拠地・甲斐へ帰国してしまうのである。

そう、信玄の病は、もうどうにもならないところまで悪化していた。

そして元亀4年(1573年)4月、巨星墜つ――武田信玄の死は同家によって秘密が堅持されてはいたが、その不可解な撤退劇には織田信長のみならず、当の徳川家康が最も怪訝に思ったことであろう。

だからと言って甲斐信濃へ即座に攻め込むことは難しい状況だった。武田勝頼は決して無能ではないと信長自身が評価しており、実際に領土を拡大している。

いずれにせよ一息ついた織田信長は同年7月、足利義昭と真正面から対峙することになる。

 

足利幕府の「滅亡」は「亡命政権」か

遡ること約半年前の元亀3年(1572年)10月、信長は義昭に対して『十七条の意見書』なるものを突きつけていた。
詳細は、こちらの記事(足利幕府の滅亡と十七の意見書)に譲らせていただくが、義昭の日頃の悪行を咎める内容であり、その例を挙げると

・朝廷に参内していない
・配下の者にケチな上、気に入らないと処罰する
・寺社に対して不親切
・訴訟の仕事は放ったらかし
・米を勝手に売りさばく

などなど、これが本当であれば「義昭、あんたが悪いでっせ」という内容のもの。
逆恨みのように激怒した足利義昭が武田信玄の上洛を促し、信長包囲網を敷きながら、武田軍の撤退(信玄の死)によって叶わぬものとなったのは前述の通りである。

では高々と振り上げた拳を義昭はどう収めたのか?

これまでの経緯から、何処かへ逃げ延びるかと思われた義昭は、驚くことに信長への対抗姿勢を崩さなかった。ときに「魔王」のように称される織田信長は、実はこのときですら義昭に対して和睦の提案を示していた。それを将軍自身が拒否したのである。

義昭が何を根拠に抵抗していたのかは不明だ。

共に信長包囲網に加わっていた浅井朝倉に期待していたのだろうか。それとも古き熱き源氏の血脈がそうさせたのか。あるいは将軍職に対し一定の配慮を続ける信長を、相変わらず甘く見ていたのだろうか。
今となってはその真意は不明ながら、義昭方は、今堅田・石山の戦い、二条城の戦いで織田方に連敗を喫し、ついに槇島城へと追い込まれる。

そして元亀4年(1573年)7月、おそらく寡兵(兵数は不明)で同城に立て籠もった足利義昭は、やっぱり足利義昭であった。

城を包囲→放火されると、アッサリ降伏してしまうのである。しかも嫡男を人質に差し出して。

このとき信長が下した判断は、当代一の権力を持つ戦国大名には考えられない、甘いものであった。

「将軍を殺さずに京からの追放だけで終わらせたワシをどう思うか? その判断は後世の者たちに委ねよう。(将軍への)怨みには恩で報いるのだ」(意訳)

なんとカッコイイ台詞なのだろう。
映像作品やマンガで同シーンをあまり見かけないが、まるで信長公記の太田牛一によって後世に伝えられることを見越していたかのような言葉ではないか。
口元に微笑を浮かべながら、現代人の我々に質問を投げかける、そんな余興だったのかもしれない。

織田信長には、やはり血が通っている――。

いずれにせよ槇島城の戦いをもって、約240年続いた室町幕府は滅びた。
と、教科書等にはそう書かかれているが、足利将軍が地方へ逃亡するのはこれまでも頻繁にあったこと。
京都を去ったことで室町幕府が滅びたというのは結果論であり、この時点で生きていた戦国人たちはみな「元亀4年に室町幕府は滅亡した」と思った人が皆無だったことは、我々も知っておきたい。(なお、この室町幕府は滅亡していない、説を唱えたのは藤田達生・三重大教授である)

実際、義昭は亡命先の鞆(とも・広島県)で、毛利氏の庇護のもと、各地の大名に反信長の工作をしかけ続けるのであった。

 

天下第一の名香と長島一向一揆

信玄の死により孤立した足利義昭。これを容易に蹴散らした織田信長は、次に岐阜から京都にかけての近江、さらに越前地域を一気呵成に制する。

1573年8月、小谷城の後詰め(救援)に来ていた越前の朝倉義景が引き返すタイミングで背後から襲い、義景を自刃に追い込み、返す刀で軍を小谷城へ向け、浅井久政と長政の討伐にも成功させた。

このとき秀吉が救ったとされるのが信長の妹・お市と、更には彼女と長政との間にできた3姉妹であったことはよく知られた話であろう。
※3姉妹のうち、長女の「茶々」は秀吉の側室となって豊臣秀頼を産み、次女の「初」は京極高次に嫁いで関ヶ原~大坂の陣でも交渉役等で活躍、三女の「江」は徳川秀忠の妻となって三代将軍・家光を送り出す

浅井朝倉の脅威から完全に解放された織田軍は休むことを知らず、続いて三好氏を下し、自爆大名のエピソードでお馴染みの松永久秀も降伏させた。

しかし戦いに明け暮れるばかりではない。

ちょうどこのころ信長は、正親町天皇から「蘭奢待(らんじゃたい)」の切り取りを許可されている。
「蘭奢待」とは、「天下第一の名香」と称される香木のことで、東大寺の正倉院に保管されていた。

いわば古来から国宝級のお宝であり、過去にその匂いを嗅げたのは権力の頂点に立った実力者ばかり。信長が認められたということは、すなわち天皇からのお墨付きを得た……とは言わないまでも、対外的に権威のアピールに繋がったことは確かであろう。

もう、畿内ならびに周辺に邪魔な者はいない。
このまま一気に制圧して、その後は更に西へ軍を向けるのか――。

と考えるのは、やはり早計であった。
真に恐ろしいのは戦国武将や大名ではなく、宗教勢力。
このとき信長を長く苦しめていた長島一向一揆によって、兄の織田信広(母は別)や弟・織田秀成(母は別)が討ち取られてしまった。

近しき者たちを殺害されて怒りを抑えることができなくなったのだろうか。
信長は10万の大兵力でもって長島へ出陣し、実に門徒たち2万人を焼き討ちで全滅させた。

一揆勢は3ヶ月以上の籠城で耐えきれなくなり、降参して長島から退去するところであったが、舟で脱出しているところを鉄砲で狙い撃ち。そして城(中江・奥長島)にいた2万人は焼き殺されたのだった。

この大虐殺が、仮に兄弟を喪ったことに対する復讐であるとすれば、血の通った人間らしい一面もありながら、同時にこの上ない残虐性も併せ持った人物像が浮かんでくる。
一揆勢を軍事勢力と見るべきならば、仕方ないと判断すべきなのか。

ちなみに同合戦は天正2年(1574年)に行われ、この年が明けた翌年3月、信長は義元の息子で既に大名としては滅んだ今川氏真に「蹴鞠」を披露させている。

場所は京都の相国寺。三条西実枝父子や飛鳥井雅教父子、高倉永相父子など公家も参加して、信長は見物を行い、翌月には公家たちに対して徳政令を発令している。

徳政令とはご存知、借金をチャラにすることである。信長は、戦乱で荒廃していた京の復興を行い、貴族層たちが奪われていた旧領の復活も認めていたのであった。
あくまで推察だが、もしかしたら蘭奢待の切り取りと無関係ではなかったかもしれない。

 

長篠の戦いと鉄砲三段撃ちの真相

信玄亡きあとの武田家は、果たして脆弱だったのか?
あるいは、跡を継いだ勝頼が愚将であったが故に同家は滅亡してしまったのか。

答えは「否」。
前述の通り、織田信長自身が「武田勝頼は強い」と評しており、武田家内でも同様に勝頼を評していたところがある。
実際、武田家が最大の版図となったのは信玄のときではなく勝頼のときであった。

しかし同時に、その「勝頼の強さ」こそが同家にとってアダになった可能性は否定できない。

長篠の戦い(1575年)である。

一般によく知られた長篠の戦いは、
「鉄砲」の織田徳川連合軍(4万)に対し、「騎馬」の武田軍(1.5万)が無謀に突っ込んで次々に討ち取られた
このとき織田信長が駆使した作戦が「三段撃ち」である――という説明だろう。

日本人なら誰もが歴史の授業で習う三段撃ちは、いかにも新戦法を発想した天才・織田信長!という人物像に適って収まりがよい。

しかし、これまで伝わっているような「3人がグループになって順番に撃つ」という三段撃ちは、現在の研究では、ほぼ「なかった」とされている。

端的に言えば、横一列に広がった鉄砲隊が合図と共にタイミングよく弾を発射することなど、当時の鉄砲のスペックや、戦場の規模からして不可能と考えられるのだ。

ただし、信長が大量に鉄砲を持ち込んだのは間違いないであろう(数についても1000丁から3000丁まで諸説あり)。

織田・徳川連合軍は、武田軍がやってくる進路に向けて馬防柵を設置し、陣を固め、さながら簡易山城のように準備を施した陣地で敵を待ち構えていた。

戦場となった設楽原(信長公記では「志多羅」と表記)は窪んだ地形で背後の丘陵の後ろに勝頼たちから見えないように軍勢を配することが可能だったのである。

長篠の戦い(設楽原)古戦場に設置された馬防柵。向かって左側には織田・徳川軍、右側の丘陵に武田軍が布陣した

ここで勘違いされやすいのが、武田勝頼を愚将とした見方である。

ともすれば「勝ち目もないのに無謀にも突撃した」なんて語られることもあるが、いくら勝頼が、信玄の代からの重臣たちとの折り合いが悪かったとしても、わざわざ死なせるために突撃するのは不条理すぎる。
実際の戦いが鉄砲だけで決着がついたのなら短時間で終わっているはずだが、長篠の戦いは1日がかりの戦いだった。

問題は、「鉄砲隊に対する有効な戦術は何だったのか?」ということだ。

実は当時、鉄砲隊に対して脚の速い騎馬隊を突撃させることは、一つの作戦として認知されていた。
突撃の間にいくらかの騎馬は討ち取られてしまうかもしれないが、鉄砲の命中率自体は決して高くなく、逆に騎馬で一角を崩すことができれば十分に勝ち目だって考えられたであろう。
勝頼は、それを実行しただけのことである。

ただし、同合戦は、普通の野戦と違った。
織田徳川の防御が、武田の騎馬を蹴散らすために十分な準備が整っていたのである。

ならばさっさと退却すればよいではないか?
とも思うところであるが、前述の通り、一見して織田徳川軍はさほどの大軍には見えず、さらに信長は事前に別働隊(酒井忠次をはじめ信長の馬廻り衆や金森長近など)を進軍させて、長篠城の救援に成功。
それはつまり武田軍の背後が取られたことを意味しており、勝頼としても前へ出るしかなくなっていた。

弱将ならば最初から負け戦を受け入れ、早々に撤退できたかもしれない。

しかし、強いがゆえに自らの戦況打破を考えた勝頼。その結果の敗戦だったにすぎない。

武田軍は、赤備えの山県昌景をはじめ、馬場信春や真田信綱(真田昌幸の兄)など、当代きっての武将たちが突撃をかけ、そしてこれに失敗して退却すると、次々に討ち取られていった。

「信長公記」では「関東の武士たちは馬を巧みに乗りこなした」と武田の騎馬隊を警戒するような記述もあり、やはり、その破壊力は内外に認められたものだったのだろう。
状況と結果だけを考えれば、信長の計算がすべて当たり、まるで神がかったかのような展開。

むしろ注目すべき点は、鉄砲の数よりも、十分な兵数の確保とその隠蔽、別働隊で背後をとるなどの信長の巧みな戦術眼ではなかろうか。

ちなみにこのとき、武田勝頼秘蔵の駿馬が置き去りにされ、織田信長に取られている。馬も城も勝者の手に渡るのであった。

馬防柵のある陣地、その背後の茶臼山に織田信長の本陣が設置された。現在は茶臼山稲荷神社が建っている

 

第三次信長包囲網

長篠の戦いで勝利した織田信長は同1575年11月、清涼殿に参上し、朝廷から権大納言、右近衛大将に任ぜられた。

全国には他の有力大名が数多いたが、朝廷によって信長が「天下人」に公認されたようなもので、決してその仲が険悪ではなかったことが明らかであろう。

いかにも魔王の如き織田信長像を語るとき、よく取り沙汰されるのが「自身が天皇になろうとした」という説である。

が、それは実際の行動を見る限りありえないと言うしかなさそうだ。信長は皇室をないがしろにするどころかむしろ保護する立場であり、1581年には予算不足で途絶えていた伊勢神宮・式年遷宮のために資金を全額出したりしている(現在の貨幣価値で数億円規模と目される)。
その辺の政治バランスにも長けていたのであろう。

そして翌1576年、琵琶湖のほとりに安土城の建設を進める。

奉行に任ぜられたのは丹羽長秀。米五郎左というアダ名で「織田家にはなくてはならない人物」と称された名将である。

彼の指揮のもと、尾張・美濃近辺の武将をはじめ、畿内の大工や職人も招集された。その建築過程で「蛇石」という巨石がどうしても引き上げられず、秀吉や滝川一益なども手伝い、1万人がかりで山頂へ引っ張りあげたという記録が残っている。

ここまで来ると、もはや天下統一も目前なのか――と思われるかもしないが現実は甘くない。
いわゆる「第三次信長包囲網」が敷かれるのであった。

浅井朝倉に挟撃されて始まった第一次信長包囲網。

武田信玄の進軍で窮地に陥った第二次信長包囲網。

信長の包囲網と言えば、いずれも一歩間違えれば織田家が瓦解するかのごとく周囲から圧力をかけられ、信長も生きた心地がしなかったような状況である。

それに比べて第三次というのはいささか切迫感がないように感じられるかもしれない。
まず当面の目標は、西でまたも蜂起した石山本願寺。ここ数年に渡って戦ってきた相手であり、鉄砲集団・雑賀衆の助力も含めた最大の強敵だ。

実際、このときは敵兵1.5万人のところへ信長は3千ばかりの兵力で立ち向かい、足に銃弾が当たってケガを負っている。それでも怯まない信長の気迫が最終的に勝利を呼び込んだのであろう。

この戦闘を「天王寺砦の戦い」というが、これに勝った織田軍は石山本願寺を取り囲み、交通の要衝に10箇所以上の砦を設置した。

後に、織田軍の行軍スピードは神がかっている、と評価されることが多々ある。

なぜ、そんなに素早い移動ができるのか。

兵農分離に答えを求めることもあるが、なにより琵琶湖畔に安土城を建てられる――その事実が、安土・岐阜から京にかけての機動性を担保していた。

どういうことか。
現代の交通事情からあまり想像しにくいが、琵琶湖は“水上ネットワーク”としての機能が大きく、ここを治めていた織田家にとってはかなり盤石な体制でもあったのだ。

かような状況からして、第三次包囲網はこれまでと若干毛色が変わって、織田家崩壊という切迫した危機には感じられない。
むしろ信長に滅ぼされる(もしくは配下に置かれる)可能性が高まった足利将軍、本願寺、全国の有力大名たちが危機感から大同団結してものであった。

ただし、いかに個別の力では信長が圧倒的でも、他大名たちにガッチリと手を握られたリスクとなると、織田家にとって決して小さなものではない。

石山本願寺の背後には西の大国・毛利がおり、東には弱っていたとはいえまだ武田も健在。さらに北では、信玄のライバルでお馴染み・上杉謙信が立ちはだかるようになったのだ。
信長配下の柴田勝家が、越前&加賀へと軍を進めており、越後の龍を刺激してしまうのも、ある意味必然だったのだろう。

しかも、である。
能島氏や来島氏が率いる毛利水軍とぶつかった第一次木津川口の戦いで織田軍は、700~800艘の敵軍に完膚なきまでの敗戦を喫していた。

このとき織田軍は石山本願寺を包囲して兵糧攻めに追い込んでいたのだが、海上では一歩も二歩も上をいく毛利水軍の焙烙火矢(火薬の入った陶器を投げ込み、爆発によって飛び散った破片で敵兵を殺傷させる武器)にやられたのだ。

石山本願寺へは武器と兵糧が搬入され、籠城戦の更なる長期化を予感させた。
なお、このとき石山包囲軍の主力を担っていたのは、後に織田家を追い出される佐久間信盛である。

現在の大阪城周辺を舞台にした石山合戦図/wikipediaより引用

 

方面軍の結成

1577年9月、加賀(石川県)の手取川の戦いで柴田勝家率いる織田軍が上杉謙信に大敗を喫した。

秀吉が、独断で戦場から離れるというハプニングはあったものの(信長は激怒)、信玄と互角に渡り合った軍神の凄まじさをまじまじと見せつけられた織田方。

この直後、自爆大名でお馴染みの松永久秀を信貴山城(しぎさんじょう・奈良県)の戦いで滅ぼしたり、播磨に渡った秀吉が毛利方の宇喜多直家などを相手にしつつ上月城の攻略にも成功しており、織田軍の戦力・戦術に不安があるのではなく、軍神の力が大いに上回っていただけであろう(秀吉の上月城攻略で信長の怒りは解ける。非常に<現金>である)。
ともかく信長にとって立ちはだかる越後の壁はあまりに高いように思われた。

しかし、事態は劇的に好転する。
1578年3月、上杉謙信が亡くなったのである。

信玄に続いて、またもや土壇場で巨星の死。
しかもである。
その死因については酒肴のとりすぎによる脳出血との見方が有力であり、天寿を全うするというより突然死に近かったため、後継者を指名できないまま跡取り問題という遺恨を残してしまい、上杉家では、いずれも義理の息子である上杉景勝と上杉景虎による内乱が始まった(御館の乱)。

言うまでもなく、これほどの千載一遇の好機はなく、信長は斎藤利治を派兵し、上杉軍相手に勝利(月岡野の戦い)を得て、更には柴田勝家にも進軍を促し、加賀から越中へと進ませた。

かくして自然と出来上がっていったのが、家臣たちによる「方面軍」である。

畿内中央から全国地方へ。
部下たちに効率よく地域支配を進めさせるため、織田家では「方面軍」を設置したのである。※この「方面軍」という呼び方は現代に生みだされた歴史用語である。

考え方そのものは単純だ。
各軍団長に作戦の裁量を与え、自由に攻略させたのである。

細かな指示をその都度送ってヤリトリしていたらコトが進まない――という極めて合理的な考えからであろう。
先の柴田勝家などはその代表であり、北陸方面から越後を担当していたことはよく知られた話である。

他の武将たちは以下のように任ぜられた。

織田家の方面軍結成
・北陸→柴田勝家
・山陽&山陰→羽柴秀吉
・本願寺→佐久間信盛
・伊勢&伊賀→織田信雄&織田信包
・近畿→明智光秀
・四国→織田信孝&丹羽長秀
・対武田→織田信忠&滝川一益
(後に関東→滝川一益)
・東海道→徳川家康

後の豊臣政権を考えると前田利家の名前がないのが、いささかシックリしないだろうか。

利家はこのとき柴田勝家に従い、北陸の攻略に携わっている。つまり加賀百万石の礎はこのとき出来ている。
近畿担当が明智光秀というのも、本能寺の変へと続く道筋となっていて興味深い。

ただ、漠然とこんな印象をお持ちになられないだろうか。
信長は、部下に大軍を預けて、「裏切られる」という懸念はなかったのか?と。

実はそういう鷹揚なところも信長の一つのキャラクターと思えて仕方がない。
むろん、日頃は安土城で政務を取っており、いざというときの守りも万全であっただろうが、一方で本能寺をはじめとする寺に泊まることも珍しくなく、後の明智光秀にしてみればこうした状況が日頃から念頭にあったのだろう。

信長はともすれば、戦国武将で理想の上司ランキングを集計すると必ず「恐怖の対象」となるが、実績だけ見ればむしろ逆。
働く者には自由を与え、結果を出せばよいという考えのようだ。しかも戦場では自ら前にでる。
まさに理想の上司ではなかろうか?

※佐久間信盛は、石山本願寺の攻略戦で結果が出なかっただけでなく、努力を惜しんで連絡すらよこさなかったことを信長に指摘され、更には「死ぬ気でドコかの領土を切り取るか、それとも高野山に引っ込むか?」というチョイスを用意され、自ら出ていった。
その一方で、石山本願寺の攻略は破格に難しく、佐久間でなくても無理だったという見方もある。

 

鉄甲船と中国地方への進出

1578年4月、織田軍は本願寺(大阪)へ出陣した。

嫡男の織田信忠が大将となり、従う者は明智光秀や滝川一益、丹羽長秀などの重臣たち。同年3月に上杉謙信が亡くなっていたことは、同軍の出陣後に知らされたことになっていることからして、すでに兵力には相当の余裕があったのだろうか。

いざ織田方に謙信の死が報告されると、明智光秀、滝川一益、丹羽長秀の3名は丹波(京都府北部)へ進軍することとなった。

かように織田軍の勢力が安定して、方面軍が組まれたまではよい。
問題は羽柴秀吉であろう。

山陽山陰方面の攻略は、毛利元就の作り上げた毛利大国が控えており、武田家や上杉家を相手にするのと同等の厳しさがある。

秀吉は『軍師官兵衛』でお馴染みの黒田家を利用して、まずは播磨の制圧に取り掛かった。そして、当初は地元の国衆から人質を提出させたり、現代では天空の城でお馴染みの竹田城を攻略して弟の羽柴秀長を城代として入れるなど好調であった。

前述の通り、前年(1577年)には上月城の攻略にも成功しており、「我に七難八苦を与えたまえ」の台詞で知られる山中鹿介(山中幸盛)を、主君の尼子勝久と共に入城させている。
尼子にとっては悲願の同家再興の機となった。

秀吉にしてみれば、先の手取川の戦いの際、独断で戦場を離れて信長の怒りを買い、必死に播磨攻略に打ち込んだのは、これも前述の通り。
一方、信長も上機嫌になって茶器(乙御前の釜)を褒美として渡している。

ちなみに、1578年の年初には、五畿内ならびに周辺諸国の武将たちが安土城に招集されて新年の挨拶と同時に茶会が開かれている(織田信忠ほか、細川藤孝や明智光秀、荒木村重、羽柴秀吉などが参加)。

また、信長の出費で、宮中の節会(せちえ)なども久方ぶりに開かれ、信長が天皇を崇敬している様が「信長公記」にも記されている。鷹狩で捕らえた鶴を天皇と近衛前久にも進上していた。

しかしこうした平和は、中国進出においては長く続かなかったのである。

播磨(兵庫県)は、石山本願寺(大阪)から見て西方に位置しており、下手をすれば退路を断たれかねない立地。西と東から挟撃されるリスクを伴っている。

当初は織田方だった播磨三木城の別所長治も、毛利方についており、にわかにその危険性は高まっていた。
別所長治は信長に数回の拝謁をするなど、播磨平定での大きな足がかりとなっていただけに事態は決して軽んじられず、そしてその約1ヶ月後、実際に毛利の本隊も動く。

毛利輝元・吉川元春小早川隆景宇喜多直家という名だたる将たちが上月城を囲んだのだ。秀吉が攻略し、尼子一族が入っていた城である。

三木城の攻略に取り掛かっていた秀吉は、すぐに上月城へ向かったが、谷と川に遮られて手出しが出来ず。
結局、信長の指示により上月城は事実上見捨てられ、尼子勝久は自害して果て、山中鹿介も後に殺されるのであった。

苦境はまだ終わらない。
同じく1578年10月、石山本願寺を囲んでいた荒木村重が突如として織田を裏切り、摂津の有岡城(伊丹城、兵庫県伊丹市)に籠城したのである。

まだ野望を捨てていない足利義昭の働きかけもあり、毛利と同時に村重も動いたのであった。

荒木村重の籠もった有岡城(伊丹城)

その説得に向かった黒田官兵衛が約1年に渡って村重に幽閉され、織田信長に「裏切り者!」と勘違いされたのは有名な話であろう。

このとき人質に取られていた官兵衛の息子(後の黒田長政)に殺害命令が下され、竹中半兵衛が独断で匿っていたというのもよく知られた話だが、実際のところ半兵衛の独断ではなく、秀吉も把握していた可能性が高いと思われる。

このとき織田信忠の軍勢により、石山本願寺の攻略はかなり進んでいたが、有岡城が反目に回れば途端に息を吹き返しかねない。ましてや秀吉の中国侵攻も覚束なくなる。

むろん毛利方にしても正念場であり、瀬戸内海の毛利水軍―有岡城―石山本願寺ラインで織田を食い止めることは、自国の防衛にも適っていた。

そして両軍は衝突する。
いわゆる第二次木津川口の戦いだ(1578年11月)。

同合戦で最も有名なのが、信長が考案したという鉄甲船であろう。
毛利水軍の焙烙玉に対抗するために作られた――とされる鉄製の巨船であり、九鬼嘉隆の九鬼水軍に託されていた。

ただ、この「鉄製」というのは真偽の程がかなり怪しい。
鉄で覆われていたという表記は「多聞院日記」に記載されているのみで、「信長公記」にはない。重要な部分だけ鉄で覆ったなどが考えられるが、かなり大きな船であったことは間違いなく、しかも「大砲」を備えていたというから、小型船ならば相手にならなかったであろう。

実際、この大型船が建造され、和歌山沖に繰り出したところ(2ヶ月前の9月)、毛利水軍との激突前に雑賀衆の船に鉄砲や弓矢などで攻められたことがあった。

和歌山を本拠とする雑賀衆は、もともと水運にも長けていたという見方があり(その流通経路が発達して鉄砲を多く入手するようになったとも)、決して弱い相手ではない。
九鬼水軍は瞬く間にこれを撃退するのである。

そして迎えた11月、第二次木津川口の戦いが起き、九鬼嘉隆は600艘もの毛利水軍を一方的に退けるのであった。

戦いは「辰の刻(7-9時)から午の刻(11-13時)」というから数時間で終わったのであろう。数では圧倒された九鬼水軍だが、大砲を駆使して敵船体を大破させ、戦意喪失したところを撃破しまくった。

同海戦を見物していた庶民たちは感嘆としたそうである(信長公記より)。
戦争を見物する人々というとなんだか急に牧歌的な風景がアタマに浮かんでくるが、実際、合戦があると庶民はエンターテインメントとして見物していた(戦いが終わると落ち武者狩りをはじめる怖い観客でもあった)。

信長はこの巨船が完成した時点、つまり開戦前に、九鬼嘉隆へ「黄金」や「衣類」など大量の褒美を贈り、更には加増もしている。
船をみて勝利を確信して、よほど嬉しかったのだろう。おそらくや戦後も多大な褒美が渡されたハズだ。

 

有岡城の攻略

木津川口の戦いに勝利した信長は、同月(1578年11月)、摂津へ出陣した。
茨木城と高槻城での付城工作(砦の設置)を進めたのである。

両城には、荒木村重の謀反に従い、高山右近(高槻城主)や中川清秀(茨木城)が立て籠もっており、大軍で囲むと同時に両武将の調略を開始。
まず、キリシタンの高山右近については宣教師や羽柴秀吉、佐久間信盛を遣わして、「降伏するなら布教を認めるが、反抗するならこれを禁じる」とし、中川清秀の茨木城には、利休七哲として著名な古田織部(重然)ら4武将を送り込んだ。

織部と中川は親類であり、いずれも籠絡に成功する。瞬く間に荒木村重は孤立するようなカタチになった。

後の村重・妻子らの、あまりに凄惨な最期を思うと、なぜこのときに有岡城の村重も降伏することができなかったのか。

高山右近や中川清秀が、信長から褒美まで貰っていることを考えれば、あるいは命は救われたかもしれない。
と、後世の我々には不思議に思えて仕方ないが、村重は村重で毛利の救援を信じており、その判断が鈍ってしまったようだ。

有岡城は二重三重に掘や柵が設置され、織田軍の厳重な警戒が続く。

こうした包囲網は約1年続き、1579年9月、村重が突如として有岡城から(救援を要請するためか)逃亡すると、あとはもう為す術がなく落ちるのみであった。

兵は次々に討ち取られ、城代だった荒木久左衛門も11月には開城を決意。まだ反織田方であった「尼崎城と花熊城」の両城を開城させるため、久左衛門は尼崎城にいる荒木村重の説得工作に向かう。

と、これが不可思議なことに村重は一向に対決の姿勢を崩さない。
両城を明け渡せば、有岡城で人質となっていた妻子らは助ける――という条件が提示されたのに、それでも村重は応じなかった。

そこで歴史に残る凄惨な見せしめが行われる。

大河ドラマ『軍師官兵衛』では、村重の妻・だし(桐谷美玲さん・信長公記では「たし」)に悲劇がクローズアップされ、ほとんど触れられなかったが、信長は「悪人を懲らしめるため」として、かなり苛烈な処置を配下の者に命令したのだ。

以下、信長公記より要点をまとめて表記する。

・荒木村重の身内は京都で成敗するため30人余り牢へ収容→後に、京都市中を引き回して斬首
・村重配下の妻子を磔
・122人の人質を鉄砲で撃ち殺したり、槍や薙刀で刺し殺す(幼児がいれば母が抱いたまま殺す)
・中級以下の武士の妻子と侍女388人・男124人を家4軒に押し込め、枯れ草を積んで焼き殺す(「魚が反り返り飛び跳ねるように」亡くなったと記述されている)

もはやかける言葉も見当たらないほどの場面であるが、信長公記でも「これほど多数の成敗は、歴史始まって以来初めて」というから、現場は我々の想像も超えているのだろう。
以前より美人として知られた荒木村重の妻・たしは最期のときも凛として見事だったという。事前に辞世となる歌が多く詠まれており、腹を決めていたのだろうか。

なお、この有岡城包囲戦の合間に、安土城が完成し、豪華絢爛な天主(のちの天守)が披露された。

信長は狩野永徳に「梅の絵」も描かせたりしている。戦国の世のならいとはいえ、あまりに峻烈な戦場と、その一方で優雅な芸術が同居。

このころ信長は石清水八幡宮の社殿も修築したり、北条氏政との交流を深めたり(鷹が献上されたりしていた)、刻一刻と天下人への道筋を固めており、荒木の反乱はあまりに時勢の見えてない判断であった。

ちなみに安土城の大工棟梁は岡部又右衛門と言い、映画『火天の城』で西田敏行さんが演じている。
同映画では、安土城の支柱調達のため西田さん自ら木曽へ出向き、笹野高史さん扮する木曽義昌に殺されそうになっているのが興味深い。

このころ木曽はまだ、確かに武田領であった。

伊勢安土桃山文化村にある安土城のレプリカ

 

三木城の陥落と石山本願寺の和睦

1580年1月、羽柴秀吉が三木城の攻略に成功した。

荒木村重の妻子や侍女たちの悲劇は三木城城主・別所長治の耳にも届いており、「そうなりたくはない」と願った長治は、秀吉からの降伏勧告に素直に従ったのである。

「3名(別所長治・吉親・友之)は切腹するので城内の将兵たちは命を助けて欲しい」

長治は「御憐憫をもってご助命ください」と願っており、これに感銘を受けた秀吉が酒樽を城内へ送り届けると、長治は三歳の幼児を膝に置いて刺殺し、妻も同様に処すると自ら腹を切った。
介錯をした三宅肥前入道という家臣は、主君の首を切り落とした後、自らは腹を十文字に切り、腸を引きずり出して死す。

と、簡単に申し上げたものの、実際、このように十字に切って死ぬ(十文字腹という)のは相当難しく、現代医学で考察してみると、その途中で失神してしまうこともあるという(切腹の参照記事)。
最後まで敢行するには相当の気力が必要で、後に、秀吉のことを恨みに恨んで同じ切腹をしたのが、信長の息子・織田信孝であるというのは皮肉だろうか。

蛇足だが、信孝は切腹する際、次のような辞世の句を詠んでいる。
「昔より 主を討つ身の 野間なれば 報いを待てや 羽柴筑前」
秀頼の死を考えれば、まさにその報いはくだされたワケだが、話を本題へ戻そう。

三木城が降伏すると、もはやこれまでと思ったのであろうか、石山本願寺が正親町天皇の意向を受けて、信長との和睦に応じた。
門跡(リーダー)の本願寺顕如が大坂から退去するのであり、実質的には織田方の勝利である。

それが1580年4月のことだが、実際は一悶着あった。
顕如が雑賀(和歌山県)へ退いても、新門跡で息子の本願寺教如が引き続いての抗戦を主張したのである。

結局、彼らが去るのは8月になってからのこと。実に49年もの間、彼ら一向宗は石山本願寺で暮らしており、長く親しんだ土地から離れるのは辛かったのであろう、と信長公記ではその心中を察している。

最後まで残った本願寺教如一派が、いざ退去するときには、同寺を隅々まで補修・掃除をして、おまけに槍や鉄砲などの武器をすべて掛けて置いたという。そして雑賀や淡路島からやってきた数百艘の船に乗り、門徒たちは散り散りに別れていった。
※ただし、明け渡しの直後に松明の火がお堂に燃え移り、本願寺は三昼夜に渡って燃え続け、完全に灰と化した

一方、三木城の攻略に成功した秀吉は、その勢いを駆って播磨、但馬両国を制した。

更には1581年になると「城兵・民衆を大量に餓死させた」ことで知られる鳥取城も陥落(鳥取城の渇え殺し)。なお、三木城は「干し殺し」として知られ、いよいよ西国・毛利との一大決戦前夜を迎えつつあった。

信長もそんな状況を意識していたのであろう。
1581年1月には、明智光秀に命令して「京都馬揃え」という一大イベントを開催。織田家ゆかりの諸大名や国衆を従えて行う軍事パレードで、「本能寺を出発した一行は、室町通を北へ上り、一条を折れて馬場に入った」とある。
※少し細かくなるが、そのメンツを記事末に記しておく。

ちなみにこのとき信長は「大黒(おおぐろ)」とい名馬に跨っており、身にまとった衣装は細川忠興が京都を探し回って見つけたものだった。

ちなみに前年の1580年、信長は村井貞勝に命じて、本願寺に滞在するための工事をさせていた。
相変わらず鷹狩りにも精を出しており(信長公記には何度もその記述が登場する)、3月には北条氏政から献上された鷹13羽等を本能寺で受け取っている。

その取次役が滝川一益だったのは、後に甲州(武田)征伐から関東方面軍へ進めるための顔合わせだったのかもしれない。

関八州は、北条家の領国であると、信長は認めた。
※関八州……相模・武蔵・安房・上総・下総・上野・下野・常陸(or伊豆)

また、同じく1580年の6月には、明智光秀を介して長宗我部元親からも鷹16羽と砂糖が献上されている。

長宗我部元親と明智光秀の関係は後に複雑なものとなり、間もなく訪れる「本能寺の変」の原因ともされているが、2014年に再発見された岡山県岡山市の林原美術館が所蔵する史料「石谷家文書」から「やはり本能寺の変の原因の一つだったのでは」という見方が強まっている。
※史料の内容は、浅利尚民・内池英樹編『石谷家文書 将軍側近のみた戦国乱世』(吉川弘文館、2015年)。

 

高野山包囲と甲州征伐

信長に敵対した仏教勢力と言えば?

比叡山延暦寺――と戦国ファンなら誰もが即答されるだろうが、実際は彼らだけではない。
最澄がたてた延暦寺と並んで敬われる空海の高野山・金剛峰寺。実は同山も織田信長相手にトラブルを抱えていた。
1581年9月、織田軍が高野聖(高野山の僧たち)を数百人捕らえて、ことごとく成敗したのである。

この前年(1580年)、佐久間信盛親子が高野山へ追放されていたが、同山では他に荒木村重たちの残党や、信長に追われた者たちを匿っていたとされ、更には信長が派遣した使者10数名を高野山の者が殺したという。
なお、佐久間親子は間もなく熊野へ向かい、その後、信盛が死ぬと、息子の信栄は赦されて旧領を回復する。

一方で、武装していない寺社や皇室に相変わらず手厚く、このころ久しく途絶えていた伊勢神宮・式年遷宮を復興させている。

伊勢の大神宮・上部貞永が、名人久太郎こと堀秀政を通じて信長の援助を求めており、相手の希望額が「千貫(推定1億~1億5千万円)です」と伝えたところ、意外な答えが返ってきた。

「2年前に手がけた石清水八幡宮の修築では当初の見積もりは三百貫で、実際は1千貫かかったのだから、今回も多めに用意して三千貫を渡しておこう」
こんなオシャレな気遣いを見せている。仏敵や朝敵でないことはご理解いただけるだろう。

かくしていささか平穏な日々が過ぎゆくように見える最中、織田家にとっては大きな吉報がもたらされた。
1582年2月、信州木曽の木曽義昌が武田を見限り、織田方に転じるというのだ。

木曽義昌は武田信玄の娘婿であり、対織田の重要拠点であり、また最前線の防波堤でもあった。
寝返りを報告してきたのは苗木城(岐阜県中津川市)の遠山友忠であり、織田信忠を通じて信長に報告されると、木曽から織田へ人質が送られ、すぐさま武田も動く。
勝頼・信勝親子を中心とした1万5千の軍勢が出発したのだ。むろん木曽に対する出撃である。

しかしこれが同家滅亡への端緒になってしまう。

信長もすぐに対応し、駿河からは徳川家康、関東では北条氏政、飛騨から金森長近、美濃から伊那へは織田信忠と自らが進むように差配する。

武田方では長篠の合戦の敗戦後、新府城への移転などをはじめ家臣・民衆たちに対する重い負担が勝頼への不満となっていたのであろう。木曽義昌に続く裏切り者が早くも出て、しかも徳川、北条の大国から同時に攻められ、絶体絶命の状況となった。

信長は、勝利を半ば確信していたのであろうか。畿内や四国、中国地方などの軍勢の配置を慎重に指示しつつ、武田家への進軍、通称「甲州征伐」には少数精鋭で兵糧が続くようにとの指令も出した。

いざ甲州征伐が始まると、武田の守りは脆いものであった。

現代でもよく武田信玄と織田信長が対比され、信玄が全盛ならば信長に負けるわけがない――とまことしやかに語られるが、両者にはそもそもの領土経営に大きな違いがあった。

信玄は、他国・他城を制圧することがあっても決して本拠地は変えない。
一方の信長は、前述の通り、清須城、小牧山城、岐阜城、安土城と次々に移転していった。

これは単に城の本拠地を変えたということではなく、自らが進んだ領地を完全に自分のルールに従わせており、武田よりも支配力で大きく上回っていたのである。

武田家は本拠地から遠くなればなるほど支配力が弱まり、早い話、裏切られやすくなるのである。実際、木曽義昌がそうであったように。

しかもである。いざ甲州征伐が始まると、武田領内の農民たちが自宅に自ら火を放ち、織田方に流れてきて同軍を驚かせる場面があった。
農民たち曰く、武田勝頼が課する重税や関所に耐えきれなくなったばかりか、国内では賄賂が横行し、簡単に磔や斬首が行われる政治に嫌気が差していたというのだ。

果たしてドコまで真実かは不明であるが、人心が離れていたのだけは間違いなく、その証拠に武田家の中でも家格が高い信玄の甥・穴山梅雪までもが、徳川家康への帰順を示し、勝頼を裏切る。もはや武田軍は、一時、軍を撤退させて、立て直すほかなかった。

こうした状況の中、唯一、気を吐いたのが勝頼の弟・仁科盛信(にしなもりのぶ)である。
父は武田信玄(5男、勝頼は4男)、母は甲斐の名門・油川家の娘・油川夫人という、同家のエリートにして猛将。高遠城の城主である。

仁科盛信が約3,000の寡兵(一説に500)を従え、高遠城の守備についていたところへ、攻めかかった織田軍は約5万。
この絶望的な兵力の差にも関わらず、城内の将兵たちは討死覚悟で決戦に挑み、死者・負傷者は「ごった返して数え切れない」状況だった。

勇猛だったのは織田信忠も同じく、自ら武器を持って突進し、塀の上から「突入せよ!」と号令をかけたという(信長公記)。まるで昔の織田信長であるが、いささか著者・太田牛一のリップ・サービスのような気がしないでもない。

その後、織田信忠は信州・諏訪方面へ向かい、徳川家康は穴山梅雪と共に甲斐へ侵攻。一方の勝頼は、諏訪方面から信忠がやって来ると知ると、新府城に火を放って退去する。

このとき多くの人質が残され焼死したという話があり、後の勝頼愚将説を強める要因になっているのかもしれない。

ともかく、逃げ場のなくなった勝頼一行は、小山田信茂を頼ってその城へ向かうも、土壇場になって追い返され、もはや完全に逃げ道は塞がれてしまった。
勝頼の夫人や側室、信玄の娘や信虎(信玄の父)が産ませた娘など、かつて栄華を誇った女性たちも200名ほどいたが、大半は馬や輿に乗ることもできず足は血に染まり、哀れというほかない姿であったという。

1582年3月、武田勝頼は女・子供たちを引き寄せ、「花を折るように」刺殺し、そして自らも命を絶った。

彼らが絶命するまでの間、最後まで付き添った家臣たちは、全員、織田軍に襲いかかり、そして全員、討ち死にしている。

とりわけ土屋昌恒は、織田方の屈強な兵たちを何人も倒し、「比類なき働き」として讃えられている。また、勝頼の子・信勝も勇敢に戦い、後世に名を残す働きだったとして「信長公記」にも称賛されている。

1582年3月。武田家は滅びた。

 

本能寺の変

甲州征伐の後、武田家を見限った木曽義昌、穴山梅雪は信長に拝謁し、褒美を渡された。本領も安堵されている。
また、関東の北条氏政は使者を出して馬や酒、米などを献上している。

同家との取次役を果たし、関東の上野、信州二郡を受領したのが滝川一益である。

また、穴山の所領を除く甲斐ならびに諏訪一郡は河尻秀隆に任され、駿河は徳川家康、信濃の四郡は森長可に託され、更に金山・米田島(岐阜県加茂郡)は織田信長の小姓として有名な森蘭丸(長定)のものとなった。

かくして旧・武田領の配分が終わると織田信長は帰国の途につき、その途中、富士山を眺めている。
どうやら山梨県北杜市辺りからまだ雪の多い同山をとらえたようで、戦から一時でも解放されてホッとしたのであろうか、将兵たちは皆、心を踊らせたという。

一方で、武田の残党を匿ったとして甲斐恵林寺の快川紹喜和尚ほか、多くの名僧たちが殺されもしている。その数、約150人。
興味深いのは、農民たちも率先して残党狩りに勤しんでいる様子がうかがえることだろうか。

菅沼満直という長篠の国衆が討たれ、首と引き換えに黄金の褒美を受け取っている。そしてこの話が広がると、同様のケースが相次いだとの報告も寄せられた。当時の農民たちが、ただ単に蹂躙される存在でないことがわかる一面かもしれない。

また、旧武田領では織田の支配に快く思わない者もおり、飯山(長野県飯山市)では一揆が勃発した。
森長可が鎮圧することになり、約2,500人もの一揆勢が討ち取られている。女・子供も千人以上含まれており、「粉骨砕身の活躍」と評されて入るが、同武将の苛烈な性格が垣間見えるエピソードとして戦国ファンには知られているだろう。

信長が安土城へ帰ったのは1582年4月。ご存知、本能寺の変までわずか2ヶ月のことであった。

織田信長の生涯の中で、最も謎とされているもの。それが本能寺の変であることは異論はないであろう。

桶狭間の戦いについてはかなり研究が進んでいることは、前述の通り。あらためて本能寺の変前の状況を考察してみたい。

1 柴田勝家らは北陸遠征中
2 滝川一益は関東へ
3 織田信孝と丹羽長秀は四国への渡海準備
4 羽柴秀吉は高松城を水攻め
5 信長は九州平定まで視野に入れ、毛利攻めの支度を開始
6 毛利攻めの準備として、明智光秀・細川忠興、池田恒興・高山右近・中川清秀らに出陣の準備命令
7 徳川家康が穴山梅雪と共に安土城を訪問

大まかに、かような状況であった。
家康の安土城訪問で接待役に任ぜられた明智光秀が突如として解任され、メンツを潰されたことから恨みに思い、本能寺の変を起こした――という「怨恨説」が有名だが、そもそも解任されたかどうかが怪しく、信憑性はかなり疑わしいとされている。

本能寺の変は、邪馬台国、坂本龍馬の暗殺に並ぶ「3大日本史の謎」とも言われるくらいで、以下のように有力説だけでも多数ある。

幕府再興説 足利幕府に取って代わろうとする信長を止めようとした

四国説 光秀や斎藤利三が進めていた長宗我部氏との外交関係をひっくり返したことに反発

野望説 光秀が天下を狙った

遺恨説 徳川家康の接待を巡り、信長から侮辱的な扱いを受けたり、人質となった母を見殺しにされたりした

突発説 たまたま信長が本能寺で手薄な状態でいることがわかった

黒幕説 光秀に指示をした黒幕としては、朝廷、足利将軍、イエズス会などがある

高年齢説 老い先短いと感じた光秀が明智家の先行きを不安視した

読売新聞「探訪 東海百城」光秀と重臣斎藤利三の背後に四国情勢より引用)

光秀の理由はともかく、稀代の英雄織田信長は京都の本能寺にて1582年6月2日未明、この世を去った。49歳だった。

天下統一の最後のパーツをはめたのは、ご存知のように豊臣(羽柴)秀吉であった。
そして次の天下人は徳川家康。

信長は妹を嫁がせた浅井長政をはじめ、多くの裏切りにあっているが、最後まで裏切らなかった2人が天下人になれたというのは、現代人にとっても多くの学びを与えてくれるのではないだろうか。

日々、信長研究に打ち込んでおられる皆さまからのご考察もコメント欄やお問い合わせにてお待ち申し上げておりますm(_ _)m

※信長誕生日に関する追記

定説は、ポルトガルの宣教師ルイス・フロイスが「信長は誕生日の19日後に本能寺の変で焼死した」との記載から、引き算で計算された5月11日か12日。しかし、尾張などに関する信頼性の高い三つの史料で「5月28日」と記されていることを確認した。「地元の資料を丹念に調べることで、地元でも忘れられていた信長や父・信秀の歴史を掘り出すことができた」と振り返る。(読売新聞より引用)

 

織田信長・年表

1534年 誕生
1546年 元服(13才)
1549年 斎藤道三と会見(16才)・濃姫と結婚
1551年 家督を継ぐ(18才 父・信秀が死亡)
1557年 弟の信行を謀殺(24才)
1559年 京へ上洛し、足利義輝に謁見(26才)
1560年5月19日 桶狭間の戦い(27才)
1563年 小牧山城へ移動(信長が築いた初の城)
1567年8月15日 岐阜城に移転 「天下布武」の朱印を使用開始(34才)
1568年 足利義昭を奉じて上洛
1570年4月 金ヶ崎の退き口(37才 第一次信長包囲網の開始)
1570年6月 姉川の戦い(浅井・朝倉軍を撃破)
1570年8月 石山本願寺挙兵
1570年12月 朝倉家と和睦(第一次信長包囲網の終了)
1571年1月 足利義昭による第二次信長包囲網スタート(38才)
1571年9月 比叡山焼き討ち
1572年11月 武田信玄の上洛(39才)
1572年12月 三方ヶ原の戦い(織田・徳川連合軍が大敗を喫す)
1573年4月 武田信玄、死亡(第二次信長包囲網の終了)
1573年7月 足利義昭を追放して室町幕府は「滅亡」
1573年8~9月 浅井・朝倉を攻略
1574年3月 蘭奢待(東大寺正倉院の伝説的香木)を切り取る
1574年9月 長島一向一揆を全滅させる
1575年5月 長篠の戦いで武田軍に完勝
1575年8月 一向一揆の国・越前を制圧
1576年1月 安土城の築城開始(→1579年に完成)
1576年1月 第三次信長包囲網・天王寺砦の戦いでは信長負傷も大勝
1576年6月 第一次木津川口の戦い(毛利水軍に敗れる)
1577年9月 手取川の戦いで柴田勝家が上杉謙信に大敗
1577年10月 松永久秀、自爆
1578年3月 上杉謙信、急死→包囲網オワル
1578年10月 荒木村重が離反
1579年9月 第一次天正伊賀の乱(二次は1581年9月)
1580年4月 石山本願寺と和睦(大坂の地を取り、実質的勝利)
1581年2月 京都御馬揃え
1581年1月 高野山攻めを開始(未決着のまま本能寺の変へ)
1582年3月 滝川一益が武田家を滅ぼす(勝頼・信勝親子が自刃)
1582年6月 本能寺の変

イラスト:富永商太
著:編集部

織田信忠 父・信長から家督を譲られし有能な二代目は、非業な最期を迎えた

三法師(信長の孫)こと織田秀信は、清須会議の後どう過ごしたか?

織田信雄が信長の血を残す! 典型的ダメ武将の意外な結末とは?

織田信孝はどこで間違えたのか? 天下人まであと一歩だった信長三男の人生

【主な参考文献】
太田牛一『信長公記
池上裕子『織田信長』(人物叢書)
藤本正行『桶狭間の戦い』(歴史新書Y)
藤田達生『証言本能寺の変』(八木書店)
桐野作人『織田信長』(新人物往来社)
谷口克広『信長の天下布武への道』(吉川弘文館)
千田嘉博『信長の城』(岩波新書)
有光友学『今川義元』(人物叢書)
平山優『長篠合戦と武田勝頼 敗者の日本史』(吉川弘文館)
愛知県史
吉川弘文館『戦争の日本史』シリーズ

スポンサーリンク

◆京都馬揃えの陣容
一番部隊……丹羽長秀・摂津衆・若狭衆・革島一宣
二番部隊……蜂屋頼隆・河内衆・和泉衆・根来寺大ガ塚・佐野衆
三番部隊……明智光秀・大和衆・上山城衆
四番部隊……村井貞成・根来衆・上山城衆
織田一門……織田信忠・美濃衆・尾張衆・織田信雄・伊勢衆・織田信包(のぶかね)・織田信孝・織田信澄・織田長益・織田長利・織田勘七郎・織田信照・織田信氏・織田周防・織田孫十郎
公家衆……近衛前久・正親町季秀・烏丸光宣・日野輝資
旧幕臣衆……細川昭元・細川藤賢(ふじかた)・伊勢貞景・一色満信・小笠原長時
九番部隊……お馬廻り衆・お小姓衆
十番部隊……柴田勝家・柴田勝豊・柴田三左衛門尉・不破光治・前田利家・金森長近・原政茂
十一番部隊……お弓衆百人(平井久右衛門と中野一安が先導)

 





1位 直虎の後を継ぐ井伊直政とは?


2位 わろてんか主人公
吉本せい波乱の一生


3位 西郷隆盛49年の生涯!


4位 史実の真田幸村とは?


5位 最上義光 名将の証明


6位 ホントは熱い!徳川家康


7位 意外と優しい!? 織田信長さん


8位 毛利元就の中国制覇物語


9位 伊達政宗さんは史実も最高!


10位 最期は切ない豊臣秀吉


注目! 史実の井伊直虎とは?


注目 わろてんか伊能栞
(高橋一生さん)のモデル
小林一三とは?





井伊家 井伊直虎 井伊直政 小野政次 龍雲丸
織田家 織田信長 濃姫 織田信忠 織田信雄 織田信孝 三法師 平手政秀
徳川家 徳川家康 結城秀康 徳川秀忠 松平信康 酒井忠次 榊原康政 本多正信 水野勝成
豊臣家 豊臣秀吉 豊臣秀長 豊臣秀次 福島正則 加藤清正 豊臣秀頼
伊達家 伊達政宗 伊達成実 義姫
最上家 最上義光 鮭延秀綱 山形城 大宝寺義氏 山野辺義忠
毛利家 毛利元就 毛利隆元 吉川元春 小早川隆景 毛利秀元 陶晴賢
島津家 島津義弘 島津の退き口
真田家 真田幸村 真田信之
立花&高橋家 立花宗茂 立花道雪 立花誾千代 吉弘統幸
浅井・朝倉家 朝倉宗滴 姉川の戦い 金ヶ崎の退き口
前田家 まつ 豪姫 前田利長 前田利常
黒田家 官兵衛が長政を叱責の真相
北条家 河越夜戦 小田原征伐 のぼうの城の真実
細川家
仙石家
長宗我部家
武田・上杉家
諸家 足利義輝
剣豪・武術・忍者 宮本武蔵
キリシタン ルイス・フロイス
合戦 桶狭間の戦い 長篠の戦い 手取川の戦い 厳島の戦い 月山冨田城の戦い

◆薩摩藩 西郷隆盛 島津斉彬 大久保利通 小松帯刀 西郷従道
◆長州藩 木戸孝允 木戸松子 高杉晋作 山県有朋


◆古代 安倍晴明
◆江戸 葛飾北斎
◆世界史 クレオパトラ ルイ16世 チェ・ゲバラ


わろてんか毎日の感想レビュー

-週刊武春, 織田家

Copyright© BUSHOO!JAPAN(武将ジャパン) , 2017 AllRights Reserved.