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【織田信長の生涯】
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天下第一の名香と長島一揆
信玄の死により孤立した足利義昭。
これを容易に蹴散らした織田信長は、次に岐阜から京都にかけての近江、さらに越前地域を一気呵成に制する。
1573年8月、小谷城の後詰め(救援)に来ていた越前の朝倉義景が引き返すタイミングで背後から襲い、義景を自刃に追い込み、返す刀で軍を小谷城へ向け、浅井久政と長政の討伐にも成功させた。
このとき秀吉が救ったとされるのが織田信長の妹・お市と、更には彼女と長政との間にできた三姉妹であったことはよく知られた話であろう。
※三姉妹のうち、長女の「茶々」は秀吉の側室となって豊臣秀頼を産み、次女の「初」は京極高次に嫁いで関ヶ原~大坂の陣でも交渉役等で活躍、三女の「江」は徳川秀忠の妻となって三代将軍・家光を送り出す
浅井朝倉の脅威から完全に解放された織田軍。
休むことを知らず、続いて三好氏を下し、松永久秀も降伏させた。

2020年3月に高槻市の市立しろあと歴史館が発表した松永久秀の肖像画/wikipediaより引用
しかし戦いに明け暮れるばかりではない。
ちょうどこのころ織田信長は、正親町天皇から「蘭奢待(らんじゃたい)」の切り取りを許可されている。
「蘭奢待」とは、「天下第一の名香」と称される香木のことで、東大寺の正倉院に保管されていた。

天下一の名香として知られる蘭奢待/wikipediaより引用
いわば古来から国宝級のお宝であり、過去にその匂いを嗅げたのは権力の頂点に立った実力者ばかり。
織田信長が認められたということは、すなわち天皇からのお墨付きを得た……とは言わないまでも、対外的に権威のアピールに繋がったことは確かであろう。
もう、畿内ならびに周辺に邪魔な者はいない。
このまま一気に制圧して、その後は更に西へ軍を向けるのか――。
と考えるのは、やはり早計であった。
真に恐ろしいのは戦国武将や大名ではなく、宗教勢力である。
このとき織田信長を長く苦しめていた長島一向一揆によって、兄の織田信広(母は別)や弟・織田秀成(母は別)が討ち取られてしまった。
近しき者たちを殺害されて怒りを抑えることができなくなったのだろうか。
織田信長は大兵力でもって長島へ出陣し、実に門徒たち2万人を焼き討ちで全滅させた。

三重県桑名市長島町にある願証寺「長島一向一揆の殉教之碑」/photo by 立花左近 wikipediaより引用
一揆勢は3ヶ月以上の籠城で耐えきれなくなり、降参して長島から退去するところであったが、舟で脱出しているところを鉄砲で狙い撃ち。
そして城(中江・奥長島)にいた2万人は焼き殺されたのだった。
この大虐殺が、仮に兄弟を喪ったことに対する復讐であるとすれば、血の通った人間らしい一面もありながら、同時にこの上ない残虐性も併せ持った人物像が浮かんでくる。
一揆勢を軍事勢力と見るべきならば、仕方ないと判断すべきなのか。
ちなみに同合戦は天正2年(1574年)に行われ、この年が明けた翌年3月、織田信長は義元の息子で既に大名としては滅んだ今川氏真に「蹴鞠」を披露させている。
場所は京都の相国寺。
三条西実枝父子や飛鳥井雅教父子、高倉永相父子など公家も参加して、織田信長は見物を行い、翌月には公家たちに対して徳政令を発令した。
徳政令とはご存知、借金をチャラにすることである。
織田信長は、戦乱で荒廃していた京の復興を行い、貴族層たちが奪われていた旧領の復活も認めていたのであった。
あくまで推察だが、もしかしたら蘭奢待の切り取りと無関係ではなかったかもしれない。
長篠と鉄砲三段撃ち
信玄亡きあとの武田家は、果たして脆弱だったのか?
あるいは、跡を継いだ勝頼が愚将であったが故に同家は滅亡してしまったのか。
答えは「否」。
前述の通り、織田信長自身が「武田勝頼は強い」と評しており、武田家内でも同様に勝頼を評していたところがある。実際、武田家が最大の版図となったのは信玄のときではなく勝頼のときであった。

武田勝頼/wikipediaより引用
しかし同時に、その「勝頼の強さ」こそが同家にとってアダになった可能性は否定できない。
【長篠の戦い(1575年)】である。
一般によく知られた長篠の戦いは、
「鉄砲」の織田徳川連合軍(4万)に対し、「騎馬」の武田軍(1.5万)が無謀に突っ込んで次々に討ち取られた
このとき織田信長が駆使した作戦が「三段撃ち」である
という説明だろう。
日本人なら誰もが歴史の授業で習う三段撃ちは、いかにも新戦法を発想した天才・織田信長!という人物像に適って収まりがよい。
しかし、これまで伝わっているような「列を作り効率よく撃ち続けていく」という三段撃ちは、現在の研究では、ほぼ「なかった」とされている。
端的に言えば、横一列に広がった鉄砲隊が合図と共にタイミングよく弾を発射することなど、当時の鉄砲のスペックや、戦場の規模からして不可能と考えられるのだ。
ただし、織田信長が大量に鉄砲を持ち込んだのは間違いないであろう(数については1000丁から3000丁まで諸説あり)。
織田・徳川連合軍は、武田軍がやってくる進路に向けて馬防柵を設置し、陣を固め、さながら簡易山城のように準備を施した陣地で敵を待ち構えていた。
戦場となった設楽原(信長公記では「志多羅」と表記)は窪んだ地形で背後の丘陵の後ろに勝頼たちから見えないように軍勢を配することが可能だったのである。
ここで勘違いされやすいのが、武田勝頼を愚将とした見方である。
ともすれば「勝ち目もないのに無謀にも突撃した」なんて語られることもあるが、いくら勝頼が、信玄の代からの重臣たちとの折り合いが悪かったとしても、わざわざ死なせるために突撃するのは不条理すぎる。
実際の戦いが鉄砲だけで決着がついたのなら短時間で終わっているはずだが、長篠の戦いは一日がかりの戦いだった。
問題は、「鉄砲隊に対する有効な戦術は何だったのか?」ということだ。
実は当時、鉄砲隊に対して脚の速い騎馬隊を突撃させることは、一つの作戦として認知されていた。
鉄砲隊に対して、騎馬隊を突撃させる――この戦法は、突撃の間にいくらかの騎馬は討ち取られてしまうかもしれない。ただし、鉄砲の命中率自体は決して高くなく、逆に騎馬で一角を崩すことができれば十分に勝ち目だって考えられた。
勝頼は、それを実行しただけのことが、信長はその考えを上回っていた。
この合戦は普通の野戦にあらず。
織田徳川は、兵を潜ませるようにして強固な陣を築き馬防柵を設置。
武田の騎馬を蹴散らすために十分な準備を整え、武田軍からの突撃を待ち構えていたのである。
ならば勝頼もさっさと退却すればよかったではないか?
とも思うところであるが、前述の通り、一見して織田徳川軍はさほどの大軍には見えず、さらに織田信長は事前に別働隊(酒井忠次をはじめ信長の馬廻り衆や金森長近など)を進軍させて、長篠城の救援に成功させていた。
それはつまり武田軍の背後が取られたことを意味しており、勝頼としても前へ出るしかない状況となる。
弱将ならば最初から負け戦を受け入れ、早々に撤退できたかもしれない。
しかし、強いがゆえに自らの戦況打破を考えた勝頼。その結果の敗戦だったにすぎない。
武田軍は、赤備えの山県昌景をはじめ、馬場信春や真田信綱(真田昌幸の兄)など、当代きっての武将たちが突撃をかけ、そしてこれに失敗して退却すると、次々に討ち取られていった。
『信長公記』では「関東の武士たちは馬を巧みに乗りこなした」と武田の騎馬隊を警戒するような記述もあり、やはり、その破壊力は内外に認められたものだったのだろう。

長篠合戦図屏風より/wikipediaより引用
状況と結果だけを考えれば、織田信長の計算がすべて当たり、まるで神がかったかのような展開。
注目すべき点は、鉄砲の数よりも、十分な兵数の確保とその隠蔽、別働隊で背後をとるなどの織田信長の巧みな戦術眼ではなかろうか。
ちなみにこのとき、武田勝頼秘蔵の駿馬が置き去りにされ、織田信長に取られている。
馬も城も勝者の手に渡るのであった。
第三次信長包囲網
長篠の戦いで勝利した織田信長は同1575年11月、清涼殿に参上し、朝廷から権大納言、右近衛大将に任ぜられた。
全国には他の有力大名が数多いたが、朝廷によって織田信長が「天下人」に公認されたようなもので、決してその仲が険悪ではなかったことが明らかであろう。
いかにも魔王の如き織田信長像を語るとき、よく取り沙汰されるのが「自身が天皇になろうとした」という説である。
が、それは実際の行動を見る限りありえないと言うしかなさそうだ。
織田信長は皇室をないがしろにするどころかむしろ保護する立場であり、1581年には予算不足で途絶えていた伊勢神宮・式年遷宮のために資金を全額出したりしている(現在の貨幣価値で数億円規模と目される)。
その辺の政治バランスにも長けていたのであろう。
そして翌1576年、琵琶湖のほとりに安土城の建設を進める。
奉行に任ぜられたのは丹羽長秀。
米五郎左というアダ名で「織田家にはなくてはならない人物」と称された名将である。

丹羽長秀/wikipediaより引用
彼の指揮のもと、尾張・美濃近辺の武将をはじめ、畿内の大工や職人も招集された。
その建築過程で「蛇石」という巨石がどうしても引き上げられず、秀吉や滝川一益なども手伝い、1万人がかりで山頂へ引っ張りあげたという記録が残っている。
ここまで来ると、もはや天下統一も目前なのか――と思われるかもしないが現実は甘くない。いわゆる「第三次信長包囲網」が敷かれるのだ。
浅井朝倉に挟撃されて始まった第一次信長包囲網。
武田信玄の進軍で窮地に陥った第二次信長包囲網。
織田信長への包囲網と言えば、いずれも一歩間違えれば織田家が瓦解するかのごとく周囲から圧力をかけられ、本人も生きた心地がしなかったような状況である。
それに比べて第三次というのはいささか切迫感がないように感じられるかもしれない。
まず当面の目標は、西でまたも蜂起した石山本願寺。ここ数年に渡って戦ってきた相手であり、鉄砲集団・雑賀衆の助力も含めた最大の強敵だ。
実際、このときは敵兵1.5万人のところへ織田信長は3千ばかりの兵力で立ち向かい、足に銃弾が当たってケガを負っている。
それでも怯まない織田信長の気迫が最終的に勝利を呼び込んだのであろう。
この戦闘を【天王寺砦の戦い】というが、勝利した織田軍は石山本願寺を取り囲み、交通の要衝に10箇所以上の砦を設置した。
後に、織田軍の行軍スピードは神がかっている、と評価されることが多々ある。
ではなぜ、そんなに素早い移動ができるのか。
兵農分離に答えを求めることもあるが、たとえば琵琶湖畔に安土城を建てられる――その事実が、一つの回答になるだろう。
どういうことか。
現代の交通事情からあまり想像しにくいが、琵琶湖は“水上ネットワーク”としての機能が大きく、安土・岐阜から京にかけての機動性を担保していた。ここを治めていた織田家にとってはかなり盤石な体制でもあったのだ。
なお、この琵琶湖ネットワークの一つの起点になっていたのが坂本城。
明智光秀に任された拠点である。

明智光秀/wikipediaより引用
光秀がいかに信長に信頼されていたか。あるいは織田家で出世していたか。そういった点も伺えるだろう。
いずれにせよ、第三次信長包囲網はこれまでと若干毛色が変わって、織田家崩壊という切迫した危機には感じられない。
むしろ織田信長に滅ぼされる(もしくは配下に置かれる)可能性が高まった足利将軍、本願寺、全国の有力大名たちが危機感から大同団結してものであった。
ただし、いかに個別の力では織田信長が圧倒的でも、他大名たちにガッチリと手を握られたリスクとなると、織田家にとって決して小さなものではない。
石山本願寺の背後には西の大国・毛利がおり、東には弱っていたとはいえまだ武田も健在。さらに北では、信玄のライバルでお馴染み・上杉謙信が立ちはだかるようになったのだ。
織田信長配下の柴田勝家が、越前&加賀へと軍を進めており、越後の龍を刺激してしまうのも、ある意味必然だったのだろう。
しかも、である。
能島氏や来島氏が率いる毛利水軍とぶつかった第一次木津川口の戦いで織田軍は、700~800艘の敵軍に完膚なきまでの敗戦を喫していた。
このとき織田軍は石山本願寺を包囲して兵糧攻めに追い込んでいたのだが、海上では一歩も二歩も上をいく毛利水軍の焙烙火矢(火薬の入った陶器を投げ込み、爆発によって飛び散った破片で敵兵を殺傷させる武器)にやられたのだ。
石山本願寺へは武器と兵糧が搬入され、籠城戦の更なる長期化を予感させた。
なお、このとき石山包囲軍の主力を担っていたのは、後に織田家を追い出される佐久間信盛である。
方面軍の結成
1577年9月、加賀(石川県)の手取川の戦いで柴田勝家率いる織田軍が上杉謙信に大敗を喫した。
【手取川の戦い】と呼ばれる合戦である。

上杉謙信/wikipediaより引用
豊臣秀吉が、独断で戦場から離れるというハプニングはあったものの(織田信長は激怒)、信玄と互角に渡り合った軍神の凄まじさをまじまじと見せつけられた織田方。
この直後、自爆大名でお馴染みの松永久秀を【信貴山城の戦い(しぎざんじょうのたたかい・奈良)】で滅ぼしたり。
播磨に渡った秀吉が、毛利方の宇喜多直家などを相手にしつつ上月城の攻略にも成功したり。
織田軍の戦力・戦術に不安があるのではなく、軍神の力が大いに上回っていただけであろう(なお、上月城攻略で秀吉に対する信長の怒りは解けた。非常に“現金”である)。
ともかく織田信長にとって立ちはだかる越後の龍はあまりに強敵のように思われた。
が、事態は劇的に好転するのである。
というのも1578年3月、上杉謙信が亡くなった。
信玄に続いて、またもや土壇場で巨星の死。
しかもである。
その死因については酒肴のとりすぎによる脳出血との見方が有力であり、天寿を全うするというより突然死に近かったため、後継者を指名できないまま跡取り問題という遺恨を残してしまい、上杉家では、いずれも義理の息子である上杉景勝と上杉景虎による内乱が始まった【御館の乱】。

上杉景勝/wikipediaより引用
言うまでもなく、これほどの千載一遇の好機はない。
織田信長は斎藤利治を派兵し、上杉軍相手の【月岡野の戦い】で勝利を得て、更には柴田勝家にも進軍を促し、加賀から越中へと進ませた。
かくして自然と出来上がっていったのが、家臣たちによる「方面軍」である。
畿内中央から全国地方へ。
部下たちに効率よく地域支配を進めさせるため、織田家では自然発生的に「方面軍」が設置された。
この「方面軍」という呼び方は現代に生みだされた歴史用語であり、考え方そのものは単純。各軍団長に作戦の裁量を与え、自由に攻略させたのである。
細かな指示をその都度送ってヤリトリしていたらコトが進まない――という極めて合理的な考えからであろう。
先の柴田勝家などはその代表であり、北陸方面から越後を担当していたことはよく知られた話である。
他の武将たちは以下のように任ぜられた。
織田家の方面軍
・北陸→柴田勝家
・山陽&山陰→羽柴秀吉
・本願寺→佐久間信盛
・伊勢&伊賀→織田信雄&織田信包
・近畿→明智光秀
・四国→織田信孝&丹羽長秀
・対武田→織田信忠&滝川一益
(後に関東→滝川一益)
・東海道→徳川家康
後の豊臣政権を考えると前田利家の名前がないのが、いささかシックリしないだろうか。
利家はこのとき柴田勝家に従い、北陸の攻略に携わっている。つまり加賀百万石の礎はこのとき出来ている。

前田利家/wikipediaより引用
近畿担当が明智光秀というのも、後の本能寺へと続く道筋となっていて興味深い。
ただ、漠然とこんな印象をお持ちになられないだろうか。織田信長は、部下に大軍を預けて、「裏切られる」という懸念はなかったのか?と。
実はそういう鷹揚なところも織田信長の一つのキャラクターと思えて仕方がない。
むろん、日頃は安土城で政務を取っており、いざというときの守りも万全であっただろうが、一方で本能寺をはじめとする寺に泊まることも珍しくなく、後の明智光秀にしてみればこうした状況が日頃から念頭にあったのだろう。
織田信長はともすれば、戦国武将で理想の上司ランキングを集計すると必ず「恐怖の対象」となるが、実績だけ見ればむしろ逆。
働く者には自由を与え、結果を出せばよいという考えのようだ。しかも戦場では自ら前にでる。
出世欲の強い部下にとっては理想の上司かもしれない。
ちなみに佐久間信盛は、石山本願寺の攻略戦で結果が出なかっただけでなく、努力を惜しんで連絡すらよこさなかったことを織田信長に指摘され、更には「死ぬ気でドコかの領土を切り取るか、それとも高野山に引っ込むか?」というチョイスを用意され、自ら出ていった。
その一方で、石山本願寺の攻略は破格に難しく、佐久間でなく他の武将でも無理だっただろうという見方もある。
鉄甲船と中国進出
1578年4月、織田軍は本願寺(大阪)へ出陣した。
嫡男の織田信忠が大将となり、従う者は明智光秀や滝川一益、丹羽長秀などの重臣たち。
同年3月に上杉謙信が亡くなっていたことは、同軍の出陣後に知らされたことになっていることからして、すでに兵力には相当の余裕があったのだろうか。
いざ織田方に謙信の死が報告されると、明智光秀、滝川一益、丹羽長秀の3名は丹波(京都府北部)へ進軍することとなった。
かように織田軍の勢力が安定して、方面軍が組まれたまではよい。
問題は羽柴秀吉であった
秀吉が請け負った山陽山陰方面の攻略は、毛利元就の作り上げた毛利大国が控えており、武田家や上杉家を相手にするのと同等の厳しさであった。

毛利元就/wikipediaより引用
秀吉は『軍師官兵衛』でお馴染みの黒田家を利用して、まずは播磨の制圧に取り掛かる。
そして、当初は地元の国衆から人質を提出させたり、現代では天空の城でお馴染みの竹田城を攻略して弟の羽柴秀長(豊臣秀長)を城代として入れるなど好調であった。
前述の通り、前年(1577年)には上月城の攻略にも成功しており、「我に七難八苦を与えたまえ」の台詞で知られる山中鹿介(山中幸盛)を、主君の尼子勝久と共に入城させている。
尼子にとっては悲願の同家再興の機となった。

山中鹿之介(山中幸盛)/Wikipediaより引用
秀吉にしてみれば、先の手取川の戦いの際、独断で戦場を離れて織田信長の怒りを買い、必死に播磨攻略に打ち込んだのは、これも前述の通り。
一方、織田信長も上機嫌になって、茶器(乙御前の釜)を褒美として秀吉に渡している。
ちなみに、1578年の年初には、五畿内ならびに周辺諸国の武将たちが安土城に招集されて新年の挨拶と同時に茶会が開かれている(織田信忠ほか、細川藤孝や明智光秀、荒木村重、羽柴秀吉などが参加)。
また、織田信長の出費で、宮中の節会(せちえ)なども久方ぶりに開かれ、天皇を崇敬している様が『信長公記』にも記されている。
鷹狩で捕らえた鶴を天皇と近衛前久にも進上していた。
しかしこうした平和は長く続かなかったのである。
村重突然の裏切り
播磨(兵庫県)は、石山本願寺(大阪)から見て西方に位置しており、下手をすれば退路を断たれかねない立地。西と東から挟撃されるリスクを伴っている。
当初は織田方だった播磨三木城の別所長治も、毛利方についており、にわかにその危険性は高まっていた。
別所長治は織田信長に数回の拝謁をするなど、播磨平定での大きな足がかりとなっていただけに事態は決して軽んじられず、そしてその約1ヶ月後、実際に毛利の本隊も動く。
毛利輝元・吉川元春・小早川隆景・宇喜多直家という名だたる将たちが上月城を囲んだのだ。秀吉が攻略し、尼子一族が入っていた城である。
三木城の攻略に取り掛かっていた秀吉は、すぐに上月城へ向かったが、谷と川に遮られて手出しが出来ず。
結局、織田信長の指示により上月城は事実上見捨てられ、尼子勝久は自害して果て、山中鹿介も後に殺されるのであった。
苦境はまだ終わらない。
同じく1578年10月、石山本願寺を囲んでいた荒木村重が突如として織田を裏切り、摂津の有岡城(伊丹城、兵庫県伊丹市)に籠城したのである。

荒木村重/wikipediaより引用
まだ野望を捨てていない足利義昭の働きかけもあり、毛利と同時に村重も動いたのであった。
その説得に向かった黒田官兵衛が約1年に渡って村重に幽閉され、織田信長に「裏切り者!」と勘違いされたのは有名な話であろう。
このとき人質に取られていた官兵衛の息子(後の黒田長政)に殺害命令が下され、竹中半兵衛が独断で匿っていたというのもよく知られた話だが、実際のところ半兵衛の独断ではなく、秀吉も把握していた可能性が高いと思われる。
このとき織田信忠の軍勢により、石山本願寺の攻略はかなり進んでいたが、有岡城が反目に回れば途端に息を吹き返しかねない。ましてや秀吉の中国侵攻も覚束なくなる。
むろん毛利方にしても正念場であり、瀬戸内海の毛利水軍―有岡城―石山本願寺ラインで織田を食い止めることは、自国の防衛にも適っていた。
そして両軍は衝突する。
いわゆる第二次木津川口の戦いだ(1578年11月)。
木津川口の戦い
同合戦で最も有名なのが、織田信長が考案したという鉄甲船であろう。
毛利水軍の焙烙玉に対抗するために作られた――とされる鉄製の巨船であり、九鬼嘉隆の九鬼水軍に託されていた。
ただ、この「鉄製」というのは真偽の程がかなり怪しい。
鉄で覆われていたという表記は『多聞院日記』に記載されているのみで『信長公記』にはない。
重要な部分だけ鉄で覆ったなどが考えられるが、かなり大きな船であったことは間違いなく、しかも「大砲」を備えていたというから(その威力については疑問ながら)、小型船ならば相手にならなかったであろう。
実際、この大型船が建造され、和歌山沖に繰り出したところ(2ヶ月前の9月)、毛利水軍との激突前に雑賀衆の船に鉄砲や弓矢などで攻められたことがあった。
和歌山を本拠とする雑賀衆は、もともと水運にも長けていたという見方があり(その流通経路が発達して鉄砲を多く入手するようになったとも)、決して弱い相手ではない。九鬼水軍は瞬く間にこれを撃退するのである。
そして迎えた11月、第二次木津川口の戦いが起き、九鬼嘉隆は600艘もの毛利水軍を一方的に退けるのであった。

九鬼嘉隆/wikipediaより引用
戦いは「辰の刻(7-9時)から午の刻(11-13時)」というから数時間で終わったのであろう。数では圧倒された九鬼水軍だが、大砲を駆使して敵船体を大破させ、戦意喪失したところを撃破しまくった。
同海戦を見物していた庶民たちは感嘆としたそうである(信長公記より)。
戦争を見物する人々というとなんだか急に牧歌的な風景がアタマに浮かんでくるが、実際、合戦があると庶民はエンターテインメントとして見物していた(戦いが終わると落ち武者狩りをはじめる怖い観客でもあった)。
織田信長はこの巨船が完成した時点、つまり開戦前に、九鬼嘉隆へ「黄金」や「衣類」など大量の褒美を贈り、更には加増もしている。
船をみて勝利を確信して、よほど嬉しかったのだろう。おそらくや戦後も多大な褒美が渡されたハズだ。
有岡城の攻略
木津川口の戦いに勝利した織田信長は、同月(1578年11月)、摂津へ出陣した。
茨木城と高槻城での付城工作(砦の設置)を進めたのである。
両城には、荒木村重の謀反に従い、高山右近(高槻城主)や中川清秀(茨木城)が立て籠もっており、大軍で囲むと同時に両武将の調略を開始。

高山右近/wikipediaより引用
まず、キリシタンの高山右近については宣教師や羽柴秀吉、佐久間信盛を遣わして、「降伏するなら布教を認めるが、反抗するならこれを禁じる」とし、中川清秀の茨木城には、利休七哲として著名な古田織部(重然)ら四武将を送り込んだ。
織部と中川は親類であり、いずれも籠絡に成功する。
瞬く間に孤立するようなカタチとなった荒木村重。
後の村重・妻子らの、あまりに凄惨な最期を思うと、なぜこのときに有岡城の村重も降伏することができなかったのか。
高山右近や中川清秀が、織田信長から褒美まで貰っていることを考えれば、あるいは命は救われたかもしれない。
と、後世の我々には不思議に思えて仕方ないが、村重は村重で毛利の救援を信じており、その判断が鈍ってしまったようだ。
有岡城は二重三重に掘や柵が設置され、織田軍の厳重な警戒が続く。
こうした包囲網は約1年続き、1579年9月、村重が突如として有岡城から(救援を要請するためか)逃亡すると、あとはもう為す術がなく落ちるのみであった。
兵は次々に討ち取られ、城代だった荒木久左衛門も11月には開城を決意。まだ反織田方であった「尼崎城と花熊城」の両城を開城させるため、久左衛門は尼崎城にいる荒木村重の説得工作に向かう。
と、これが不可思議なことに村重は一向に対決の姿勢を崩さない。
両城を明け渡せば、有岡城で人質となっていた妻子らは助ける――という条件が提示されたのに、それでも村重は応じなかった。

荒木村重の籠もった有岡城(伊丹城)
そこで歴史に残る凄惨な見せしめが行われる。
凄惨な見せしめとは?
大河ドラマ『軍師官兵衛』では、村重の妻・だし(桐谷美玲さん・信長公記では「たし」)に悲劇がクローズアップされ、ほとんど触れられなかったが、織田信長は「悪人を懲らしめるため」として、かなり苛烈な処置を配下の者に命令したのだ。
以下、信長公記より要点をまとめて表記する。
・荒木村重の身内は京都で成敗するため30人余り牢へ収容→後に、京都市中を引き回して斬首
・村重配下の妻子を磔
・122人の人質を鉄砲で撃ち殺したり、槍や薙刀で刺し殺す(幼児がいれば母が抱いたまま殺す)
・中級以下の武士の妻子と侍女388人・男124人を家4軒に押し込め、枯れ草を積んで焼き殺す(「魚が反り返り飛び跳ねるように」亡くなったと記述されている)
もはやかける言葉も見当たらないほどの場面であるが、信長公記でも「これほど多数の成敗は、歴史始まって以来初めて」というから、現場は我々の想像も超えているのだろう。
以前より美人として知られた荒木村重の妻・たしは最期のときも凛として見事だったという。事前に辞世となる歌が多く詠まれており、腹を決めていたのだろうか。
なお、この有岡城包囲戦の合間に、安土城が完成し、豪華絢爛な天主(のちの天守)が披露された。
織田信長は狩野永徳に「梅の絵」も描かせたりしている。
戦国の世のならいとはいえ、あまりに峻烈な戦場と、その一方で優雅な芸術が同居。
このころ織田信長は石清水八幡宮の社殿も修築したり、北条氏政との交流を深めたり(鷹が献上されたりしていた)、刻一刻と天下人への道筋を固めており、荒木の反乱はあまりに時勢の見えてない判断であった。
ちなみに安土城の大工棟梁は岡部又右衛門と言い、映画『火天の城』で西田敏行さんが演じている。
同映画では、安土城の支柱調達のため西田さん自ら木曽へ出向き、笹野高史さん扮する木曽義昌に殺されそうになっているのが興味深い。
このころ木曽はまだ、確かに武田領であった。
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