名護屋城

【TOP画像】復元された名護屋城・佐賀県立名護屋城博物館公式サイトより引用

豊臣家

豊臣軍15万が名護屋城から朝鮮出兵!なぜ秀吉は超巨大城郭を築いた?

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天守の建築には官兵衛の得意技が用いられた?

名護屋城で特筆すべきはその巨大さです。

五層七階の天守に、曲輪は二の丸と三の丸にプラスして「遊撃丸」や「弾正丸」といった独自の名のものがあります。

そして大坂城同様に山里丸(曲輪)を外側に配しています。

城下には全国各地の大名が陣所を築き、名護屋の地を建築物で埋め尽くしました。

城郭の普請奉行には黒田長政(豊後・中津城)、加藤清正(肥後・熊本城)、西行長(肥後・宇土城)、という九州に本拠地を置く秀吉子飼いの武将たちを任命しています。

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名護屋城の大天守は北西の隅櫓すみやぐら(城の隅に建てられた)の位置にあり、これは玄界灘に最も近いところに配されています。

ここで注目すべきは、本丸の隅櫓の1つを大天守にする建築術が黒田官兵衛の得意技だったということでしょう。

豊臣時代の大坂城も同様に設計されております(徳川期の大坂城天守は、天守をど真ん中に配置する独立式)。

おそらく長政の相談役として黒田官兵衛が助言したのでしょうね。妄想は膨らみます。

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すべて海側を向いている

最新技術が投入されたのは石垣も同様です。

これまでの石垣は、自然石をうまく組み合わせて築き上げた野面積みでした。

が、名護屋城の石垣は、表面に自然石の凹凸が出ないように、石を割って作られていて、最終的にきれいな平面に仕上がるように築かれております。

同城では、特に海側に向かって積み上げられています。

名護屋城-6

徳川の時代になって破城され、残念ながら現代の名護屋城石垣は多くがこのような姿になっています

ちなみにこの技術は、見た目がとてもきれいな為、この後、全国へ伝播。

一般的な石垣工法となって参りますが、実は、自然石同士の隙間がなくなり、遊び(バッファ)が減るため「地震に弱い」とされています。

このように細かいところを見ていくとキリがないのですが、名護屋城の最も大きな特徴は、大天守や表面を加工した最新の石垣など「見せる」要素が【すべて海側を向いている】ということです。

海上から名護屋城を見たときの壮麗さや、威厳を出す演出になっていたのですね。

明や朝鮮からやってくる使者には、日本の軍事力や財力を、出撃していく兵士には安心感を、参陣した全国の大名には豊臣家の威信を見せつける造りなのです。

こうした【見せるための城】というのも、秀吉の城の特徴です。

古くは織田信長の安土城に始まりますが、

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秀吉がさらに発展させました。

 

通路が6回も折れ曲がる防御用の道を併設

秀吉の城の特徴の一つに【山里丸】という曲輪の存在があります。

大坂城や伏見城にもあり、名護屋城にもわざわざ城から離れた、防御にはやや不向きな場所に造られています。

同城の山里丸は広大で、小高い山を含む上山里丸と、低い位置の下山里丸に分けられます。

この二つの山里丸は庭園の要素を持っており、城の中では防衛というよりも遊びの場として活用。

秀吉在陣時には、ここで茶会が開かれたり、瓜畑では大名の仮装大会も開かれました(瓜畑の場所は諸説あります)。

もちろん曲輪ですので、城外から本丸までの縦深を広げるという意味では防御能力があるのですが、しかし山里丸を城山の低い場所にまで拡げてしまったばかりに城外との高低差がなくなり、このままでは軍事的には全く無意味な曲輪となってしまいます。

そこで普請奉行たちは、山里丸の外側を掘り下げて巨大な水堀を構えて防御能力を高めました。

この形がしゃちほこに似ていることから「鯱鉾池」と呼ばれています。

山里丸は、よほど心もとなかったのでしょう。実はもう一つ防御の工夫があります。

下山里丸から山上の上山里丸に向かう道(山里口)は、なんと通路が6回も折れ曲がる防御に特化した道になっているのです。

6回も折れがあれば上山里丸に到着する頃に敵は全滅です。

この「そこまでやるか感」は熊本城に通じるものがありますね。加藤清正の発案なのかどうかは分かりませんが、妄想は膨らみます。

熊本城に「そこまでやるか感」は受け継げれています

熊本城にもある堅い防御の「そこまでやるか感」・確実に受け継がれているようです

名護屋城では、低い位置に山里丸を造ってしまったばかりに水堀を構え、さらに複雑な折れを持つ通路を作ることになってしまいました。

単なる遊びの場として片付けられない。

天下人が遊ぶのもまた命がけ、戦いの一環なのです。

と、まとめると響きは良いですが、城の普請を命じられた部下はたまったものではありません。秀吉の望み通り【山里丸】を構えたとはいえ、城の防御力を落としては本末転倒です。

秀吉の望みを叶えつつ防御力も高めるという一見矛盾するコンセプトを解決してこそ秀吉子飼いの面目躍如なのです。

朝鮮半島では反目しつつも共に苦労した黒田長政、加藤清正、小西行長。名護屋城の築城では、これまでの他の城とは大きく異なる苦労も伴いました。

太閤の夢の跡「名護屋城」には、彼らの汗が多く染みこんでいます。

「秀吉子飼いの武将とは如何なるものか?」

名護屋城跡を訪れると、その一端を感じることができるかもしれません。


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その他の過去記事はコチラへ→お城野郎!

筆者:R.Fujise(お城野郎)

武将ジャパンお城野郎FUJISEさんイラスト300-4

日本城郭保全協会 研究ユニットリーダー(メンバー1人)。

現存十二天守からフェイクな城までハイパーポジティブシンキングで日本各地のお城を紹介。

特技は妄想力を発動することにより現代に城郭を再現できること(ただし脳内に限る)。

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