織田信長

織田信長/wikipediaより引用

織田家

尾張の戦国大名・織田信長49年の生涯~数多の難敵と対峙し天下人になるまでの道

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第二次信長包囲網

一部では「魔王」(第六天魔王)とも称せられ、恐怖の対象で見られがちな織田信長

その一つの要因となっているのが「比叡山焼き討ち(延暦寺焼き討ち)」であろう。

1571年2月、佐和山城の磯野員昌を調略した織田信長は、南近江への進出を再度可能にし、比叡山へ攻めこんだ。

前年に和睦をしたばかりの延暦寺としては憤懣やるかたない状況であろうが、一方で、同山では僧兵が跋扈し、遊女も行き交うなど、そこは宗教施設というよりもはや戦場(そして歓楽街)である。

絵本太閤記に描かれた比叡山焼き討ちの様子/wikipediaより引用

織田信長としても京への途上に敵対する「軍事施設」が構えているのだから戦略的にはとても捨て置けない状況だ。宗教施設ではなく軍の拠点であれば、攻め込むのは自然なことであった。

しかも、この事件、最近の研究から、今まで広く知られてきた残虐非道なものでもなかったという見方もある。

延暦寺の焼き討ち事件――従来は、僧兵・僧侶のみならず女子供まで含め数千人が殺されたことになっていた。

が、発掘調査で、焼失した木材や大規模な白骨が出ることもなく「数字は操作されたものでは?」という見立ても強いのだ。

比叡山焼き討ち
信長の比叡山焼き討ち事件~数千人もの老若男女を虐殺大炎上させたのは盛り過ぎ?

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ただ、武力と権威を合わせ持つ有力寺院としての延暦寺が消えたことには間違いない。

目の上のたんこぶ的存在だった比叡山を攻略した織田信長の、次の目標は浅井・朝倉であった。岐阜から南近江を通り、琵琶湖水運も同時に活用して京へ進むルートは確保している。

しかし、背後には浅井の小谷城があり、周辺は常に緊張状態。いつまた寝首を掻かれそうになるかわからない。

徹底的に潰すべし――。

されど、絶体絶命の状況へ陥ったのは、またもや織田信長であった。

戦国最強と称される武田信玄がついに軍を進めてきたのである。

近年、武田信玄としてよく採用される肖像画・勝頼の遺品から高野山持明院に寄進された/wikipediaより引用

 


立ちはだかる武田軍と信玄

このとき武田信玄は、巷で言われるように京への上洛を望んでいたのか?

確かに足利義昭や畿内の諸勢力たちは信玄を頼りとして、信長討伐を催促するなど、いわゆる第二次包囲網を敷いていた。

そして実際に信玄が立ち上がり、まずは徳川領内へ侵攻してきたことも事実である。

が、上洛までの道筋はさほどに簡単ではない。

桶狭間の戦いでも触れたように、あのときの今川軍は織田家との国境争いのために大軍を動員したと考えられている。

武田軍としても、徳川と織田を撃破すれば、その先に大きな敵はいないが、合戦には兵だけでなく武器も必要だし、さらには兵糧の調整も極めて重要となる(当時の兵は、実際に配られたかはさておき一日に7~10合の米が必要だったと計算されることも)。

戦国最強の武田家とて、その事情に変わりはない。

では何が狙いだったのか?

というと、やはり織田徳川、特に徳川家康に対する圧力だったのであろう。

今川義元の息子・今川氏真から駿河国(静岡県中央部)を強奪した武田信玄は、この戦いで今川と姻戚関係のある北条氏康を敵に回していた。

北条氏康/wikipediaより引用

氏康を敵に回したのは、共に今川領へ攻め込んだ徳川も同様だが、最終的に家康は氏真夫妻を助け、北条と勝手に和睦を結んでしまったのである。

信玄は、このことに激しい怒りを覚えた。

しかも駿河を制圧すれば、徳川の遠江(静岡県西部)とはモロに隣り合わせである。

そこへタイミング良く、織田信長と仲違いをした足利義昭からの求めがあり、信玄は、大義名分を得た上で西上作戦を展開するのであった。

むろん武田家とて、織田徳川だけを相手にすればよい状況でもなかったのは皆さんご存知かもしれない。

特に越後の上杉。

積年のライバルである上杉謙信が脅威となっていれば主力を西へ向けられはしない。

そして東には、甲相駿三国同盟が破綻し、信玄に対して怒りを抱いている相模の獅子こと北条氏康もいた……のであるが、北条家が三増峠の戦いで武田に手痛い敗戦を喰らい、それから間もなく氏康が死去して事情は一変、このとき武田と北条(北条氏政)は再び手を組んでいた。

北条が武田に付けば、今度は上杉にとっては関東に目を向けなければならない状況でもある。

つまり上杉としても武田にばかり関わってる余力もなく……。

三増峠の戦い石碑

信玄、ついに動く――。

 


三方ヶ原

精強な武田騎馬軍団の中でも最強と称される赤備え・山県昌景が先陣を切って三河へ向かい、信玄本隊は、昌景と並び称されるツワモノ・馬場信春等と共に遠江へ。

対する織田信長は、これまで表面上は友好的関係を保っていた武田信玄に対して激怒し、上杉へ挙兵を求めつつ、徳川に援軍を送る。

その数、佐久間信盛と平手汎秀(ひろひで・平手政秀の息子)の約3,000。

武田3~4万に対して、1~2万とされる徳川にとって、あまりにも心もとない兵力であった。畿内で包囲網を敷かれていた織田信長も、それ以上の兵は送れなかったのである。

ついに激突する武田と徳川。一言坂の戦い、二俣城の戦いと続き、三方ヶ原の戦いへ――。

三方ヶ原の戦い(歌川芳虎作)/wikipediaより引用

結果は、連敗そして惨敗であった。もちろん負けたのは織田徳川連合軍である。

特に三方ヶ原の戦いで武田軍は、家康のいる浜松城を素通りするかのように見せておきながら、背後から奇襲を仕掛けようとする徳川を万全の体制で待ち構え、完膚無きまでこれを叩きのめした。

まさに格が違う両者であった。

家康は、生涯に二度、合戦で命の危機にさらされたと言われる。

そのうちの一つがこの三方ヶ原の戦いで、もう一つが大坂夏の陣における真田幸村特攻だ(他に【神君伊賀越え】も同様の危機とされる)。

やっとのことで三方ヶ原から逃げ出し、その際、恐怖のあまり大便を漏らしたと後世に逸話が作られるほどの手痛い打撃を負い、浜松城へは這々の体で逃げ帰るという有り様。

後を追った山県昌景が警戒心を抱くことなく同城へ攻めかかっていれば、後の江戸時代は到来せずに未来は大きく変わっていただろう。

ライトアップされた浜松城――三方ヶ原の戦い後、徳川の帰還兵を受け入れるため灯りをつけて開城していたことが山県昌景の警戒心を煽り、結果、家康の命は助かったという伝説が

風雲急を告げたのは、三方ヶ原の戦いを経て、武田軍が東三河の野田城を攻略した後のこと。

連戦連勝で徳川を追い詰めていた武田軍は急に進路を変えると、そのまま本拠地・甲斐へ帰国してしまうのである。

そう、信玄の病は、もうどうにもならないところまで悪化していた。

そして元亀4年(1573年)4月、巨星墜つ――武田信玄の死は同家によって秘密が堅持されてはいたが、その不可解な撤退劇には織田信長のみならず、当の徳川家康が最も怪訝に思ったことであろう。

だからと言って甲斐信濃へ即座に攻め込むことは難しい状況だった。跡を継いだ武田勝頼は決して無能ではないと織田信長自身が評価しており、実際に領土を拡大している。

いずれにせよ一息ついた織田信長は同年7月、足利義昭と真正面から対峙することになる。

 

足利幕府の「滅亡」は「亡命政権」か

遡ること約半年前の元亀3年(1572年)10月、織田信長は足利義昭に対して『十七条の意見書』なるものを突きつけていた。

義昭の日頃の悪行を咎める内容であり、その例を挙げると

・朝廷に参内していない
・配下の者にケチな上、気に入らないと処罰する
・寺社に対して不親切
・訴訟の仕事は放ったらかし
・米を勝手に売りさばく

などなど、これが本当であれば「義昭、悪いのはあんたでっせ」という内容。

逆恨みのように激怒した足利義昭が武田信玄の上洛を促し、信長包囲網を敷きながら、武田軍の撤退(信玄の死)によって叶わぬものとなったのは前述の通りである。

等持院霊光殿に安置されている足利義昭坐像/wikipediaより

では高々と振り上げた拳を義昭はどうしたのか?

これまでの経緯から、何処かへ逃げ延びるかと思われた義昭。驚くことに織田信長への対抗姿勢を崩さなかった。

ときに「魔王」のように称される織田信長は、実はこのときですら義昭に対して和睦の提案を示していた。それを将軍自身が拒否したのである。

足利義昭が何を根拠に抵抗していたのかは不明だ。

共に信長包囲網に加わっていた浅井朝倉に期待していたのだろうか。それとも古き熱き源氏の血脈がそうさせたのか。あるいは将軍職に対し一定の配慮を続ける織田信長を、相変わらず甘く見ていたのだろうか。

今となってはその真意は不明ながら、義昭方は、今堅田・石山の戦い、二条城の戦いで織田方に連敗を喫し、ついに槇島城へと追い込まれる。

そして元亀4年(1573年)7月、おそらく寡兵(兵数は不明)で同城に立て籠もった足利義昭は、やっぱり足利義昭であった。

城を包囲→放火されると、アッサリ降伏してしまうのである。しかも嫡男を人質に差し出して。

この合戦を【槇島城の戦い】という。

このとき織田信長が下した判断は、当代一の権力を持つ戦国大名には考えられない、甘いものであった。

「将軍を殺さずに京からの追放だけで終わらせたワシをどう思うか? その判断は後世の者たちに委ねよう。(将軍への)怨みには恩で報いるのだ」(意訳)

映像作品やマンガで同シーンをあまり見かけないが、まるで信長公記の太田牛一によって後世に伝えられることを見越していたかのような言葉ではないか。

口元に微笑を浮かべながら、現代人の我々に質問を投げかける、そんな余興だったのかもしれない。織田信長には、やはり血が通っている――。

なお、槇島城の戦いをもって、約240年続いた室町幕府は滅びた――。

と、教科書等にはそう書かかれているが、足利将軍が地方へ逃亡するのはこれまでも頻繁にあったこと。

京都を去ったことで室町幕府が滅びたというのは結果論であり、この時点で生きていた戦国人たちはみな「元亀4年に室町幕府は滅亡した」とは思っていない(この“室町幕府は滅亡していない説”を唱えたのは藤田達生・三重大教授である)。

実際、義昭は亡命先の鞆(とも・広島県)で、毛利氏の庇護のもと、各地の大名に反信長の工作をしかけ続けるのであった。

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