慶長元年(1597年)12月19日は、長崎で二十六人の日本人キリシタンが処刑された日です。
命令を下したのは豊臣秀吉。
犠牲になった人々は”日本二十六聖人”として現代にまで伝えられ、その一方、晩年を控えて耄碌した秀吉の老害や残虐性が語られたりします。
しかし、事はそう単純でもありません。
直前にサン・フェリペ号事件という一件があり、秀吉にも、強硬な姿勢に出なければならない理由がありました。
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国土侵略ならびに奴隷売買への警戒
封建主義の江戸幕府が「神のもとでは、みな平等」というキリスト教を邪魔扱いするのはわかります。
ではなぜ、それ以前の豊臣秀吉が警戒したのか?
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理由は主に2つ。
・キリスト教の布教に伴う国土侵略への警戒
・日本人の奴隷貿易への警戒
国土侵略というのは文字通り。
スペインとポルトガルは1494年に結んだ【トルデシリャス条約】で世界を半分ずつ領有する取り決めを交わしており、布教を基点として侵略をするこの二国に警戒心を抱いておりました。
奴隷貿易とは、これまた文字通り、日本人の人身売買を行っていたんですね。
主に戦争で獲得した人々を九州からマカオへ運び、そこから世界のどこかへ売られていきました。
売られていった女性(少女)の中には、船中で商人の妾として扱われた例も記録に残されています。
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戦国時代ですから日本中の各地でこうした人攫い&売買は行われ、かつて秀吉自身も携わったことも明白ですが、すでに天下統一も成し遂げた状態で、それを放置するのは統治者としては許せるワケはありません。
こうした国防上の懸念から1587年に【バテレン追放令】を出して宣教師たちの布教を禁じ、しばらくはナァナァでやり過ごしていたところ、慶長元年(1596年)に大事件が起きました。
それが【サン・フェリペ号事件】です。
サン・フェリペ号事件
慶長元年(1596年)の夏、マニラからノビスパニア(メキシコ)へ向かうスペイン船が嵐に遭遇。
土佐(高知県)の浦戸に漂着しました。
長宗我部元親の要請を受け、豊臣政権の五奉行である増田長盛が取調べを行っていたところ、水先案内のフランシスコ・デ・オランディアが、こんな風にガンギレします。
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「てめぇら、いい加減にしろ! オレら、スペインは強ぇんだ! 見てみろ、この地図をよ。世界中に領土があり、それに引き換え、お前らハポンなんてこんなゴミみたいな存在じゃねーか! さっさと積み荷を返しやがれ! じゃないと攻め込むぞ、おぉ!」
ある程度は、売り言葉に買い言葉という一面もあったでしょう。
しかし、それで情状酌量してやるほど秀吉はお人好しではありません。
かねてから【宣教師→布教→植民地化】というスペイン・ポルトガルのやり口に危機感を抱いていた秀吉は、この一件でその危険性を再確認。
ただちに取締を始めることにしたのです。
それが【日本二十六聖人】へと繋がっていくのです。
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