武田信玄の懐刀・山本勘助は……天才と言うよりもっと土臭い、野生なイメージだと思います。
太原雪斎も、天才というより僧侶ならではの老獪な策士という感じですし、この両者よりも比較的「天才」に近いのが黒田官兵衛ですかね。
しかし。
他ならぬ大河ドラマ『軍師官兵衛』で、彼よりもっと「天賦の才」という言葉に近い武将が出ておりました。
そうです。竹中半兵衛(重治)です。
ドラマに限らず、数々の小説やマンガ、ゲームの中でも「白皙(はくせき)の名軍師」とされ、黒田官兵衛に並び称される名将として描かれますが、一方で、実際は意外と地味という評価も聞かれたりします。
いったい史実の竹中半兵衛とは、どんな人物だったのでしょうか?
天正7年(1579年)6月13日が命日となった、その生涯を振り返ってみましょう。
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竹中半兵衛の出自は美濃土豪
天文13年(1544年)。
半兵衛(本稿はこの名で統一)は、美濃国に誕生しました。
父は大御堂城主・竹中重元。母は妙海大姉(杉山氏)。
竹中氏は、本姓桓武平氏の鎌倉氏庶流とされています。室町期は、美濃守護の土岐氏の家臣でした。
本拠は大野郡大御堂城で、半兵衛もそこで誕生。
天文14年(1545年)に父の重元が岩手弾正を攻略すると、以降、岩手山城に本拠を移し、半兵衛もこれに従いました。
竹中重元は、天文年間(1532-1555年)に土岐氏が没落すると、代わって台頭してきた美濃の斎藤氏に仕えます。
そして永禄3年から5年(1560-1562年)頃に、父の死を受け、家督を相続することになりました。
稲葉山城乗っ取り事件
永禄7年(1564年)。
現代まで半兵衛の名を驚異的に高めた出来事が起こります。
稲葉山城乗っ取り事件です。
これは一体、どういう顛末だったのか?
当時の状況から説明して参りますと、半兵衛の主君・斎藤家当主は、その3年前の永禄3年(1560年)に家督を継いだ斎藤龍興でした。
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この龍興、政務に無関心なばかりか、要となる西美濃三人衆や半兵衛ら家臣を遠ざけていました。
尾張の織田信長が圧力を強めており、やる気を失ってしまったのです。
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そこで半兵衛は過激なやり方で「喝」を入れることにしました。
他でもありません。舅の安藤守就と共に居城・稲葉山城(のちの岐阜城)を攻略するというもの。
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わずかな手勢で城を乗っ取ると、半兵衛はその城を龍興に返し、近江の浅井長政を頼って辞去したともされます。
実際は、斎藤龍興の反撃に遭い城を出ています。
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半兵衛は、領土欲や野心の薄い人物とされることがあります。
そのイメージはこうした行動が元になっていると思われますが、いかんせん潤色された逸話ですので、本当に無欲だったかはわかりません。
ただ、能力が高かったことだけは間違いないでしょう。
龍興が織田信長に破れたあと、浅井長政の客分となり、1年後の永禄11年(1568)には旧領に戻って隠棲しました。
信長、そして秀吉に仕える
隠棲したからと言って有能な半兵衛が放って置かれるわけもありません。
美濃を攻略した信長は、半兵衛に仕官して欲しいと持ちかけます。
ただし、彼が本当に伝説的な軍師だから――そう見做すことにはちょっと注意が必要です。
半兵衛の経歴について気になるのが三国志や関連作品でお馴染み「諸葛亮」の存在です。
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「三顧の礼」で誘われたとか。
半兵衛が信長より秀吉の方が優れていると見込んだとか。
諸葛亮と劉備の話をトレースした流れで盛られる傾向にあり、そのへんはあくまでフィクションとして楽しむほうが良さそうです。
ぶっちゃけると創作ですね。
実際には、豊臣秀吉の家臣として信長の支配下に入る「与力」扱いでした。
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無論、半兵衛は優れた人物ですが、浅井長政と対立している信長にとって、敵に近い人脈を持つ将は、それだけで魅力があったのは確かでしょう。
実際に半兵衛は、浅井人脈を活用した調略を行っています。
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スーパー軍師像があまりに輝かしいため、かえって実像が見えにくいのですね。
変な言い方ですが、半兵衛はごくごく有能な「武将」です(そもそも軍師という言葉は後に作られたイメージの職です)。
秀吉配下の「両兵衛」
半兵衛は、そのあと秀吉が中国攻めの総大将に任じられると、その家臣として中国に向かいます。
天正6年(1578年)には、宇喜多氏の備前八幡山城攻略で功績。
このころには、同じく秀吉の家臣であった黒田官兵衛孝高とも親しくするようになりました。
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秀吉配下の「両兵衛」とは、この半兵衛と官兵衛をさすことは、よく知られています。
・名前も似ている
・どちらも有能な軍師
そんなわけで、二人はコンビ単位で扱われるわけです。
しかし、くどいようですが、両者とも活躍はかなり誇張されている。そこは考えるべきでしょう。
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