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イラスト・富永商太

織田家 週刊武春

織田信長49年の生涯をスッキリ解説!【年表付き】おだのぶながは意外に優しい!?

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みなさんがよく知っている織田信長は、もう古い――なんて言ったら横暴に聞こえるかもしれないが、実際、最新の研究によってその像が崩れかけている。

一般的に信長と言えば「桶狭間の戦い」や「長篠の戦い」、そして家臣たちを頭ごなしの恫喝で支配する、紋切り型の武将像であろう。

それと同時に「楽市楽座」や「鉄砲戦術」など次々に新しいシステム・テクノロジーを生み出す天才型の傑物としても語られてきた。

果たしてこれらは全て真実なのだろうか?

答えは、否。

実は、楽市楽座は彼が最初ではなかったし、また「三段撃ち」で知られる鉄砲の戦術も、最新の研究では「なかった」可能性の方が高いと半ば決着もついている。

さらに恐怖の上司像というのも現在では崩れかけていて、むしろ「情に深い」一面や、寺社仏閣や皇室も手厚く取り扱っていた記録などもクローズアップされるようになってきた。

織田信長は優しい――。

さすがにそこまでの断言は語弊があるが、これまでの一義的な見方で判断するのが危険な状況であるのも事実だ。

そこで本稿では【織田信長の生涯マトメ】を読みやすく、できるだけ最新の学説・研究に基づいて真の姿へ迫ることを試みたい。

一体、織田信長とは?

織田信長年表(記事末にも掲載)

 

ゲームのように楽々拡大はムリ

まずは織田信長の生涯を大雑把に区分してみよう。
異論はあるだろうが、5つに大別してみたい。

【第一期~国内混乱期】
13才で元服した信長は18才で家督を継ぎ、そこからエポックメイキングとなる桶狭間の戦い(27才)までは約10年の月日を要している。

【第二期~天下布武の旗揚げ】
さらに岐阜城で天下布武を掲げるのが34才のときであるから、土台作りまでかなりの時間がかかっているのがご理解いただけるだろう。
いかに天才とてゲームのように楽々と勢力を拡大できたわけではない。

【第三期~信長包囲網】
そして岐阜を支配した後も、京都への道筋を確保しながら、幾度も危機に見舞われる。
浅井・朝倉の挟撃に遭い、足利義昭本願寺、武田、機内の諸勢力等にも包囲され、争いの終着点となる本願寺との和睦(1580年)までには更に10年もの歳月が過ぎていった。

そこからはまさしく電光石火であった。

【第四期~勢力の急拡大】
明智光秀、豊臣秀吉(羽柴秀吉)、柴田勝家、滝川一益、丹羽長秀など有能な家臣たちにそれぞれの方面軍を組織させ、織田軍を全国へ展開させたのである。

【第五期~人間五十年の最終章】
これが後の本能寺の変へとつながってしまうワケだが、その詳細は後述するとして、まずは第一期・国内混乱期の考察から進めていこう。

 

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国内の混乱期

戦国後期に天下布武の旗印を掲げ、全国を半ばまで統一した織田信長は、1534(天文3)年5月、現在の愛知県西部(尾張国)で生を受けた。

※追記 従来は宣教師の伝聞情報に基づく5月11 or 12日とされていたが、各種資料から28日が本当の誕生日である可能性が高い(記事末に読売新聞を引用)。

父は尾張守護代家に仕える清須三奉行の一人であった織田信秀
母は土田御前(どだごぜん・土田政久の娘)
幼名は吉法師といった。

生まれた場所は、かつては名古屋市の那古野城(なごやじょう・現存する名古屋城内)とされてきたが、近年は書状の分析から、信長が生まれた当時、那古野城は今川家が押さえていたことが明らかになり、勝幡城(しょうばたじょう・愛西市)での出生が確実となっている。

実は、信長は次男だった。

異母兄の信広がいて、すぐ下の異母弟・信時も実際は信長より早く生まれた兄だったとも考えられ、信長は三男とされることもある。
しかし、正妻から生まれた初めての息子である信長は最初から嫡男として育てられた。

実際、1546年に父の居城・古渡城(ふるわたりじょう・名古屋市)で元服し、那古野城主となり、1551年に父・信秀が流行病で亡くなると同家の家督をスンナリ継いでおり、相続自体には障壁がなかったことをうかがわせる。

その後、守護代家である織田家が、守護の斯波氏をクーデターで追いやったのに乗じ、織田信長は「守護を守る」との大義名分で尾張の中心だった清須城(清須市)を事実上、乗っ取る。
ここから守護代織田家の家臣筋だった織田信長は「織田本家」となった。※おおまかに戦国時代は「清須」、江戸時代以降に「清州」と表記されるようである。

若き信長と言えば、父・信秀の葬儀で焼香のとき、抹香(まっこう)を仏前へ投げつけたのはあまりに有名な話。
信長を礼賛する『信長公記』(著・太田牛一)に記されているため、ほぼ間違いないと思われ、現代においても「尾張の大うつけ」として知られる一因ともなっている。

そしてその影響で1553年、教育係の平手政秀が諫死(かんし・死でもって信長の行為をたしなめる)したというのもよく知られた話だ。

では、若いころの織田信長は手の付けられない馬鹿者・乱暴者であったのか?

というと、実際はそれほどでもなく、当時、上級武家の子息たちなら蹴鞠などお上品な作法を行儀よくお勉強をしなさいとされていた規範にそぐわなかっただけであり、信長が好んだ馬の教練などは、常に生死の問われる戦国武将にとっては、むしろ自然だったとも考えられる。

また、現代の漫画やドラマなどでは、魔王のごとく恐ろしいキャラクターで描かれることの多い信長であるが、後の史実を含めてみても実はそういった印象は薄い。

平手政秀の死に際してはこれを大いに嘆き悲しみ、愛知県小牧市に政秀寺(せいしゅうじ)を建立、臨済宗の沢彦宗恩(たくげん そうおん)にその霊を弔わせている。
※沢彦もまた信長の教育係であった。

1557年には弟の織田信行(信勝)を病気と称して呼び出し、謀殺しているが、これとて単に「気に入らなかった」というような感情的理由ではなく、信行が複数回の裏切りを画策していたからだった。

信行はその前にも兄・信長を排斥しようとして失敗。そのときは両者の実母・土田御前に諭され処分は下されることがなかっただけで、さすがに2度目の裏切りでは殺害も致し方なかった処置だった。
実際、信行を支持した柴田勝家は、許されてその後、信長に重用されている。

なお、その前年(1556年)には、妻・濃姫の父である斎藤道三が「長良川の戦い」で息子の斎藤義龍に討たれ、その際、信長が救援に向かっていたことは有名な話。
実弟の裏切りはその直後のことだっただけに、後ろ盾を失った信長が織田家を引き締めるためにも、果断な処置が求められたことは想像に難くない。

ただ単に、殺害した――とクローズアップするのは、やはりバランスを欠いた考え方であろう。

 

桶狭間の戦い

最近の研究では、父の信秀は尾張だけでなく東の三河国西部(愛知県西部)までを支配していたことがうかがえるようになっている。
ただ、信秀の急死で織田家内が内乱状態となったことで、信長は三河どころから尾張の維持すら危うくなっていた。

かように混沌としている最中、戦国時代、最大の「番狂わせ」が起きる。

1560年5月19日、桶狭間の戦いだ。

従来、この合戦は嵐の最中、少数精鋭の織田軍が、上洛(京都へ上ろうとすること)中の今川義元軍に気づかれることなく、大きく迂回して、桶狭間という窪地で休息していた義元の本陣へ攻め込み、電撃的な奇襲で義元の首をうち取った勝利とされてきた。

3~4万という兵数の今川軍に対し、2~5千の織田軍では、正面からぶつかっても太刀打ち出来るワケがないと考えられたからだ。

しかし、これは戦前の旧参謀本部が「日本戦史 桶狭間役」によってお墨付きを与えた迂回奇襲説であり、最近は疑問符が投げかけられている。

そもそも、今川義元は上洛しようとしていたのではなく、尾張国内に進出した今川方の二つの城(大高城と鳴海城)が織田方に包囲されるために救援にやってきた、国境線上の「後詰め説」が有力視されている。

もし上洛を進めるのであれば、美濃の斎藤氏や近江の六角氏など、途中の武将たちに連絡を取らねば不可能であるが、実のところ今川氏からの書状(通過を求める連絡)は残っていない。
この時点で今川が、織田、斎藤、六角といくつもの戦国武将を撃破し続けて京都に上がる可能性は極めて小さいし、そもそもその意味もないからだ。

そこで桶狭間の戦いに対する一つの有力な見方として掲げられているのが、正面突破からの偶発的勝利説である。藤本正行氏が1993年の『信長の戦国軍事学』(JICC出版局)で提示したことで知られ、迂回奇襲説に対して「正面攻撃説」と呼ばれている。

「信長公記」の記述がもとになっているから、かなり定説に近い地位を占める説となっているが、この説は現地の地理からするとかなり無理がある。
信長が出陣した善照寺砦から大高丘陵の尾根にいるとされる今川本陣まで遮蔽物がなく丸見えだからだ。

疑問を投げかけたのは、桐野作人氏や黒田日出男氏。
黒田氏は、初戦で今川軍が織田軍を徹底的に叩いた際に乱取状態(一言で言えば、勝利者が近隣を襲いまくる「ヒャッハー」な状態で今川軍が無秩序だった)になったとする「乱取状態奇襲説」を提示した。(黒田「桶狭間合戦の『甲陽軍鑑』」『立正史学』、2006年)

さらに、城攻めの観点から別の有力説が浮上して注目されている。

城郭考古学者の千田嘉博氏が2013年に『信長の城』(岩波新書)で提示した正面奇襲説だ。
3行でいうと、
①今川軍は尾根の上にはおらず山の裏側(南側)にいた。
②今川と織田はそれぞれが見えない状態だった。
③現地に詳しい信長は裏側の地形を読み切って、おけはざま山(大高丘陵)をすり抜けて奇襲をかけた
というものである。

これまでの諸説は、信長公記という唯一のテキストを解釈に解釈を加える形で行われてきたが、千田説は登場する城や砦の考古学や歴史地理の研究成果も合わせた3次元な論証を行っており、桶狭間の戦いをめぐる論争は今、次世代の段階に入ったといえる。

【現地の地形を含めてより詳しく知りたい方は以下の記事へ】
桶狭間の戦い「正面奇襲説」がよくわかる現地リポート!【マンガ解説付き】

ともかく、信長は当時の総大将としては珍しく自らが前に出るタイプであり、だからこそ桶狭間の戦いでも少ない部下を率いて攻めこむことができたことが最大の勝因であることはゆるぎない(後に石山本願寺との対戦中にも自ら寡兵で救援にかけつけるなどの記録も残っている)。

重臣たちにギリギリまで自分の意思を伝えないなど非常に高度な情報戦を展開した胆力。
そこから辺境の争いをいつの間にか大将首を取ったというミラクルにまで発展させた実力と運。
いかなる説が正確なのか不明ながら、信長の凄まじさだけは変わりはないだろう。

この戦いで信長の性格が垣間見えるのは、戦略性や実行力だけでない。

信長はこの大勝利の理由に「天候の急変」と「自分の判断の読み違え(今川軍は前哨戦で疲れ果てていると思っていたが無傷の義元本陣とぶつかった)」があったことから、その後、奇襲作戦は使っていない
要は、成功体験をあっさり捨てられることもまた、特筆した才能といえよう。

かくして日本史上に燦然と輝く快挙を成し遂げた織田信長ではあったが、前述したとおり、このとき尾張一国も完全にまとめきれていない状況だった。

※2017年8月1日の読売新聞にて「桶狭間の戦いにおいて、織田信長は六角氏と同盟を結んでいた!?」という趣旨の記事が掲載された(読売新聞)。「桶狭間合戦討死者書上」という文書が徳川美術館の特別展「天下人の城」で公開され、その中に「織田軍の戦死者のうち272人が近江国(滋賀県)の大名・六角氏からの援軍だった」という趣旨の記述が見つかった。

※ちなみに、2017年の大河ドラマ『おんな城主 井伊直虎』で注目度の上がっている井伊家も桶狭間の戦いに今川方で参戦し、多くの者が命を落としている。
同家からは後に徳川四天王の一人・井伊直政が輩出されており、もしも彼が跡を継いでなかったら徳川軍団にも多大な影響を及ぼしていたであろうから、やはりこの戦いは意義深いものであった。

 

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小牧山城の築城と岐阜城への移転

家督を継いでから、その後、天下に名前を鳴り響かせるまで、織田信長は頻繁に本拠地を変えた。

実は、本拠の移転は、他の大名にはあまりなかったことで、たとえば武田信玄は隣国・信濃(長野県)を支配するため、勢力拡大の度に前線の城を大いに利用したが、甲斐(山梨県)の躑躅ヶ崎館(甲府市)から本拠地自体を移動したことはない。

関東管領となり、同地域の名目的支配権を獲得したライバルの上杉謙信も、本拠地を南へ移せば豪雪の障害も減り、関東への侵攻は格段にラクになったハズであるのに、春日山城(新潟県)から動いたことはない(謙信は上杉家臣団のまとまりがなかったという要因もあるが)。

戦略に応じて本拠地を変える――。
過去の成功を一考だにしない――。
いずれも超合理主義者・信長ならではの偉大な才能の一つなのであろう。

その取っ掛かりとして信長に大きな影響を与えたと最近考えられているのが、1563年(永禄6)に清須城から移転した【小牧山城】(愛知県小牧市)である。

発掘調査によって注目度の高まっている小牧山城。天守風の建物は戦後に建てられた模擬天守。当時は天守はなかった

普通、信長の本拠地移転といえば、岐阜城が真っ先に挙げられがちだ。
あまり知られていない小牧山城がなぜ? と思われるかもしれないので、同城の特徴を記しておくと、

①30歳の織田信長が築いた最初の城郭
②最大三段の石垣を備えた城で、後の安土城にも影響を与えた可能性
③わずか4年間しか使われなかったために文書の記録がほとんど残っていない

平成になって行われた発掘調査で、これまで「無い」とみられていた信長期の石垣が山頂部で発見された。

本格的な都市計画に基づく城下町跡も見つかり、信長が初めて自らの手で作った城が単なる中継ぎの砦(城)ではなく、城下町を備えた本格的かつ尾張では存在しなかった石垣の城であることが判明。
小牧山城に対する注目度は高まっている(なお、前述の千田教授は発掘以前から地籍図の読み込みによって城下町の存在を指摘していた)。

実際、この城の新造に合わせて、これまで従っていなかった一族の支配地・尾張北部も手に入れ、さらにそれをきっかけに美濃国(岐阜県)へ攻め入ったのである。

極めつけは「麒麟(きりん)のサイン(花押)」であろう。

かつては岐阜城において、「天下統一の意思を示す」ものとして、「天下布武」の表明と共に、中国の皇帝が使う幻獣「麒麟」と花押の2点セットが初めて使われたとされていたが、そのうち麒麟のサインは小牧時代から使い始めていたことも分かった。

このころ美濃は、義父の斎藤道三の代から2代あとで孫の斎藤龍興が当主となっていた。
道三時代は友好だった関係も、道三の息子の義龍が軍事クーデターによって反織田に切り替わってからは、むしろ反信長の織田家の居城犬山城など尾張北方を侵食されており、清須より北の小牧山移転はこれに対応する攻守の政策決断であった。

が、義龍は急死。幼い龍興では斎藤家中はまとまらず、信長は徹底的に調略を駆使して稲葉一鉄ら「美濃三人衆」を切り崩し、1567年、ついに信長は斎藤氏の稲葉山城を陥落する。この城と城下町を「岐阜」と改名して本拠地を移転したのであった。

なお、美濃の調略工作で活躍したのが丹羽長秀や木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)だったとされている。

峻険な金華山に建つ岐阜城

 岐阜という名前は織田信長と僧・澤彦宗恩(たくげんそうおん)が初めて命名した――と考えられがちだが、実際は以前から存在しており、岐蘇(木曽)川の「岐」ならびに、土岐市の「岐」という意味が込められていた。例えば瑞龍寺の「土岐重頼画像」に「岐阜」という文字が記されている(1499年時点)。

【参考】政秀寺古記 岐阜という名前は信長の発明ではなかった!/天下人の城~徳川美術館応援団

 

第一次信長包囲網~浅井長政の裏切り

岐阜へ本拠を移動させた信長は、まず京都への道筋を確保すべく動いた。

自らが奉じた足利15代将軍・義昭の護衛(という名目)のためには、岐阜~近江~京都ルートを押さえることが肝要。
その途上を治めていた浅井長政に、絶世の美女と謳われた妹・お市を嫁がせる。

むろんこれだけでは完璧ではなく、南近江には信長に対抗する諸勢力がおり、彼らを駆逐せねばならなかった。そのうちの一つ・六角氏が最初に「楽市楽座」を行ったとする記録が残っているのが興味深い。

いずれにせよ南近江の国衆や小大名を各個撃破しながら京都への道筋を押さえた信長は、この先、運命を大きく変える判断ミスをしてしまう。
越前(福井県)朝倉氏へ攻め込み、妹婿であった浅井長政ならびに浅井家を敵に回してしまったのだ。

なぜ浅井氏は信長を裏切ったのか?

理由として挙げられるのが父・久政や家臣団の強い意向と言われており、実際、浅井氏は周辺の北近江ならびに琵琶湖権益を保持する国人衆との連合勢力であった。
ゆえに長政自身が強権を発動することはかなわず、従来通り朝倉との関係を維持することになびいて、信長を裏切ってしまったようだ。

しかし、いざ裏切った後の浅井・朝倉の行動はグダグダだった。

現代では凡将として知られる朝倉義景の生ぬるい状況判断や、その逆に激しく迅速な織田信長の逃亡劇によって、越前から京都まで無事に帰還。浅井・朝倉の猛追をしんがり軍で受け持った羽柴秀吉や明智光秀は、最後まで持ちこたえ、彼らもまた無事に逃げ戻る。
この一連の撤退戦が金ヶ崎の退き口である。

そして京都を経て岐阜城へ戻った織田信長はすぐさま浅井討伐軍を編成した。

信長にとって当面の敵は浅井となった。

上記の地図をご覧のように、信長の岐阜城(岐阜市)から小谷城(長浜市湖北町)までは直線距離で約20キロ。
山がちな土地であるため南側の大垣~関ヶ原ルートを迂回せねばならないが、それでも一日で行軍できない距離ではない。

むろん、そんな状況は浅井家でも重々承知しており、いきなり本拠地を信長に晒すわけもなく、織田軍の侵攻に備えて小谷城の南方に支城を配置、そしてこの地の攻防から、これまた後世に知られる合戦が勃発した。
姉川の戦い」である。

1570年6月、織田・徳川連合軍(1.3~4万)と浅井・朝倉連合軍(1.3~3万)がぶつかった。
発端は横山城の包囲戦から始まった野戦であり、当初、浅井・朝倉が優勢だったものが徳川の踏ん張りにより逆転、最終的に織田方が横山城奪取に成功したというのが有力説として伝わっている。

徳川の武力を世に誇るため後世に書き換えられたという説もあるが、いずれにせよ小谷城攻略への足がかりを作った信長。すぐさま浅井・朝倉を立て続けに反撃……とはならなかった。この辺りから「第一次信長包囲網」と呼ばれる苦境の時期に陥ったのだ。

まず8月、足利義昭に反対していた三好三人衆が摂津(大阪府)で挙兵。これに対処すべく出向いた織田軍の間隙をついて、全国での動員兵数が日本トップクラスの石山本願寺(のちの大坂城の場所に所在)の一向宗も立ち上がり、野田城・福島城の戦いへ発展する。

さらには浅井・朝倉・比叡山延暦寺が近江坂本へ軍を進めて織田軍は八方塞がりとなった。

次々に起こる脅威に対し、信長の周囲は生きた心地がしなかったであろう。

このとき浅井・朝倉・延暦寺の大軍に対して、寡兵で防御に徹したのが森蘭丸の実父・森可成(よしなり)であり、近江での「宇佐山城の戦い」と呼ばれる激戦で可成は命を落とすことになる。

しかし、まだ終わりではない。
尾張のお隣・伊勢では本願寺の要請で長島一向一揆が起こり、信長の実弟・織田信興が自害へ追い込まれ、すわ織田軍は滅亡か――というところで繰り出した信長のウルトラ技が「和睦」であった。

文字通り、織田軍を包囲していた浅井、朝倉、寺院勢力たちが休戦に応じたのである(1570年11月)。

織田軍を完全に囲んでおきながら、彼らはなぜそんな真似をしたのか。

そもそもは、信長が足利義昭を通じて、関白~天皇(正親町天皇)へと和睦を依頼し、それが首尾よくかなって勅命が発せられたのだった。
現代人からすればなんとも解せない外交という他ないが、ともかくこの一件で窮地を脱した織田軍はいったん帰国。一方、囲みを解いた連合軍たちはすぐさま激しく後悔することになる。




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その第一の標的が延暦寺であった。

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