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【織田信長】
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天下第一の名香と長島一揆
信玄の死により孤立した足利義昭。
これを容易に蹴散らした織田信長は、次に岐阜から京都にかけての近江、さらに越前地域を一気呵成に制する。
1573年8月、小谷城の後詰め(救援)に来ていた越前の朝倉義景が引き返すタイミングで背後から襲い、義景を自刃に追い込み、返す刀で軍を小谷城へ向け、浅井久政と長政の討伐にも成功させた。
このとき秀吉が救ったとされるのが織田信長の妹・お市と、更には彼女と長政との間にできた三姉妹であったことはよく知られた話であろう。
※三姉妹のうち、長女の「茶々」は秀吉の側室となって豊臣秀頼を産み、次女の「初」は京極高次に嫁いで関ヶ原~大坂の陣でも交渉役等で活躍、三女の「江」は徳川秀忠の妻となって三代将軍・家光を送り出す
浅井朝倉の脅威から完全に解放された織田軍。
休むことを知らず、続いて三好氏を下し、松永久秀も降伏させた。

2020年3月に高槻市の市立しろあと歴史館が発表した松永久秀の肖像画/wikipediaより引用
しかし戦いに明け暮れるばかりではない。
ちょうどこのころ織田信長は、正親町天皇から「蘭奢待(らんじゃたい)」の切り取りを許可されている。
「蘭奢待」とは、「天下第一の名香」と称される香木のことで、東大寺の正倉院に保管されていた。

天下一の名香として知られる蘭奢待/wikipediaより引用
いわば古来から国宝級のお宝であり、過去にその匂いを嗅げたのは権力の頂点に立った実力者ばかり。
織田信長が認められたということは、すなわち天皇からのお墨付きを得た……とは言わないまでも、対外的に権威のアピールに繋がったことは確かであろう。
もう、畿内ならびに周辺に邪魔な者はいない。
このまま一気に制圧して、その後は更に西へ軍を向けるのか――。
と考えるのは、やはり早計であった。
真に恐ろしいのは戦国武将や大名ではなく、宗教勢力である。
このとき織田信長を長く苦しめていた長島一向一揆によって、兄の織田信広(母は別)や弟・織田秀成(母は別)が討ち取られてしまった。
近しき者たちを殺害されて怒りを抑えることができなくなったのだろうか。
織田信長は大兵力でもって長島へ出陣し、実に門徒たち2万人を焼き討ちで全滅させた。

三重県桑名市長島町にある願証寺「長島一向一揆の殉教之碑」/photo by 立花左近 wikipediaより引用
一揆勢は3ヶ月以上の籠城で耐えきれなくなり、降参して長島から退去するところであったが、舟で脱出しているところを鉄砲で狙い撃ち。
そして城(中江・奥長島)にいた2万人は焼き殺されたのだった。
この大虐殺が、仮に兄弟を喪ったことに対する復讐であるとすれば、血の通った人間らしい一面もありながら、同時にこの上ない残虐性も併せ持った人物像が浮かんでくる。
一揆勢を軍事勢力と見るべきならば、仕方ないと判断すべきなのか。
ちなみに同合戦は天正2年(1574年)に行われ、この年が明けた翌年3月、織田信長は義元の息子で既に大名としては滅んだ今川氏真に「蹴鞠」を披露させている。
場所は京都の相国寺。
三条西実枝父子や飛鳥井雅教父子、高倉永相父子など公家も参加して、織田信長は見物を行い、翌月には公家たちに対して徳政令を発令した。
徳政令とはご存知、借金をチャラにすることである。
織田信長は、戦乱で荒廃していた京の復興を行い、貴族層たちが奪われていた旧領の復活も認めていたのであった。
あくまで推察だが、もしかしたら蘭奢待の切り取りと無関係ではなかったかもしれない。
長篠と鉄砲三段撃ち
信玄亡きあとの武田家は、果たして脆弱だったのか?
あるいは、跡を継いだ勝頼が愚将であったが故に同家は滅亡してしまったのか。
答えは「否」。
前述の通り、織田信長自身が「武田勝頼は強い」と評しており、武田家内でも同様に勝頼を評していたところがある。実際、武田家が最大の版図となったのは信玄のときではなく勝頼のときであった。

武田勝頼/wikipediaより引用
しかし同時に、その「勝頼の強さ」こそが同家にとってアダになった可能性は否定できない。
【長篠の戦い(1575年)】である。
一般によく知られた長篠の戦いは、
「鉄砲」の織田徳川連合軍(4万)に対し、「騎馬」の武田軍(1.5万)が無謀に突っ込んで次々に討ち取られた
このとき織田信長が駆使した作戦が「三段撃ち」である
という説明だろう。
日本人なら誰もが歴史の授業で習う三段撃ちは、いかにも新戦法を発想した天才・織田信長!という人物像に適って収まりがよい。
しかし、これまで伝わっているような「列を作り効率よく撃ち続けていく」という三段撃ちは、現在の研究では、ほぼ「なかった」とされている。
端的に言えば、横一列に広がった鉄砲隊が合図と共にタイミングよく弾を発射することなど、当時の鉄砲のスペックや、戦場の規模からして不可能と考えられるのだ。
ただし、織田信長が大量に鉄砲を持ち込んだのは間違いないであろう(数については1000丁から3000丁まで諸説あり)。
織田・徳川連合軍は、武田軍がやってくる進路に向けて馬防柵を設置し、陣を固め、さながら簡易山城のように準備を施した陣地で敵を待ち構えていた。
戦場となった設楽原(信長公記では「志多羅」と表記)は窪んだ地形で背後の丘陵の後ろに勝頼たちから見えないように軍勢を配することが可能だったのである。
ここで勘違いされやすいのが、武田勝頼を愚将とした見方である。
ともすれば「勝ち目もないのに無謀にも突撃した」なんて語られることもあるが、いくら勝頼が、信玄の代からの重臣たちとの折り合いが悪かったとしても、わざわざ死なせるために突撃するのは不条理すぎる。
実際の戦いが鉄砲だけで決着がついたのなら短時間で終わっているはずだが、長篠の戦いは一日がかりの戦いだった。
問題は、「鉄砲隊に対する有効な戦術は何だったのか?」ということだ。
実は当時、鉄砲隊に対して脚の速い騎馬隊を突撃させることは、一つの作戦として認知されていた。
鉄砲隊に対して、騎馬隊を突撃させる――この戦法は、突撃の間にいくらかの騎馬は討ち取られてしまうかもしれない。ただし、鉄砲の命中率自体は決して高くなく、逆に騎馬で一角を崩すことができれば十分に勝ち目だって考えられた。
勝頼は、それを実行しただけのことが、信長はその考えを上回っていた。
この合戦は普通の野戦にあらず。
織田徳川は、兵を潜ませるようにして強固な陣を築き馬防柵を設置。
武田の騎馬を蹴散らすために十分な準備を整え、武田軍からの突撃を待ち構えていたのである。
ならば勝頼もさっさと退却すればよかったではないか?
とも思うところであるが、前述の通り、一見して織田徳川軍はさほどの大軍には見えず、さらに織田信長は事前に別働隊(酒井忠次をはじめ信長の馬廻り衆や金森長近など)を進軍させて、長篠城の救援に成功させていた。
それはつまり武田軍の背後が取られたことを意味しており、勝頼としても前へ出るしかない状況となる。
弱将ならば最初から負け戦を受け入れ、早々に撤退できたかもしれない。
しかし、強いがゆえに自らの戦況打破を考えた勝頼。その結果の敗戦だったにすぎない。
武田軍は、赤備えの山県昌景をはじめ、馬場信春や真田信綱(真田昌幸の兄)など、当代きっての武将たちが突撃をかけ、そしてこれに失敗して退却すると、次々に討ち取られていった。
『信長公記』では「関東の武士たちは馬を巧みに乗りこなした」と武田の騎馬隊を警戒するような記述もあり、やはり、その破壊力は内外に認められたものだったのだろう。

長篠合戦図屏風より/wikipediaより引用
状況と結果だけを考えれば、織田信長の計算がすべて当たり、まるで神がかったかのような展開。
注目すべき点は、鉄砲の数よりも、十分な兵数の確保とその隠蔽、別働隊で背後をとるなどの織田信長の巧みな戦術眼ではなかろうか。
ちなみにこのとき、武田勝頼秘蔵の駿馬が置き去りにされ、織田信長に取られている。
馬も城も勝者の手に渡るのであった。
第三次信長包囲網
長篠の戦いで勝利した織田信長は同1575年11月、清涼殿に参上し、朝廷から権大納言、右近衛大将に任ぜられた。
全国には他の有力大名が数多いたが、朝廷によって織田信長が「天下人」に公認されたようなもので、決してその仲が険悪ではなかったことが明らかであろう。
いかにも魔王の如き織田信長像を語るとき、よく取り沙汰されるのが「自身が天皇になろうとした」という説である。
が、それは実際の行動を見る限りありえないと言うしかなさそうだ。
織田信長は皇室をないがしろにするどころかむしろ保護する立場であり、1581年には予算不足で途絶えていた伊勢神宮・式年遷宮のために資金を全額出したりしている(現在の貨幣価値で数億円規模と目される)。
その辺の政治バランスにも長けていたのであろう。
そして翌1576年、琵琶湖のほとりに安土城の建設を進める。
奉行に任ぜられたのは丹羽長秀。
米五郎左というアダ名で「織田家にはなくてはならない人物」と称された名将である。

丹羽長秀/wikipediaより引用
彼の指揮のもと、尾張・美濃近辺の武将をはじめ、畿内の大工や職人も招集された。
その建築過程で「蛇石」という巨石がどうしても引き上げられず、秀吉や滝川一益なども手伝い、1万人がかりで山頂へ引っ張りあげたという記録が残っている。
ここまで来ると、もはや天下統一も目前なのか――と思われるかもしないが現実は甘くない。いわゆる「第三次信長包囲網」が敷かれるのだ。
浅井朝倉に挟撃されて始まった第一次信長包囲網。
武田信玄の進軍で窮地に陥った第二次信長包囲網。
織田信長への包囲網と言えば、いずれも一歩間違えれば織田家が瓦解するかのごとく周囲から圧力をかけられ、本人も生きた心地がしなかったような状況である。
それに比べて第三次というのはいささか切迫感がないように感じられるかもしれない。
まず当面の目標は、西でまたも蜂起した石山本願寺。ここ数年に渡って戦ってきた相手であり、鉄砲集団・雑賀衆の助力も含めた最大の強敵だ。
実際、このときは敵兵1.5万人のところへ織田信長は3千ばかりの兵力で立ち向かい、足に銃弾が当たってケガを負っている。
それでも怯まない織田信長の気迫が最終的に勝利を呼び込んだのであろう。
この戦闘を【天王寺砦の戦い】というが、勝利した織田軍は石山本願寺を取り囲み、交通の要衝に10箇所以上の砦を設置した。
後に、織田軍の行軍スピードは神がかっている、と評価されることが多々ある。
ではなぜ、そんなに素早い移動ができるのか。
兵農分離に答えを求めることもあるが、たとえば琵琶湖畔に安土城を建てられる――その事実が、一つの回答になるだろう。
どういうことか。
現代の交通事情からあまり想像しにくいが、琵琶湖は“水上ネットワーク”としての機能が大きく、安土・岐阜から京にかけての機動性を担保していた。ここを治めていた織田家にとってはかなり盤石な体制でもあったのだ。
なお、この琵琶湖ネットワークの一つの起点になっていたのが坂本城。
明智光秀に任された拠点である。

明智光秀/wikipediaより引用
光秀がいかに信長に信頼されていたか。あるいは織田家で出世していたか。そういった点も伺えるだろう。
いずれにせよ、第三次信長包囲網はこれまでと若干毛色が変わって、織田家崩壊という切迫した危機には感じられない。
むしろ織田信長に滅ぼされる(もしくは配下に置かれる)可能性が高まった足利将軍、本願寺、全国の有力大名たちが危機感から大同団結してものであった。
ただし、いかに個別の力では織田信長が圧倒的でも、他大名たちにガッチリと手を握られたリスクとなると、織田家にとって決して小さなものではない。
石山本願寺の背後には西の大国・毛利がおり、東には弱っていたとはいえまだ武田も健在。さらに北では、信玄のライバルでお馴染み・上杉謙信が立ちはだかるようになったのだ。
織田信長配下の柴田勝家が、越前&加賀へと軍を進めており、越後の龍を刺激してしまうのも、ある意味必然だったのだろう。
しかも、である。
能島氏や来島氏が率いる毛利水軍とぶつかった第一次木津川口の戦いで織田軍は、700~800艘の敵軍に完膚なきまでの敗戦を喫していた。
このとき織田軍は石山本願寺を包囲して兵糧攻めに追い込んでいたのだが、海上では一歩も二歩も上をいく毛利水軍の焙烙火矢(火薬の入った陶器を投げ込み、爆発によって飛び散った破片で敵兵を殺傷させる武器)にやられたのだ。
石山本願寺へは武器と兵糧が搬入され、籠城戦の更なる長期化を予感させた。
なお、このとき石山包囲軍の主力を担っていたのは、後に織田家を追い出される佐久間信盛である。
方面軍の結成
1577年9月、加賀(石川県)の手取川の戦いで柴田勝家率いる織田軍が上杉謙信に大敗を喫した。
【手取川の戦い】と呼ばれる合戦である。

上杉謙信/wikipediaより引用
豊臣秀吉が、独断で戦場から離れるというハプニングはあったものの(織田信長は激怒)、信玄と互角に渡り合った軍神の凄まじさをまじまじと見せつけられた織田方。
この直後、自爆大名でお馴染みの松永久秀を【信貴山城の戦い(しぎざんじょうのたたかい・奈良)】で滅ぼしたり。
播磨に渡った秀吉が、毛利方の宇喜多直家などを相手にしつつ上月城の攻略にも成功したり。
織田軍の戦力・戦術に不安があるのではなく、軍神の力が大いに上回っていただけであろう(なお、上月城攻略で秀吉に対する信長の怒りは解けた。非常に“現金”である)。
ともかく織田信長にとって立ちはだかる越後の龍はあまりに強敵のように思われた。
が、事態は劇的に好転するのである。
というのも1578年3月、上杉謙信が亡くなった。
信玄に続いて、またもや土壇場で巨星の死。
しかもである。
その死因については酒肴のとりすぎによる脳出血との見方が有力であり、天寿を全うするというより突然死に近かったため、後継者を指名できないまま跡取り問題という遺恨を残してしまい、上杉家では、いずれも義理の息子である上杉景勝と上杉景虎による内乱が始まった【御館の乱】。

上杉景勝/wikipediaより引用
言うまでもなく、これほどの千載一遇の好機はない。
織田信長は斎藤利治を派兵し、上杉軍相手の【月岡野の戦い】で勝利を得て、更には柴田勝家にも進軍を促し、加賀から越中へと進ませた。
かくして自然と出来上がっていったのが、家臣たちによる「方面軍」である。
畿内中央から全国地方へ。
部下たちに効率よく地域支配を進めさせるため、織田家では自然発生的に「方面軍」が設置された。
この「方面軍」という呼び方は現代に生みだされた歴史用語であり、考え方そのものは単純。各軍団長に作戦の裁量を与え、自由に攻略させたのである。
細かな指示をその都度送ってヤリトリしていたらコトが進まない――という極めて合理的な考えからであろう。
先の柴田勝家などはその代表であり、北陸方面から越後を担当していたことはよく知られた話である。
他の武将たちは以下のように任ぜられた。
織田家の方面軍
後の豊臣政権を考えると前田利家の名前がないのが、いささかシックリしないだろうか。
利家はこのとき柴田勝家に従い、北陸の攻略に携わっている。つまり加賀百万石の礎はこのとき出来ている。

前田利家/wikipediaより引用
近畿担当が明智光秀というのも、後の本能寺へと続く道筋となっていて興味深い。
ただ、漠然とこんな印象をお持ちになられないだろうか。織田信長は、部下に大軍を預けて、「裏切られる」という懸念はなかったのか?と。
実はそういう鷹揚なところも織田信長の一つのキャラクターと思えて仕方がない。
むろん、日頃は安土城で政務を取っており、いざというときの守りも万全であっただろうが、一方で本能寺をはじめとする寺に泊まることも珍しくなく、後の明智光秀にしてみればこうした状況が日頃から念頭にあったのだろう。
織田信長はともすれば、戦国武将で理想の上司ランキングを集計すると必ず「恐怖の対象」となるが、実績だけ見ればむしろ逆。
働く者には自由を与え、結果を出せばよいという考えのようだ。しかも戦場では自ら前にでる。
出世欲の強い部下にとっては理想の上司かもしれない。
ちなみに佐久間信盛は、石山本願寺の攻略戦で結果が出なかっただけでなく、努力を惜しんで連絡すらよこさなかったことを織田信長に指摘され、更には「死ぬ気でドコかの領土を切り取るか、それとも高野山に引っ込むか?」というチョイスを用意され、自ら出ていった。
その一方で、石山本願寺の攻略は破格に難しく、佐久間でなく他の武将でも無理だっただろうという見方もある。
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