歴史で「兄弟」や「親戚」の話になると、それだけでもう血生臭い話題になりがちです。
しかし、ごく稀に例外もいて、日本で言えば豊臣秀吉と、その弟・豊臣秀長もその代表になるのではないでしょうか。
豊臣秀長が天正十九年(1591年)1月22日に亡くなってから「秀吉の暴走が始まった」とも囁かれたりします。
つまり、それだけ兄を支えていた――というわけですが、具体的に何をやっていたのか?というと意外とご存じない方もおられるかもしれません。
豊臣秀長の生涯を見て参りましょう。
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豊臣秀長と秀吉15年ぶりの再会
秀長は天文九年(1540年)、尾張に生まれました。
兄・秀吉とは三歳差で、父親が同じなのかどうかについては、はっきりしていません(2021年現在)。
当時にしては歳の近い兄弟でしたが、秀吉が十代半ばで家を飛び出したせいか、幼少期のエピソードはないようです。
再会するのは秀吉がねねと結婚した後、永禄五年(1562年)のこと。
秀吉が家を出てから、だいたい15年ぐらい後の話です。
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秀長は兄が来るまで、百姓として田畑を相手に暮らしていたようです。
22歳になっていたはずですから、当時の社会通念では、とっくに妻を迎えて、子供の2~3人いてもおかしくないところ。しかし、秀長にはどちらもいませんでした。
これが後に、彼や豊臣家の運命を左右することになります。
なぜ秀吉がいきなり弟に会いに来たのか?
というと、切実に家来が足りなくなっていたからです。
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この頃、秀吉は足軽組頭となり、数十人程度の部下を持っていました。
元が百姓であること。
何のコネもなかったであろうことを考えれば、これだけでも相当な出世といえます。
しかし、もっと上を目指すのなら、信頼できる家臣を一人でも増やさねばなりません。
そこで真っ先に候補に上がるのは血縁者。
秀吉には男きょうだいが秀長しかいなかったので、召し抱えにやってきた……というわけです。
家臣たちの細かなケアを請け負っていた
秀長は若い頃からもともと温厚な人だったようで、秀吉の部下たちともすぐに打ち解けました。
大所帯になると、とかく揉め事が起きやすいもの。
ちょっとしたケンカや禄(給料)への不満など、些細な不満が積もり積もって大爆発……などという話は、枚挙に暇がありません。
個々人の感情のぶつかり合いは防げませんが、禄に対する不満は主人が解決してやれる可能性があります。給料が高ければ高いほど喜ぶのは、戦国人でも現代人でも同じです。
秀吉も秀長もそれをわかっておりました。
秀吉はエネルギッシュに立ち回って、戦功を挙げて信長から少しでも多く禄をもらい、家臣に分け与えるために、遮二無二動かねばなりません。
調略や工作などで、留守にすることも珍しくない。
となると、細かいところに目が行き届かないことも多々あったでしょう。そういうところのフォローをしたのが秀長であり、この構図は、生涯ずっと続きました。
ちなみに、秀吉は姉妹の夫や義兄(妻・ねねの兄)なども家臣に加えていましたが、やはり農民から侍への転身はうまくいかず、秀長ほどの活躍はできておりません。
金ヶ崎の撤退戦でも兄を補佐して活躍
この頃、秀吉の主である織田信長は、美濃の斎藤氏攻略へ向けて動いていた時期でした。
※尾張を完全に統一したのが永禄8年(1565年)で美濃を陥落させるのが永禄10年(1567年)
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まずは東美濃の有力な武士たちに工作を仕掛け、引き抜いて織田氏につかせています。
この調略に、秀吉は少なからぬ功績を挙げ、2000人ほどの部下を抱えるようになりました。
真偽はさておき【墨俣一夜城】の伝説はこの頃のものです。
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ちょっとした城(砦)なら普請できる程度の家臣がいたからこそ、そのような英雄譚が生まれたわけですね。
永禄10年(1567年)に斎藤氏攻略が成功し、翌1568年に将軍・足利義昭を奉じての上洛戦が終わると、信長は京都での政務もするようになります。
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京都で活動する吏僚や警護役の武将を残しているのですが、その中に秀吉も含まれていました。
となると、もちろん秀長も京都で過ごすことが多くなったでしょう。
浅井長政に裏切られ、命からがら撤退した【金ヶ崎の退き口】では、秀吉隊の一員として殿(しんがり)を務めていました。
これによって秀吉は信長から褒美に黄金20枚をもらっていますが、秀長の働きも大きなものだったと考えられています。
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秀長は殿隊の中でも最も重要な、最後尾を担当していました。
秀吉から「信長様が出発して二刻(約四時間)だけ粘り、その後は粘らずさっと退いて、俺に追いつくように」と命じられてその通りに動き、見事役目を果たしたのです。
はっきりした記録はないものの、黄金20枚のうちいくらかは秀長にも分け与えられたことでしょう。
半兵衛と共に信長にも信頼されていた!?
浅井長政裏切りの報復戦として【姉川の戦い】が終わると、秀吉は浅井領から織田領になったばかりの横山城(長浜市)を任されます。
もちろん秀長もこれに同行。
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しかし、秀吉は京都での仕事がなくなったわけではなかったので、頻繁に城と行き来せねばなりません。
また、浅井氏の攻略までの間にもいくつかの戦があり、秀吉は信長に従ってあちこちへ出陣しています。
こうなると、城主であっても城にいるのはほんの僅かな時間だけ。やはりそういうときには、旧領を取り戻そうとする浅井方の動きが多くなります。
秀長は、竹中半兵衛(重治)と共に浅井方をよく迎撃し、城を守りました。
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半兵衛が秀吉の下に来たのは姉川の戦いの前だといわれていますし、当然それは信長も知るところ。
軍記物等では「秀吉が三顧の礼をして半兵衛を幕下に迎え入れた」とか「半兵衛が秀吉の将来性を見出して、信長ではなく秀吉に仕えたいと言った」ということになっていますが、現在では「信長が秀吉の部下として半兵衛をつけた」という説が有力です。
となると、信長は秀吉本人を評価するとともに「秀長や半兵衛がいれば、秀吉が留守にしているときも横山を守りきれる」と判断し、この地を任せたのでしょう。
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